渚にて
寄せては返す白波が、鼻先に潮の香りを運ぶ。
僕でも飛び越えられそうな──いや実際はぜんぜん無理だろうけど──ゆるやかな小波だ。
ざざーん、ざざんと、渚に向かって遠慮がちな音を立てながら、近づいたり遠のいたりをしている。
「……素敵な景色です」
「そうですね。まるで絵画を切り取ったみたいです。煌びやかで、穏やかで、静かで──」
「いい! いいわ!すっごいわーっ! そう!こうゆうの! こゆの求めてたのっ!! さっっすがダンジョンね!」
「──あー、それでいて賑やかですね?」
そんな穏やかな景色を、ひとりで賑やかにしている人がいる。
──ステラ様だ。
実におはしゃぎあそばされている。
「これ、アレよね? 海ってトコロよね? じゃっ、お魚いるのかしらっ?捕まえて都市で育てましょうよ! わたし、金魚って子が気になってるのよね!」
「金魚が海水にいたら干からびて死にますよ」
「水の中で!? どういうことなの……魔術の攻撃?それとも、なにかの比喩? あなたの比喩はいっつも表現が物騒なんだから」
「いえ比喩でもなんでもなく。全身から水分が抜けて。死にます。いや死んでから干からびるかな?どっちでもいっか、死ぬ結果は変わらないし」
「金魚になにが起きたというの……!?」
ええと、なにが起きたというか……。
「……説明を要求します。そのような悲劇は、避けねばなりません」
「えっシア様まで? えーっと、これ言わなきゃわかんないやつですかね? 浸透圧ってやつで……、あっ」
そこで僕は気づいた。
タイレル王国に海はない。
基本的に、魚介類はダンジョンから採ってくるものになる。一部、地上で養殖をしていたりもするけど……少なくとも、迷宮都市デロルの魚はダンジョン由来のものか、凍らせて輸送した他領からの交易品だ。
だから、淡水魚と海水魚の違いなんて一般常識でもなんでもなかったし、そもそもタイレル王国で一般的に認識されてる《金魚》なる生き物が果たして淡水魚かどうかも定かでなかった。
「やっぱ死なないかもしれません」
「生きてるの? ここにいる?」
「いやここにいるかは……というかとっとと先に進みません?」
「シア! シアっ! ちょっとあの水たまり凍らせてみましょ!!」
「……はい。しましょう。氷漬けにして持ち帰りましょう。楽しみですね、姉さま……!」
「あーシア様まで……」
二人ともすごい乗り気だ。……まあ、今回のダンジョン探索における勝利条件の中には『上司さまのご機嫌取り』というのも付帯条件に入ってきているわけだからいいけども。
──青き燐光が迸り、さざ波が根本から凍りついた。
生まれた氷塊はそのまま、波打ち際までゆっくりと運ばれていく。
砂浜に打ち上げられたそれを、二人は勢いよくしゃがみこんで、顔をぐっと近づけて眺めて、
「うーん、いないわね。この調子でどんどん凍らせていきましょっ!」
「……はい。お任せください……!」
僕の知識がそのまま活きるかはわからないけど──。
たぶん死んじゃうんじゃないかなぁ、それ。
・・・
・・
・
景色は綺麗だ。潮風もやさしい。メリーが隣にいる。ここがダンジョンでないなら、僕はもっと気分が良かっただろう。
しかしながら。基礎的なところで、そもそも本当にこの水とか安全なの?という問題がある。
人間の身体は結構わがままなので、異物が入ってくるとそれだけで拒否反応を起こして体調が崩れる。毒のメカニズムってそういうことで、迷宮から取れるモノの内、多くは毒として使える。適応が高いと効きづらくなるけど。
……とはいえ、寝たりご飯食べたりする彼女たちにはまだ効くだろう。とりわけステラ様は寝覚めが悪い。
しかもこの人好奇心から海水をぐびぐび飲みそう。それで醤油一気飲みした人みたいになりそう。
……だから、魔道具とか未提出・未登録の迷宮資源とか使って、可能な限り毒性がないかを確認した後、一週間くらい寝込む覚悟を決めて、……意を決して、海水を舐めた。
すぐ吐いた。
だって──めっっちゃくちゃ、しょっぱかったからね。
口に含んだ瞬間あっ血圧上がって死ぬって本能が叫ぶくらいしょっぱかった。
最優先でそれだけ確認してから、はしゃぐお二人を横目に色々と確かめて──。
「いないわね……」
「……いませんね」
砂浜に積まれた氷のブロックの小山が、陽光に照られて輝く。
まばらに金の粒が付着した、わらび餅みたいな氷晶の内側には、お目当てにされていた金魚は勿論、他の魚も、魚以外のものも、何ひとつ入っていなかった。
どうやら、ここまでの戦果の無さにようやく飽きを感じたらしい。
「まあ、いなくてよかったんじゃないですか? たぶん凍らせてたら死んでますし?」
「えっ……。死んじゃうの?」
「むしろ普通人も凍らせたら多臓器不全でふつーに死ぬと思うんですが。僭越ながらー、ステラ様は錬金術以外にもご興味を持たれた方がよいのではー?」
「……そうなのですか?」
えっ……?
シア様までご存知なかったんです……?
