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迷宮都市の悪魔



 翌日には、土地の所有権争いに両者どちらもが手を引いた。


 裁判には気力と時間が掛かる。ダンジョンがなくなった今、それで手に入るのは労力の割に合わない痩せた土地がちょっとだ。

 土地買いは争訟に時間使うより法的な問題をクリアした土地を買い漁ればいいし、唇のねじれた乞食ごっこの人は権利を確定させたりしたら自分の生業ものごいごっこがやりづらくなるリスクがある。そりゃあ逃げるだろうさ。

 どうせ降って湧いてきた幸運だ。最初から手に入らなかったと思って普段の生活に戻ればいい。


「ちくしょう……! 大金が目の前に転がってたってのによォ……!!」


 まあ、やすやすと戻れないのは知ってるけどね。

 出勤前、僕はダンジョンがあったところに遊びに来ていた。

 なーんか嘆いてる人がいてすごいウケる。僕はけらけら笑った。はーいいもの見たっ。仕事前の活力になるなぁーっ!


 ──人は目前、手が届く範囲に垂れ下がったご馳走がなくなった時、まだ口にしてもいないのによりいっそう餓えを感じるものだ。

 よりよい未来を想像して、そこから離れると理想と現実のギャップにダメージを受ける。

 でも、別にひどいことをやったとは思わない。


 だって、あいつらはどっちも、新しい領主様──この街を誰より愛してる女の子のことナメてたんだからさ。

 裁定者である領主様を前にして、経緯やら自らの暮らし向きについて詐称を働いていたことは何よりの証明だ。


 ステラ様の領主命令とかいうやつで、僕は『自分自身を尊重する』──なんか名誉とか重んじたりしなきゃいけないらしい。正直なところ、そう言われてもちっともピンとこない。どうすればいいのか謎だ。

 ……その言葉を思い返すと、僕の胸に小さな火が灯るような感覚が、ないこともない。

 まあ、どうすればその命令を遵守できるのかは実際のところよくわからないんだけどさ。


 ──わかるのは、僕にそんなことを命じた子の名誉が、その辺のつまらない連中に軽んじられてたってことだけだ。

 だからダンジョンを壊して、すべて台無しにしてやった。


 ダンジョン探索とか痛いし怖いしで嫌いだけど、鼻先にくっついていた金塊を目の前で取り上げられた連中の、絶望に顔を歪め──おっといけない、出勤前だしやさしい言葉を選ぼう──びっくりした顔を思うと、手足にも力が入った。

 まあそもそも? 市民のお二人が正当な権利を主張し合ってる中で、僕も僕もと正当な権利をぶつけただけですし? 僕は何食わぬ顔で昨日も善良だったし、きっと今日も善良だ。明日も善良だろう。


「きふぃ。やるき。よい。よかった」


 まあ、今回のダンジョン探索は、君の隣にいること以外にやることあったからね。


「じゃまなの。おおかった」


 そうだね。カネになりそうな素材がどうとか、僕にとっちゃどうでもいい。まあ、彼らが消えたダンジョンがどれだけ惜しいのかを語ってくれると、あの裁判起こした奴らも惜しい惜しいって感じてくれるだろうから、今回は騒いでもらっていいけどね。

 ただ、これからもメリーとダンジョンコアを壊すにあたって、毎度そういう人が出てくるとしたら、それはやや面倒だ。

 別に誰かから恨まれたっていいけど、恨みを積極的に買いにいきたいわけじゃない。


 さて。

 僕とメリーの問題を解決しつつ、お優しい領主様の名誉を毀損し続けているという問題も同時に解決できる手がある。


「だから、今日の仕事は適当にすまして。休暇の申請をしよう」


 ん、でも有給休暇とか通るかな……。ワークライフバランスの概念もこの世界には当然存在しないわけで、みんな『月に何回休みを取る』とか結構曖昧に生きてる。

 ああ、うん。いざって時は10時間ほどの説得も見込んでおこう。



* * *

* *

*



 この屋敷には悪魔がいる。

 そいつは灰色の髪をしていて、人形のような少女を侍らせている。


 洗濯係のトレーシーは、隣領のスパイであることを公然と暴露した上で、それでも自分を屋敷で働かせ続ける灰髪の青年を恐れていた。


「いじめはいけません。愛すべき同僚から不当な取り扱いを受けたら、いつでも僕に相談してくださいねー?」


 灰髪は、そう言って微笑みを浮かべる。間延びした口調と、柔和な顔立ちは軽薄そうな印象を与えるものだ。

 しかし、トレーシーにはこの男が、どこか蛇のように感じられる。

 孤立の原因を作ったのはお前だろという言葉を、トレーシーは恐怖から呑み込んだ。


 ダルア領四等市民──納税額が少なく、《ステータス》の数字にも、15を超えるものがない──トレーシーには姓はない。

 そんな彼女にも、否、そんな彼女だからこそできる仕事だと、隣領からここに派遣された経緯がある。


(ご領主さまに、認めていただいたんだ)


 ダルア領の民はみな、古くから隣領について、こう聞かされて育つ。

 ──曰く。

 迷宮都市デロルは、人喰い悪魔の棲む領地だ。


 悪魔の隣領から、情報を持ち帰ること。

 ──その任務を、勤務開始直後に破壊したのがそこの灰髪の男である。

 ……この体たらくでは、ダルア領に戻ることもできない。

 悪魔の領地で、たった一人過ごすしかない。


(きっと、こいつがその悪魔なんだ)


「いや違いますけど」


「ひいっ──!?」


 悪魔が心を読んだ!?

