ダルア領
僕は物持ちがいい。
なんと偶然、外交飛脚人のマントを持っている。なにせ物持ちがいいからね。
僕は物陰でマントを羽織ろうとし──。
「あの、それは……?」
あー……ご存じないですか?
ええと、まず……このタイレリア王国の都市は、王家の直轄領と、領主が管理する領地とに分かれています。どちらも沢山ある。
で、デロル領もダルア領も、王様が領主に『そこを管理しろー』って命令されてそこを統治しています。これが封建制ですね。
ここまではいいですね?
「えっと、は、はい……?」
うんうん。トレーシーさんは賢いですねー。
「そ、そうですかっ……?」
──彼女は自尊心が低い。あんなに僕を恐れて疑っていたのに、この声には褒められたことへの喜色を感じる。
だから僕は、その低い自尊心をくすぐるような言葉を選ぶ。……もちろん、嘘にはならない範囲で。
いちおう僕にだって、『誰かをいたわるときに、そこに嘘は混ぜちゃいけないだろ』程度の良識はあるのだ。ん?あ、いや、僕は善良だった。良識が服を着て歩いているのが僕だった。善良善良。
僕は善良って三回唱えながら、トレーシーさんのくすんだ青い瞳をじっと見る。
元々彼女は、四等市民──つまり、教育らしい教育を受けてないどころか、ぎりぎり市民権はあるがほとんど浮浪者同然の人だ。家族もいない。
その顔は苦労によって刻まれた皺があるが──彼女は僕よりふたつ上。まだ10代だ。
……町外れで見かける、下層労働者の顔つき。メリーがいなければ、きっと僕もこんな顔をしていただろう。
「うちの領主様と、デロルの領主さまで、おなじ……、それで、その上に、王様……」
偉さの天井に領主様がいるという世界観は実に素朴で、だけどそう考えている領民は地域によっては少なくない。教育を受けていないし、そう勘違いさせた方が統治する上で都合がいいからだ。
とはいえ、伯爵家にスパイとして潜り込んでいる時点で、領主様という存在が複数いることを知識として持ってはいただろう。
ただ、この反応を見るに、これまでそういうものだって実感を抱けなかったんだろう。今も実感らしい実感はないかもしれない。
「で、このマントは領主様と対等かそれより偉い人のメッセージを運ぶお仕事のひと──外交飛脚人の制服なんですね」
「使用人長はそんなお仕事もしているのですか?」
「してませんよ?」
トレーシーさんは首を傾げた後、顔を青くした。
僕はけらけら笑った。
「トレーシーさんは、やっぱり賢いひとですね。知識が足りないことと愚かなことって、根本的に違うと思うんですよ、僕。僕は賢いひとが好きですよ。大好きです。
ええ。はい。そうですよ。ふふふ。……たぶん、ご想像の通りです」
「めり。かしこい」
「横から何言ってるの君?」
ずっと昔から知ってるけど。僕はメリーをスルーしてトレーシーさんに向き直る。
ご想像の通り──当然、そんな重要な立場だから騙りは許されない。バレたらまあ、普通に死罪になる。
しかしながら、バレない限り罪にはならない。タイレリア王国法の条文は『かかる職業の詐称が発覚した際、騙った者は死罪とする』という文言だ。これ原文ママ。この後ろに色んな職業がべらべらべらーっと列挙されてて、外交飛脚人もそのリストに名前を連ねている。
バレたら死刑。じゃあ逆に言えば? 発覚しなければ? この国のお法律は、お国王様とお貴族様がお作りになった。そういった抜け道を最初から想定して作られている。
だから王様のお膝元にある王都の憲兵隊に一番求められる能力が『戦略的に関心と無関心を使い分けられること』になるんだ。僕ははっきり言ってあの連中を砂粒ひとつほども信用してない。
いいですかトレーシーさん。僕が説明してるのはただのさわりで、権力構造と実生活とはもっと奥行きが──おっと話がブレてきたな。外交飛脚人に戻しましょうね。戻しましょう。
「……? ??」
僕はトレーシーさんの反応を見る。混乱してるようだ。
