夢
体がずぶずぶと宙に沈んでいく。
背景では、青緑と赤紫と黄色が、鈍く明滅を繰り返している。
ディティールを欠いた世界。
僕は手のひらを見た。
ぼやけた輪郭の内側に、肌の色が沈んでいる。
「気づいたか」
振り向くと──感覚的な意味だ。
僕の身体は重しを乗せたように動かない。
身体をその場に残したまま、僕の意識だけが後ろに振り向いている──そこには、小さな女の子と、精悍な老人がぴったり重ね合わさった人影が立っていた。
とんと心当たりがない。どちらさまですか?
「[私/私]は、既に[貴方/お前]と邂逅を果たしている」
ああ、つまり既に名乗ってたと? はぁー、それは失礼しました申し訳ないー。
見た角度で顔がそれぞれ変わるなんて、すごい個性的なお顔をしてますよね。
そんな人忘れたりとかしないと思うんですけど、まあ、そういうこともあるんで──<既視感>
このやりとりを何度も繰り返している気がする
辺境を越える旅路へ足を踏み出したその日から既に幾たびも同じやりとりを重ねてきた気がする
警告を何度も何度も何度も受け続けているような気がする気がする気がする
──ぐ、あ。頭痛が、する。
手をうごかしてみても頭にはさわれなかった。
ずきずきと頭に響く痛みに僕は耐えた。
「ここは夢。現に戻れば、記憶の糸は解れ薄らぐもの。このやりとりも、幾度となく繰り返してきた」
夢……、夢……。
ああ、そうだ。
ここは夢だった。
泥のような、夢の、なかで……。
<既定路線>あー、じゃあ僕は悪くないのかな?
謝り損ですね。
謝ってほしい。
「【私/私】は、世界に遺った【記憶/力】の残滓。【キキ/ブーバ】の影」
ずいぶん込み入った設定の登場人物が夢に
<逸脱>
──あんた誰だ。
思考がクリアになる。
夢の中で、これが夢だと気づいた瞬間──先ほどまでは、夢だと気づく夢でしかなかった。
夢。寝るときに見るやつ。
まだ幼い頃にダンジョン《東京》で得た知識は、僕の価値観や行動原理に大きく影響を与えていて、やはりこの現象の解釈もそうだった。
寝ているときに見る夢とかいうものは、古くは霊的なお告げとか誰かが呪っているとか解釈されていたらしい。歴史がくだり、科学が発達するにつれてその解釈を変えたそうだ。……と、読んだ本に書いてあった。
それは、他人が介在することもある異世界への移動から、個人ひとりの頭の中で完結した現象へのシフトを意味する。
2020年の東京にいた……はずの人々は、解剖学が発達し精神分析学が生まれた時点で、ダンジョンをひとつ失っていたと言えるのかもしれない。
メリーについていかなきゃならない場所がひとつ減るとか、なんとも羨ましい話だ。
でも、この世界には魔術とかステータスとか、そういった説明しえない原理原則が存在しているわけで。
それに、相手の夢に干渉して精神を蝕むことができる魔術とか僕は知ってる。実際に受けたこともある。
だから、脳内で完結した現象と考えるのは少し難しいわけで。
「あんたは誰だ」
僕は、いつもの丁寧な言葉を投げ捨てて問いかけた。
目の前の二重重なり人間は……メリーのことを『何も選ぶことができない』なんて何遍も何遍も厭きることなく抜かしてきた輩だ。
──それは、僕の考え得る限り最悪の侮辱だ。
僕が普段から敬語を使うのは、まあ主に誰相手でも同じような言葉遣いで楽できるからだけど、砂粒ひとつだって敬意を払いたくない相手となれば取り払うくらいはする。
「【私/私】は、世界に遺った【記憶/力】の残滓。【キキ/ブーバ】の影」
さっきも聞いたぞ、それ。
それは自分の説明になっていない。自己紹介とかしたことないのかな? よっぽどうら寂しい人生をお送りのようだ。
キキ? ブーバ?
