静止する時間の中で思考は熟する
宙に浮かぶ沢山の瓶が、確かに今この瞬間、時間が止まっていることを証明している。
うん。なんか楽しくてついつい投げすぎてしまったのだ。不思議な景色というのはそれだけで心躍るもので──だけどまあ、中庭の空いっぱいの瓶はちょっとやりすぎたな、とは思う。
中身やばいやつあったかな……? うーん、楽しくなってたのでちょっとわからない。あったかもしれないしそうでもないかもしれない。少なくとも猛毒とか即死系のやつはないはずだけど……とはいえ、中身が漏れたらどれも大概やばいか。
時間が再稼働するってところでしっかり全部キャッチしよう。
合図はしてね、メリー。
「ん。うごかす。いう」
「ほんとよろしくね……? それにしても、いやー壮観だなぁー。何が壮観って今更しまうこともできなくなってるところとか」
「……こんなに投げる前に気づくべきことでしょう、キフィ」
「いやでも、不思議な景色ってそれだけで心踊るものがあるっていうか……」
僕がそんなことを言うと、シア様は意外な表情を見せた。
「……おまえの口から。そのような冒険者らしい発言を聞いたのは、初めてかもしれません」
「冒険者らしくはないです」
僕は抵抗した。断崖から雲ひとつない青空を見渡したりとか、そういうものに憧れる気持ちを冒険者って言葉で表現してほしくないのだ。
「……景色、ですか」
シア様はそう言うと、目から青い燐光を発する。
視界の先に氷の結晶が浮かび──しかし、形にはならない。
「……なるほど。どうやらこの環境では、魔術は十分に使えないようです。メリスの能力は、やはり超越的ですね」
「はい。メリーはすごいんですよ」
「…………そうですね、キフィ」
シア様の表情に、メリーへの恐れの色はない。単純な事実確認といった口調と、なんか僕への呆れがあった。なんで?
……よかった、と思った。
「……ふうん? ふぅーん? なに? わたしはすっっごく悩んでるのだけれど。あなたたち、さっきからすごく楽しそうね?」
「え? はい。楽しいですよ?
だって──悩まなきゃいけないの。僕じゃないですし」
僕はけらけら笑った。
楽しい。
「ほんとあなたそういうところよ!? そのニヤニヤ笑いをやめなさいっ!」
「生まれつきですよー」
「生まれついたばかりの頃からそんな憎ったらしいカオするわけないでしょう! もうっ!」
ステラ様はぎゃーぎゃー騒いでいる。愉快なひとだ。
悩むこと──正確には悩むことができるということは、余裕がある人の特権だと思う。
複数の選択肢があること。
思索する時間があること。
この二つがなきゃ、そもそも悩むことすらできない。
与えられる選択肢は能力や環境次第で変わるし、ひとつひとつを悩む時間が十分に取れないなんてことも珍しくはないのだ。
──逆に言えば、ぼーっとしているメリーの存在ひとつで、取りうる選択肢の数は限りなく増え、過剰に増えた選択肢をひとつひとつ吟味するため贅沢に時間を使うことが可能になったということになる。
「まあ、選ぶのはステラ様ですけど。案を出したりとか、僕にできる範囲で手伝ったりはしますよ。たとえば相手方の情報を探ったりとか。時間が止まってるから楽そうです──」
「ん。めり。めりもする」
メリーはそう言うと、幼い指を虚空になぞらせた。
すると──虚空から、シャボン玉のように淡く光る極彩色の球体が何百何千と、ぽこぽこ連なるように浮かび上がってくる。炭酸水がシュワシュワ言うような爽やかな音がして、匂いはどこか甘い。それらの小さな球は、時を止めた世界でも関係なく、ぴたりと止まった瓶の横でくっついたり離れたり、時に大きくなったり小さくなったりと蠕動していた。
……? 何してるのメリー? メリーも遊びたくなったんだろうか。確かに、どこか幻想的な景色で──、
「たま。みる」
ええ? いいけど……?
メリーに促されて、僕がかぷかぷ浮かぶ虹色の連鎖球体のひとつに目をやると──。
「ムーンストーン……!?」
──そこに映るのは、血が滲んで茶褐色になった包帯で全身を覆った人物と、あの灰髪の男が話し込んでいる場面だった。
悪魔が誠実に過不足なく手術の効果を伝えて契約を迫る姿に、思わず僕は身を乗り出して──ついその隣の球に目がいくと母親に抱かれる幼児の姿があって、そのまた隣にはオーム前迷宮伯が浮浪者の子どもに金色の杖かざして殺している姿が見えて更にその横には青年が同僚と笑っている姿があり隣領への経済攻撃と住民感情を悪化させる奸計の実行があり二人の幼い姉妹に政治学を教える姿があり後ろ暗いことに手を染めた連中との会合があり大人たちに褒められている子どもの姿がありありありありあり──人生におけるあらゆる瞬間の映像が、この小さな球の中にすっぽり収められているようだった。
「……あの。メリー? これは?」
「かこし。さっきのやつ、ぜんぶみえる」
流石にこれはどうなのってこと平然とやってくるじゃん……!?