僕の心は『愛すべき部下に沢山のことを教えてあげよう』って気持ちと、『だらだらーっと知識を詰め込んだ直後にちょろーっと説得をすると話がスムーズに進むかなー』という気持ちが混ざっていて、彼女の反応を見て後者に一気に気持ちが傾いた。
僕は罪の意識を薄くするための言葉をべらべらと並べていく。
まず、これは僕の独断ってことにすればいい。あなたはいつでも逃げられます。安全だ。それに、実際僕、領主様に伝えなきゃいけないことがあるわけで、だいたい用途は同じですし? ただ、この服を着るだけで関所の人間の態度が少し柔らかくなって、無駄に時間が取られなくなって、飛脚人の同行者であるトレーシーさんが通りやすくなるというだけですね。あれ?得しかないな。逆にトレーシーさんはそのまま関所を通れますかという話になります。多分そのままじゃ通れない。ダルア領からのスパイはあなた一人ではないでしょうし、あなたがスパイだとバレていることだって既に耳に入っているはずだ。
あるいは関所抜けって手もありますよ?ありますけど……あっ顔真っ青。
「百叩きは嫌、百叩きは嫌、百叩きは嫌……!」
あー、ごめんなさい。しませんしません。
……なるほど、関所を抜ける方が彼女にとってリアルに罪と罰を想起させるものなのか。
はーい。深呼吸してください。吸って、吐いて……いいですね。じゃあ、ほんのちょっと騙るだけにしておきますから。顔を上げてくださいね。
僕はマントを風に靡かせた。金糸の刺繍が日を受けて煌めく。
「でも……、あの、バレたら捕まっちゃうんですよね……?」
おっと。流されないですか。うんうん。トレーシーさんは賢いなあ。
ええ。はい。そうですよ。
それで?
・・・
・・
・
おどおどしているトレーシーさんと、いつものように僕に継続ダメージを与えてくるメリーを連れて、僕はいっさい何の問題もなくダルア領へと辿り着いた。
普通に通ろうとするとやたら時間がかかる関所も難なく通れたぞ。権威ってすごい。
「故郷に帰ってこれてよかったですねー、トレーシーさん」
「は、はい……。本当に帰れた……」
辺りをきょろきょろと振り返る彼女。
「あの、私は何を、すれば……?」
……ん?
何の話だろう。
「だ、だって使用人長、私に帰りたいって囁いてきて……、いかにも悪魔の取引みたいに……」
ああ、成果がないとって話か。
んー……、えーと……説明が大変だな。
「わあ。ダルア領って空が青いんですねー。すごいなー」
「どこでも空は青いんじゃ……」
「青いなーー。青いーーーー」
僕は青さをごり押しして適当に誤魔化した。
「とりあえず、ここで解散しましょうか。せっかく帰ってきたんです。トレーシーさんも、何かやることあるでしょう?」
「でも……」
まあまあ。まあまあまあまあ。
僕は怪訝そうなトレーシーさんを追い払った。
「さて」
故郷を懐かしむ気持ちというのが、僕にはどうしようもなくわからない。僕らが生まれた村はもう灰に変わってるしね。
なんというか、まず不便だろうここ。何が不便って生きることに対して不便だ。デロル領──は上澄みだから別の小領地で──政情不安を抱えたギャランタ領辺りと比較しても、ここの通りは雑然としているし、空気は淀んでいるし、おまけに住人の人相もよろしくないように思う。商店の数も少ないし、露天商の品揃えだって貧弱だ。
……それでも帰りたいというんだから、つくづく人の価値観や考え方というのは人それぞれなんだなぁ、と思う。
僕はその判断を尊重する。
「おや……?」
通りに看板らしきものが落ちている。
なになに……?『ここをラフターレンツィヒ通りとする』、なるほど触れ書きだ。ダルア領子爵、フェルディナント・ディ・シ・ドーレンという署名がある。
それが地面に落とされたままになっているということは──なるほどね。
僕はけらけら笑った。
僕は彼女の望郷の念がわからない。
でも、わからないなりに尊重する。尊重するが──まあ、ちょっとこの後、何が起きても許してほしい。