誰それ。名前だけで紹介をすませた気になられても、あいにく僕はそんな連中知らない。
……あー、いや、強いて言うなら知ってる、かも。
タイレリア建国神話の英雄で、国をぐるっと囲ってる、雲より高い壁を築いた英雄。確か、ブーバとかいう名前だったような気がする。
正直実在を疑っていた存在だ。
編纂者にとって都合のいいように歴史は騙られる。
でもキキって人は知らない。
「【ブーバ/キキ】は[《平原の先導者》/《原初の魔女》]だ。観測[された/されなかった]ために[力/記憶]だけが世界に残った」
少女が語る。老人が語る。
僕は、この謎人物が質問に回答する能力があることに驚いた。
常に同時に喋るせいで聞き取りづらいったらない。
「[貴方/お前]は、世界が公正であることを望んでいる」
「望まないよ」
……そんな絵空事、望むわけがないだろ。
身分の差、能力の差、貧富の差。生まれついて定まってて、選ぶことのできないモノなんて枚挙に暇がない。
二人の人間がいて、一つだけの勝利があるとして、勝利に向かって同じだけの努力をしたとする。
報われるのは生まれついて優れていた方で、社会にはそんな競争の機会が多い。
公正への希求なんて、突き詰めれば根本原理の転覆を願うようなものだ。
僕はそこそこ、愛着がないこともなくて──。
「世界が、脅かされている」
──そうだ。
そっちが聞きたかった。
僕には……、僕にだって、守りたいと思ったものがある。
……世界の危機、ね。
やたらスケールの大きな話だ。
誇大妄想中毒者みたいな話だ。
鉄錆の都市を想起させる話だ。
「……聞かせろよ」
以前は聞くだけで蒸気と煤灰を思い出す嫌な単語だったけど──だからこそ、話くらいなら聞いてやってもいい。
僕はもう、かつて目を逸らした終わりを見届けている。
与太話の、僕の脳内で完結する妄想だと思って聞き流すけど、詳細を聞かせろよ。
……そうすれば、歩いて行ける範囲くらいは気をつけられるからさ。
「崩壊は既に始まっている。世界を維持するだけの熱量が、正しき位置に安置されていないのだ──」
・・・
・・
・
「そんなところで時間切れっ!?」
叫びながら目が覚めた。
僕は周囲をきょろきょろと見回す。
ここは、必要最低限の調度品(それでも質はいい)と、よくわからない謎の置物(質の良し悪しまでよくわからない)が置かれた、ロールレア伯爵家の執務室だった。
「ゆめ?」
「ん……、おはよ、メリー。うん。夢見てた。まあ、はっきりした内容は、そこまで覚えてないんだけどね」
見たことを忘れてないだけ、そこはマシかもしれないけど……でもね、やっぱり報連相ってすごく大事だと思うんですよ。
漠然とした情報だけ渡すって最悪だと思う。
働くにあたってね。それは指示を出す側も指示を貰う側も同じ。いくら世界が脅かされているとか言われても、詳細がわからないと働きようが──、
「……なるほど。おまえは、働き方とやらに一家言あるようですね」
「え? ああ。ええ、まあ?」
「……今は勤務時間中ですが、自分が眠っていたことをどう思いますか」
シア様の視線が氷のように冷たい。
どう思うか。どう思うか、か……。
なるほど、どうにか言い訳をして言いくるめなければならないらしい。
あー、えー……。よし考えた。
いやまあ確かに? ソファーがふかふかで暖かくてつい寝ちゃいましたけど? うとうと眠るのはいけないことですか? まず、現時点で服務規程が明文化されてないわけです。やっていけないというルールはない。あったのかもしれませんけど爆発で吹っ飛びましたからね。まだ服務規程の再設定をしていませんよ。人事担当として立ち会ってましたが、一人一人にその確認も徹底していません。法の役割は、単に罰則を与えるために留まらず、共有すべき規範を示すことでもあります。今はそれがない。