「ひっぱった。ひっぱってきた。さわると、りぷれいなる。かんがえことわかる。さわる?」
「過去視どころか追憶具にもなってるのこれ? 触ると脳にダメージあるやつじゃん絶対触らないよ……!?触らないから。あ、シア様もステラ様も触らないでくださいね!?」
「じょうほう。さぐれる。さぐれるよ?」
いやまあすごくありがたいんだけど、ありがたいんだけどさぁ……。なるほど確かに時間ってリソースを無限に使える今これ以上ないほどに情報収集が可能になりますけどね?
だけど人間にはプライバシーというものがあってさぁ……?いやこの国の法ではプライバシー権なんてものは保障されていないけどね。でもさ。あるじゃんなんかこう……、そういう、簡単には超えちゃいけないラインみたいなの。すごい気軽に踏み越えてきたよね。踏みにじっているよね。いや、そりゃあ確かに相手は敵だけどね。情報ってすごい大事だけどね。でも戦争にもルールってあるじゃん? 僕も大概欠如してる方だって自覚はあるけど、ヒトとして最低限のところで守らなきゃいけない倫理ってあると思うんだよ。
たとえば憲兵隊には事件を捜査するための権限があるけど、それは相手の人生をすべて丸裸にする権限ではないと思うんだよね? うん。もちろん僕は陥れる相手の弱みは握れるだけ握るよ? でもそれはあくまで正当な手段で得た情報であってこんな──。
「……? 何か問題があるのですか?」
「きふぃは。あまあま」
「……甘い、のでしょうか。……拷問は許容するのに、メリスの過去視を禁止する理由が分かりかねます」
シア様は、本気でわからない様子で首を傾げる。
僕はステラ様の方に目をやり──あ、だめだ。ステラ様も僕の主張を全然わかってくれてない。
「キフィナスさん、割とダブルスタンダードなとこあるわよね。『自分がやるのはいい』みたいなこと真顔で言うし。そんなの、説得力に欠けるに決まってるじゃない」
「言いますけどぉ……。それとこれとはちょっと違うっていうかぁ……」
あれこれ僕がおかしいのかなぁ……!? 過去視ってやばくない? やばくないの? そういうスキルだからいいの?
というか本当に誇張なくすべて丸裸にするじゃん……そのままの意味で全部が見えるじゃん……ぼく人のお風呂とかトイレのシーンとか見たくないしきみたちに見せたくもないんだけど……?
せめて、その……この一件と関係があるところだけにしない?
「きふぃはゆう。よわみは、いきかたからでてくる。ゆった」
「言いましたけどぉ……」
相手の弱みを握るために知るべきは、その生き方にある。
確かに言ったけど、でも……、
「きふぃは。どうじょう? きょうかん?」
「どうかな……。してるかもね」
「わるいの。あっち」
メリーは、シャボン玉のうちのひとつを指さした。
片目が潰れた女性が、首を絞められている姿が映っている。名前はモイヤ。僕が雇った、賑やかで噂好きの、どこかお調子者なところがあるお姉さんだ。
……酷いことをするな。
「だけど、どうかな。善悪の判断なんて、いったい誰ができるんだい。相手には相手の立場があって、僕には僕の立場がある。それがぶつかっただけだろ。そしてお相手さんは今回、自分の命を張って勝利条件を満たした。
そこに対して、まあやっぱり、一定の称賛みたいなのはあるよ。……僕が彼らの立場だったら、そうしなかったと断言はできない。大事なものを取り返そうとしたことに、罪はないと思う」
「でも。きふぃは。すてらとしあのみかた。ちがう?」
──違わない。
ああ、そうだった。
僕の価値観がどうこうの前に、今、ステラ様とシア様は困ってたんだ。
「ん」
はあ……やだな。わかってても痛いんだよなぁ。
追憶は自我を塗り潰そうとしてくる。
……まあでも、僕にも十全にできること、かな。生命活動を害する的な意味でも倫理的な意味でも、間違ってもお二人にはこの球体は触らせられないとも言う。
「めり。たくさんやる。やるよ」
メリーは張り切っていた。
もう十分すぎるほど色々やってると思うんだけど、どうもメリーさんは自分がぜんぜん何もしてないと考えているらしかった。
「あーだめだー。メリーが見ててくれないと追憶にたえらるきがしないー」
「みてたら、がんばる? もっとがんばる?」
「がんばるがんばる」
メリーは加減というものを知らないからな……。
僕の弱さに呆れて足止めされてしまえ。
・・・
・・
・
「……いたた……。うう、頭がクラクラする……。ええと、そういうわけで申し上げました通りです。
拙は──じゃなくて僕はでもなくて! 苟もオーム様を騙ることとなった男の名はコッシネル・フェニクロウア。目的は、あなたがたを誑かした灰髪を排斥し、能力も心意気もカス揃いで手足にならない使用人たちを一掃し、間違った道に踏み外そうとしているあなたたちを助けることにあります」
「……キフィ。大丈夫ですか?」
「キフィ──そうだ、僕はキフィナスです!」
錐でぐりぐりと頭を抉られるような痛みとふわふわとした酩酊感から名前を呼ばれることで回復した。数百箇所のカットを乗り切るには、演技ではなく本気でメリーの存在を必要として、それでも自分と相手の境界線が混濁していた。ほんっと危険物だな……。