「……なんですか、その目は。……わたくしには、人体を凍らせる機会などありません。他者を徒に害さないことは、当然のことでしょう」
「そもそも多臓器不全?とか初めて聞く単語なのだわ。それ、例の迷宮の知識でしょ」
……そういえば、この世界の医学は各臓器とその役割とかしっかり解明してなかったな。栄養学なんかも降りてないから、人々の食生活、ひいては健康状態が結構ガタガタだ。
それはそう。僕は素直に認めた。
「……おまえの知識が正しいか否かはともかく。姉さま同様、私の魔眼もまた、容易く人に向けてはならない力であることは承知しているつもりです」
「ええ。そこは力を持つものとして、当然のことだわ」
……それを当然だと言い切れる子たちであることを、僕は嬉しく思う。
まあ、そんなことはともかくとして──。
「ここはダンジョンです。油断しないように」
僕は、年相応に楽しんでいた二人の少女を、後出しで諫めた。
「……はい」
「うっ……。で、でもっ!?領主として自領の迷宮資源に関心もつのは──」
「入場直後に溶岩が出迎える構造なのをお忘れなのかな? 困った人ですね。ここの資源回収できるのは中堅以上の冒険者ですが、彼らに魚釣りとかさせる気ですかね」
「うううう……そ、それはぁー……、し、シア!なんかあるでしょ!」
「……姉さま。これは私たちが悪いです」
「……うう。は、反省するのだわ……」
はい。
僕は笑顔を作りなおした。
「さて。お二人が危険なダンジョンなのをすっかり忘れて水辺でお遊びあそばされている間に、僕は色々調べてました。お遊びあそばされているあいだに」
「あなた。ほんと性格悪いわよね」
「反省を促せるのであればー?いくらでも性格悪くしますよー」
「ぜったいそんな考えないのだわ。ほんと、口から出まかせばっかりなんだから」
「……もう慣れました。報告をしなさい、キフィ」
「ん? んー……、まいいや後で。はい。しまーす。
ええと、まず。砂浜が広がってるのはここからだいたい東西1km……あー、760歩ぶんくらいです。その先には、《見えざる壁》があって、進もうとすると頭をぶつけますね。奥も壁が広がってるようでした。
そして、その間に魔獣は一体も出てきませんでした。今も気配がない。お二人が隙を好き放題晒しながら水遊びしてた時も魔獣が来ることはありませんでしたね。
なので、この区画は比較的安全な場所だと言えます」
「……奥も壁、ですか?」
「はい。行き止まりですね」
「そうなの? じゃあ、ここが最下層ってことかしら?」
「いえ。進むべき方向はありますよ」
奥行きではなく、高さを求められてるんです。
すなわち──海底が次の進路ですね。
──深海。太陽の光が届かず、水圧によって肉体が圧搾される暗闇の世界。
探索していると、肺とか軋む感じがして、身体を動かすたびにすごい苦しくなる。それから、手足の末梢からびりびり痺れてくる。そして、頭がズン…と重くなって意識が薄らいでいく。それでも意識を手放せない。……そんな世界だ。
酸素供給源を確保して、水圧から体を守るために伸縮性の高いよく漉かれたクラーケンの皮のインナーにアルミナ銀の全身鎧で体を固めて、それでもなお苦しさに耐えないとならない。
すぐ帰りたいって気持ちから勢いよく浮上すると気圧の差でそのまま死ぬ。酸素について気を回さないと意識が溶けて死ぬ。深海を探索するにあたっては、知識と冷静さが必要不可欠だ。
「だから、熟練冒険者でも十分な注意が必要なんですよ」
「……おまえとメリスが着替えているのは、それが理由ですか」
「着替えているというか……、その、ずいぶん不思議な格好をしてるわね?」
メリーはいつもの白いワンピースの上から、ゴム質の黒いインナーを身体に巻き付けるように雑に着ていた。その上、ところどころ裂けている。自分で着ようとしたからだ。
「…………」
なんというか、なんというか……。ひどく、シュールなカッコをしている。無口無表情無言でなんて格好をしているんだろうかこの子は。
なんだろう。『別にいらない、でも着るだけ着てやる、ほら着てやったぞ』といった具合の、僕への当てつけを感じてならない。
メリーにはいつでも綺麗な服を着ていてほしいんだけど……。
「……私たちも、着替える必要が?」
「そうすべきです。水圧は危険ですから。安全には最大限の配慮をすべきです」
「……流石に、その格好はちょっと躊躇われるのだわ」
「それじゃあ、僕は引き返すことを提案しますよ。メリー、ごめんだけど……」
「水が問題なのよね? じゃあ──この水、全部蒸発させてあげる」
言葉と共に、赤い燐光が煌めき、エメラルドグリーンの水中に火が灯った。
しゅうしゅうと炭酸水のような音が響き、水面から幾重もの白煙が上がる。赤い水面、白煙。沖つ白波はそのまま溶けて煙と水蒸気に変わった。
魔術によるモノだからだろう。こちらにまで熱気は届かない。しかし、ぐつぐつと海全体が煮込まれて、どんどん熱量は上がっているようだ。
赤熱する火は炎となり、勢いを増し、次第に白く輝いていき──。
「ふふ。これはこれで、すごく綺麗だと思わない? …………ばあんっ!」
ステラ様の声を合図に、真っ白になった水面が、蒼く弾けた。
流石に眩しさを感じて、僕は目を閉じる。
「……流石です、姉さま」
まばたきを終えた頃には、海水は巨大な大穴へと姿を変えていた。
宣言通り、海水をすべて蒸発させてみせたらしい。
流石にすごい力だ。僕が感心していると、
「じゃっ。さっきの蜘蛛の糸、借りるわね」
「あっ」
「……足場を作ります」
「え、あの、ちょっと! 僕が先行しますのでちょっと用意するまで──」
「べつに大丈夫よーーっ!!」
ばっと蜘蛛糸をひったくられて、ステラ様とシア様が大穴へと飛び込んでいった。
……心配だし不安だ。ほんと不安だ! 僕も一刻も早く行かないと。
でも、その前に──、
「……脱ごうか、メリー」
僕らは着替えた。