だから僕は寝ました。
寝ましたけど? そう思ってます。
「……寝ましたけど、ではありません。開き直るのですか、おまえは……」
ええもちろん。再発防止のために、服務規程には『業務中の居眠りを禁じる』とか明文化すべきでしょうね。再発防止のために。これからの働き方がより良くなりますね。しかし逆に、済んでしまったことは仕方ないのではないでしょうか。だって、『規則を制定して、そこから遡って処罰する』って、あらゆる行為を罰することができてしまいますよね。もちろん貴族にはそれを許される権威権勢があるのかもしれませんけど、罰されるリスクを意識させるというのはどうしても受動的になります。命令に従う以外の行動にリスクがあるとすると、上司からの指示を待つことが唯一の正解になっちゃうんですね。
どうやっても自発的に考えて選択するって人材を育成することはできなくなります。まあ、手足にはなれるんじゃないですかね。行きすぎると責任の所在を明らかにすることも恐れるようになるので、手足と呼ぶには神経が上手く繋がってない脊髄折れちゃってる人みたいなことになると思いますけど。
ステラ様が望むのは、どんな人材です?
「そうね……、その例なら、自発的に考える者が欲しいのだわ。もちろん、勝手な考えを巡らせられるのは困るのだけれど」
「はいステラ様は自発的な行動のできる人材を求めていますね」
後半部分を省いて僕は復唱した。僕の意見の正当性を担保してくれる言葉を労せずしてゲットだ。
「自発的な行動のできる人ざ……」
僕は更に繰り返して印象を──おっとシア様の視線の温度が更に下がったぞ?なんか心なしか青く輝いているようにも見える。魔眼の発動の兆候だろうかいやまずいまずい。
あーいや僕にも悪いところはありました。確かに世間の常識や社会通念から考えて僕の行動にも問題があったかもしれません。
僕はいったん譲歩の姿勢を見せる。
「……よく、わかっているではないですか」
はい。まあわかってますよ。僕にも悪いところがある。
「……では、言うべき言葉はわかりますね?」
でもですね、やっぱりルールがない現在の状況で服務規定違反を責めるのは少し理不尽ではないでしょうか。
僕は逆に問いたいなって思います。
「……理不尽? 言うに事欠いて『少し理不尽』? どの口で言うのです……。叱責されている側が、なぜ叱責するのです。おまえの方が理不尽でしょう」
えーと、なんて言うのかな……。評価の軸をどこに据えるかってあると思うんですよ。ほら、効率ってあるでしょう。たとえば……そうですね、真面目にぼうっと突っ立って時間を過ごすことほど無駄なことってない。ですが無駄に格式ばった儀式のようなことを求めるお貴族さまの割り振る仕事にはそういった無駄な時間が多いですね。出迎えに人並べとく意味あります? 到着する前に先触れを出して? その時点で一列に並んで? 無駄でしょそんなの。馬車の車輪が側溝にハマったりして遅れても一列に並んでるんでしょう? 無駄な時間を削ることは業務全体の効率を高めますよね。一列に並んでる間にいま抱えてる仕事しましょう。
「いい案ね。私も時間の無駄だと思ってたわ」
「……しかし、他領からどう見られるでしょうか。非効率性があることは私も同意しますが、慣習を破ることで当家の威信を損なうことに繋がることは危惧すべき問題としてあります」
「ふうん。シアがそれを言うの?」
「……っ、そ、そもそもっ。おまえが勤務時間中に寝ていたことが問題なのです。もとに戻しなさい。話題を広げ、話を逸らすのではありません」
いやいや、繋がってきますのでご安心ください。
なぜ寝たのか。それは業務遂行能力を高めるためだったのですね。
ただ、そうですね。事前に話を通しておくべきだった、という僕側の過失はありますね……?