だけど、その甲斐はある。
推測ではなく、実感として相手の目的が明らかになったことだ。そして、本人すら忘れていること──いったい何者なのかについても、手に取るようにわかってしまった。
コッシネルは、40年来ロールレア家に仕え、王都でもオームの右腕として控えていた男だ。
実務能力は非常に高く、使用人の差配に長けている。領地経営についても明るい。先々代ロールレア家当主ディアスに見出され、ロールレア家の表と裏とを見てきた。
彼は幼いステラ様とシア様の教育係となり──王都では、どちらかを殺して手づから《調理》し、もう片方に振る舞おうとしていた。……もちろん当然これは伝えてない。
ひとたび命を狙った相手に全霊で尽くす。それは、こいつの忠誠心の中では一切の矛盾がない。私心なく、ロールレア家の手足であることを自分のアイデンティティとしている。
「コッシ爺や、かぁ……。……厭になるわね。優しいおじいちゃんだったのに」
……手段を選ぼうなんてのは甘かったなと。つくづく思う。
「……ですが、コッシネルであれば、領主の務めに滞りを出すことはないでしょう。それは幸いです」
「あとは、今の使用人のみんなを殺す気はないことね。突然暴力を振るったのには驚いたけれど……」
「痛みと恐怖は、より素早く集団を統制できますからね。……近いうちの退場が約束されていることもある。要は飴と鞭です。次期領主となるあなた方は、普通の態度を取っているだけで労せず家人たちの忠誠を手に入れられる。まあ、ステラ様を飴と呼ぶには少しばかりスパイシーですが」
「刺激的でしょう? あっちだって、ムチと呼ぶには苛烈すぎると思うわよ」
苛烈すぎると言うけど……僕の中にある嫌な部分が、その行為は合理的だと評価している。暴力は、もっとも原始的で訴求力が高い力だ。暴力でも政治力でも財力でも、とにかく力でもって規律を強引に守らせる態度というのは、新しく使用人たちを組織した際にあるいは必要な行為だったかもしれない。
とはいえ、僕としてはあえて忠誠心とか呼ばれるものを育もうという気はなかった。労働への正当な対価を支払う過程でそういうものが生まれればよし、生まれなくてもまぁそれはそれでいいんじゃなかろうか、なーんて思っていたのだ。
労働者にも権利は必要だと思う。まず僕の権利を、次に僕の権利を、更に僕の権利を保障するためにも。
……まあ、この一件が収束したら、否が応でも忠誠心は増すだろう。それが即ち良いことなのかは、僕にとっては判断がつかない。
「それにしても……情報が増えて、また悩ましくなってしまったのだわ……!」
ひとつ。領主オームの姿を取る、老コッシネルにどういった対応を取るか。
ふたつ。いま目線を向けられている他領の貴族たちがどういった反応を見せるのか。
方針を考える上で、大きくこの二点が問題となる。
僕は当人を追体験したので実感として理解できるが、たとえ領主を騙ったことが暴かれ、一族郎党皆死罪が決定したとしても、彼の一族はそれに驚きはしない。いやむしろ、かつてのあり方から変化しようとするこれからのロールレア家に、その直前で殉じられることに感謝さえすることだろう。実感として理解できる、僕からすると理解不能な価値観だ。
そんな筋金入りの、狂信とも呼べる意識を持つ相手だ。死が救いにさえなるような相手はいるし、あるいはそれも慈悲と言えるのかもしれない。自身の活動を止める理由は死以外には存在しない──そんな筋金が入っている手合いも中にはいる。
僕は。
──コッシネルという男の死すら、許容しようとしている。
それが目の前でうんうん唸るご主人さまの、最良の選択肢は何かと悩んで悩んで、考えて考えて考え抜いた末の答えであれば。
……まあ、それはそれとして。
「メリー。ちょっと膝おいで。まだまだ時間かかりそうだし。髪。やるよ」
結論を出すまでの時間で、僕はメリーのご機嫌を先に取っておこうと思った。
言うなればご機嫌貯金だ。
「……。ん」
メリーは、僕の膝の上でちょこんと体を丸める。
肉付きの薄い体躯から繰り出される衝撃を受けて僕の膝はバキバキになった。あぎいって音が喉から出てきたよね。
座ってからのメリーは素直だ。少し機嫌を損ねたなーって時は、こうやって髪の毛をちょっと櫛で梳いてあげるだけですぐ機嫌を取り戻す。機嫌の取り溜めもできて、『櫛やってあげたでしょ』である程度のことなら相殺できる。更に更に膝に乗ってくるまでの速さでどこまで怒っていたかもわかるという、この櫛はかなりの便利アイテムだ。
逆に言えば、この提案に乗らないときは本気で怒ってたりする。髪の毛触らせてくれないときは結構怒ってる。
「よい。とても、……よい。すばらしい」
「はいはい」
ふわふわな髪に優しく櫛を入れていくと、メリーはむずむずと体を小さくよじらせる。身動ぎするたびに僕の膝にはいちいち激痛が走るわけだけど……まあ、仕方ない。これもご機嫌取りのための必要経費だ。
何より──これやってる間は、メリーがまたなんかヤバいことをやらかそうという心配もない!