 トレーシーは洗濯物の山に自分の身を隠した。


「これはいけませんねー。洗い直しになってしまいますよー? 洗い立てのシャツを地面に置いてはいけません。泥がついてしまいますねー?」


 やり直しを命じるのはお互いに嫌でしょう、などと言いながら灰髪は胸元から小瓶を取り出し、汚れた箇所に数滴ほど垂らした。

 じゅう、と焼ける音と、ツンと鼻を刺す異臭がする。


「あっ間違えた。うーん、とはいえ、遅かれ早かれ衣服っていつかダメになるわけですしー? 形あるものはいつか壊れるものだ。となると、今ここが寿命だったんだろうって考えることもできますよねー」


 ロールレア家では、館の主人と宿舎で暮らす使用人とで、それぞれ分けて洗濯をしている。

 泥の跳ねた白いシャツは、薬液の垂れた部分だけ色味の違う白がまだら模様を作っていた。


「シャツの紛失一枚っと」


 灰髪はけらけら笑いながら、シャツをぽいっと投げ捨てた。白いシャツが吹く風に舞う。


(なに……? なんなの……?)


 トレーシーには理解ができない。


「うん。なくなったものは仕方ない。さて──これで共犯ですね?」


 そう言って、男は笑った。


(突然共犯にされた……!?)


「めり。めりもきょうはん。やる」


(喋った!?)


「こういう時にメリーの反社会的性向を僕は感じずにいられないんだよなぁ。君は共犯じゃないですけど──手を下ろして? 衣服を全部破壊する気かな? んーやめよう。やめようね。共犯者でいいからやめよう。流石に誤魔化せないよ。

 ……さて。どこまで話しましたっけ?」


「あ、あの……?」


「ああ、そうだったそうだった。どこまでも何も、まだ一言も話してませんでしたねー。ええと、現状を確認しましょう。裏切り者のトレーシーさん?」


 間延びした口調から、がらりと変わる。


「スパイとして来たのに早々にバレちゃって、針のむしろで、それでも故郷にとんぼ返りすることも憚られる。そんな状況ですね?」


「え、あ……」


「帰りたい」


 吐息がかかりそうな距離で、灰髪が囁く。


「帰りたい。帰りたい。帰りたい」


(……帰り、たい……)


「ええ、そうでしょう。帰りたい。そう思うのは当然のことです。何もおかしくない。だって、あなたにとって、ここは敵地だ。たった一人で孤立してる。よく頑張ってる!すごいことです!」


 激しい身振りの賞賛がトレーシーの心をくすぐる。


「……でも、成果がないから帰れない」


 陰気で低くなった声がトレーシーの心をかき乱す。

 刷り込み、持ち上げ、落とし──トレーシーを疲弊させた後、


「じゃあ、どうすればいいかな?」


 悪魔は、にっこりと微笑んで、



「作りましょう、成果。──里帰りに興味、ありませんか?」



* * *

* *

*



 迷宮都市デロルで蠢く、もう一人の灰髪がいる。


「彼がまた、色々とやっているようだね~」


 3年前の王都タイレリア、炎上する王都にて、男──ムーンストーンの所属する組織はキフィナスに敗北した。

 予言された危機は近い。しかし、あの少年はそれを認めず、我らを阻んだ。

 返す返すも、ひどく悪辣な手だと思える。きっと、あの頃の彼は──傍らの少女にしか、興味がなかった。


「とはいえ~、あの少年は、目先のことしか追おうとしないからな~」


 《全能者》を含め、敵対すれば厄介な手合いだ。しかし、彼らの逆鱗に触れることがなければ、再び道が交わることはないだろう。

 嶮峻たる道は、未だ長く遠い。


「古の支配者の一柱に認められたのは~、ありがたいことかなぁ~」


 金貨3000枚によって整えられた研究設備にて、遺伝子を乱雑に組み替えられた元棄民──世界救済のための尖兵たちが、何体も培養層に浮かんでいる。


「どクター。紅茶がはいリマした」


「ありがとう~」


 獣面人身のメイドからカップを受け取ると、彼女が部屋を去ることを確認した後、そのまま流しへと捨てた。

 彼女の味覚も嗅覚も既に狂っている。ろくに飲めたものではない。

 己が名を忘れ、美貌を失い、忠誠だけが残った女。

 ……しかし、窮極の目的に対して、感傷は重要なことではない。



「世界平和のために、やることは多いからね~。ひとまずは~、……あの危なすぎる『人斬り』には、バレないようにしないとねぇ……」


 あの悪鬼が発する殺意は、今もなお灰髪の男の背骨を凍えさせる。

 ──今はまだ、雌伏の時だ。


 因果の車輪が、迷宮都市にて回転を始めた。



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