しかしそれも……? 職員の自律的行動を励行するというステラ様の意向を鑑みれば……?
「ふざけてるのか本気なのか判断がつかないのだわ……」
「いやだなぁステラ様。僕は本気ですよ」
──本気で、心から、怒られたくないと思っている……!!
「自信満々な顔で情けないことを言わないで頂戴」
「いや、だって──」
「ここは。きふぃの。だいじなもの」
……メリー?
なんだい横から突然。ちょっと。あっ力強いどけられない。
「なくしたくないから。おこられたくない」
「メリー? あの、メリーさん? 何言ってるの?」
「ふーん? へえ。そうなの。気に入ってくれているのね?」
「きふぃは。あんしんのとこでしか。ゆめ、みない」
「ですって、シア」
「……なぜわたくしに振るのです、姉さま」
いや知らない。全っ然知らないんだけどそれ。口からでまかせの嘘ですよね? デマ撒くのやめてください。
僕は堂々と否定した。
「めり。うそつかない」
あのねメリー? 一度撒いた嘘を撤回するためのコストって、撒いたときよりよっぽど掛かるんだよ?だから僕は使うけどメリーはやめてね。
だいたい君はめんどくさがりで口べただから、喋る度に誤解を招くっていうか──え。なに、なんですか、なんで僕を見るの、なんだよ、僕の目をじっと見られても……、
「うそ?」
メリーは無表情のまま僕の瞳を覗き込みながら、かすかに小首を傾げた。
……透き通った金の瞳に映る僕の姿は、どう見ても堂々となんてしていない。
「……あのっ! ちょっと外の空気吸ってきます! 休憩です!!」
「まだ休憩とる気だったの?」
「……待ちなさい、キフィっ、キフィナスっ」
「失礼します!!!」
僕は返事も聞かずに、メリーを小脇に抱えて執務室から逃げ出した。
……作り笑いを浮かべてたつもりはなかったのに、メリーの瞳に映る僕は、なぜか、ほんの少しだけ笑っていた。
……確証もなければ原因すらわからないけれど、世界が脅かされていると言うのなら。
この時間もまた、壊れてしまうかもしれない。
「杞憂ならそれでいいけど。……僕にできること、見つけないといけないかなぁ。ほんと漠然としてるけど。熱量ってなに……正しい位置ってなに……」
「ん。めり。てつだう。なんでもする」
「ん? うん。いざとなったら、君にもお願いするよ。現状は妄想みたいなものだけどね」
妄想みたいなものだけど。
……形になったら嫌だな、と僕は思ったのだ。
「なんかつい逃げちゃったけど。怒られないといいなぁ」
戻ったらすっごい怒られた。
夕暮れが終業時刻なのに、ごはん一緒に食べるくらいの時間まで怒られた。
一応、来週も来ていいって言われた。
時刻は数時間遡る。
「キフィナスさん。グラスア裏通りの開発計画だけど──あら?」
「……気持ちよさそうに眠っていますね。報告書を書き上げた途端に意識を失ったようです。困ったものですね……」
「ん。きのう。おそかった。しあはしってる」
「……はい。メリス。あなたとのダンジョン探索でなく、当家に関係したことで深夜まで動いていたようですね」
「ないしょって。きふぃ、ゆってた」
「……そうでしたか。キフィ……、の秘密主義にもほとほと困ったものです……それにしても、本当に気持ちよさそうに眠りますね、き、キフィは」
「あれ? 起こさないの? 背中に氷とか入れたらきっと起きるわよ?」
「……穏やかに眠る姿を見ていたら、毒気を抜かれてしまいましたので」
「いつもお互い、毒ばっか吐いてるのに」
「……素直に詫びるのであれば、それで許してあげます。寛大であるところも見せねばなりませんので」
「素直に詫びれば、ね。ちょっと思えないけど。でも、シアはどうせ許してあげちゃうのよね」