しっかし、僕の幼なじみちゃんのチョロさはほんっと心配になるな……。まったく目が離せない。
ま、扱いやすくていーけど。
「……良いように扱われているのは、おまえの方では……?」
はーあ、シア様はいったい何をおっしゃってるのやら? やっぱ貴族って見る目ないな。
・・・
・・
・
「──決めたのだわ」
どれだけの時間が経っただろう。長いような気もするし、短かったような気もする。残念ながら、銀時計は止まっているのでわからない。
メリーへの毛づくろいの5ループ目くらいで、ステラ様は小さく、呟くように言葉を口にした。
そこには、噛みしめるような決意が篭っている。
是非、彼女の答えを聞きたいと僕は──。
「じかん。うごかす」
あっちょっ待ッメリー! この体勢じゃ瓶がキャッチできな──あああああ!!
瓶は次々に地面に落ち、内容物をぶちまけていく。
あああああ……やばいぞぉ……!
「ねえ。……この煙、なに? あの。あのね? わたし。決めたのだけれど?」
「わかりません! ──逃げましょう!!」
「ねえおかしくないかしら? もっとこう、わたしの決断とかをしっかり聞く流れではなくって!? ちがうの!?」
「あーもう!いいから足を動かしてください!!」
「……姉さま。思うところは理解できますが、ともかくこの場を離れましょう。よくわかりませんが危険です」
「ねーえ!? なんか色々ごちゃごちゃ言いながらけっきょく最後には尊重してくれる流れではないのかしらーっ!?」
ある日の迷宮都市デロルの冒険者ギルド。
常勤職員のレベッカは、今日もカウンターで接遇をしている。
こっちが説明してやってるってのに新人にデカい口を叩かれてイラッときたり、常連にウザ絡みされたりといつもと変わらぬ日々だ。
思うところはなくもないが、冒険者の名簿に線を引くよりははずっといい。
「お仕事大変そうですねー、レベッカさん?」
そこに、大天使メリスさんとそのオマケがやってくる。
「こんにちはメリスさん!」
レベッカは一言目に喧嘩売ってきやがったノイズの方を無視した。
「ん」
ぶっきらぼうな小さなお返事に、レベッカは天にも昇らん高揚感を得る。お返事をしてくれるようになったのは最近のことだ。キフィナスの前ではやってくれる頻度が高い。この勤労態度および性格カス人間を邪険にしつつも排除はできないところだ……。
──冒険者ギルドの職員は一般に、専属として担当する冒険者に対して強い思い入れがある。命を賭けている相手にはどうしたって共感するというものだ。そんな相手の顔をふと見かけなくなり、名簿の名前に横線を引き……冒険者ギルドの職員は、多かれ少なかれそんな経験を積んでいる。
それは、たとえ相手が強い冒険者であっても変わらず──むしろ強い冒険者である方が、ふいに行方を晦ましやすい。
迷宮に魅入られる、などと言われる。
「今日はなんのご予定ですか?」
「そうね──Dらんく?の冒険者でも受けられる依頼というものを見にきたのだわ」
その声にレベッカはハッとした。
キフィナスの隣に、マントで全身を隠した二人の人影があったことに声で気づいたのだ。
恐らくは、認識阻害魔術が掛けられていたのだろう。
「……あの。まさかとは思いますが、その声はステ──」
「ええ。わたしは──ただのステラよ」
「……同じく。ただのシアです」
「キフィナスさんあんた何やってんだーーーーッ!?」
「僕だってわかんないんですよぉ…………!」




