失楽園/されど生は続く
空の色が変わらない、たった二人で完結した世界に、それでも二人は退屈を覚えることはなかった。
キフィナスは書店に通うだけでも楽しかったし、ヒトが生み出したものは何も図書だけではない。読書を通じて得た知識を再確認したり、本には書かれていなかった知見を得られたり、街にあるひとつひとつを眺めるだけでも楽しかった。
百貨店に並んでいた服と靴で着飾った二人は、東京駅を東に西に駆ける。
それは、幼い二人にとっての冒険だった。
背が高くなって歩幅が広くなるたび、足を伸ばす距離は長くなった。
「すごいよねぇ。こうやって同じものを沢山作れるって」
コンビニの陳列棚を眺めながら、キフィナスはしみじみと言った。それは心からの感嘆だった。
キフィナスにとって、この遺構群は、人間の生きた証だった。
「ん。すごい」
ぺったりと抱きつきながら、メリスは彼に合わせた。それは形だけの同意だった。
メリスにとって、この遺構群は、かわいい弟を喜ばせるアトラクションだった。
「大量生産・大量消費と、専業化ってやつだね。元を辿ると株式会社と、いわゆる『プロテスタンティズムの倫理』から……なのかなぁ。やっぱり、人がいっぱいいたんだろうね。それで、いっぱい働いてたんだ。きっと、ぼくらが暮らしてた村よりも、ずっといっぱい働いてたんだろうね。すごいなぁ」
「きふぃとめりは。はたらかなくてもよい」
「そうだね、社会がないもんね。働こうにも、その場所がない。それに、お給料をもらっても使うところがないし。でも、ちょっと罪悪感があるなぁ……。ご飯も服も、本来ならお金を出さなきゃいけないらしいよ」
キフィナスらが暮らしていた村には貨幣経済という概念がなかった。狩猟採取によって得た糧を、各々の働きによって分配するという形式で生活を営んでいた。
社会構造が違う。その違いに触れるたび、キフィナスはくすぐられるような面白さを感じる。
メリスと二人、見渡す世界のすべてが、彼には輝いて見えている。
「めりとふたり。ふたりきり」
「そうだねぇ」
そしてメリスは、楽しそうな彼のそばにいるだけで幸せだった。
ダンジョンの外では見たことのない表情が沢山見られる。真剣な表情、少し罪悪感の混じった表情、屈託のない楽しそうな表情。ころころ変わる彼の顔を見るたび、メリスの胸は暖かくなる。
「ずっとこのまま。このままでいい」
──人の想念こそが世界の核となる。
世界とは、生きとし生ける者の意志が重なり、絡み、構成されているものだ。
爛熟した鬼灯色のダンジョン・コアは、周囲の知的存在の意志を汲み上げて形を成そうとする。
その想いが強ければ強いほど。
総量が多ければ多いほど。
核は確固たる形を得て、世界はより安定し、強固な構造となる。
そして核を──世界を守るために、主が配置される。それが常道のダンジョン形成の手順である。
「わあっ! 見て、メリー! すごい、銀色に光る扉だよ! 空中に浮いてる! すごい、すごいっ。どんな原理なんだろうっ?電気?磁力? 入ってみてもいいかなぁ?いいよね? 入ろメリー!」
キフィナスは図書によって電化製品の存在は知っていても、直接動かした経験はない。
14時21分を維持するために、観測者の意識を離れた瞬間にこの世界は辻褄合わせを行う。逆に、観測者の認識範囲の外にある電力施設は稼働しない。
そのため、技術力に対して信仰とも言える過剰な期待を抱いていた。
メリスははしゃぐキフィナスを抱き止めながら、転ばないように足下を注意深く見守った。
そして、二人でいっしょに銀の扉に手をかけた。
「うわあ、真っ赤な石……。ええと、図鑑だとルビーとか、ガーネットとか……? おっきいなぁ……」
そこは小さな石室だった。
部屋の中央に、紅色に輝く核がある。
それは、少年と少女の体躯よりも大きい。
このダンジョンに、主はいなかった。
停止した世界に観測者は存在しない。ここは世界から《2020年3月21日14時21分の東京駅》と規定されており、それを覆すためには、それを覆せるだけのエネルギーが必要となる。立ち入りを制限された辺境の寒村の小ダンジョンには、感情の熱量が足りない。
「表面はつやつやだ。わ、でもなんか、どくどくいってる……。本ではこんなこと書いてなかったけど、鉱物ってどくどくするのかな?あ、少しあったかいかも。メリーも触ってみる?」
その言葉に従って、少女が手を伸ばした、その瞬間。
世界は崩れた。
・・・
・・
・
「う、ううん……」
目覚めれば、砂塵巻く荒野にいた。
四年の時が経ち。
時に雨風に曝され、時に魔獣に踏みならされた村落には、もう元の暮らしが伺える何かは残っていなかった。
「……あれ? 東京は?」
「こわれた」
「え。まだ行けてないところも読み返したい本もいっぱいあったんだけどな……こまったな……」
キフィナスは指を折ってし足りなかったことを数える。
だいたい二度寝をしたり、メリーとごろごろ横になったり、じゃれて遊んだりしたせいで達成できなかったものだ。
「めりのせい。めりがこわした」
その言葉にキフィナスは瞬きをして、
「そうなんだ。じゃあ、別にいいよ」
沢山のものを得られたしね、と。
キフィナスは何でもないことのように言った。
「よし、旅の準備はいいかなメリー。ぼくはいつでもいいよ。栄養学とか、たぶん役に立てるとおもう」
キフィナスは思う。
──メリーと一緒なら、世界はいつだって、どこだってまぶしいだろう。
メリスは無言で、無表情で、だけどはじけそうなほどの感情を胸の中に抱えていた。
そうして、彼女は傍らのキフィナスをいつものようにぎゅっと抱きしめようとして──。
「…………っ!!」
「メリー? どうしたの?」
自分が手にした力が、
キフィナスを容易に傷つけてしまうものだと気づいて、その動きをぎこちなく止めた。
辺境の旅路のはじまり。
多くのものを得た二人は、いずれ王国へと至る。
空にかかる雲が吹く風にたなびく姿を見て、時が流れる世界に帰ってきたことを二人は実感した。
* * *
* *
*
語っている内に、夜はすっかり明けていた。
馬車の窓から見える景色がすぐに僕らを横切る。どうもすごい速度を出しているらしい。街道を走っていることもあって、あまり揺れはないのが救いだった。
「はい。というわけで、僕らが生まれて初めて入ったダンジョンの話でした」
タイレル王国には法定速度という概念がないので、どれだけ危険運転をしても許されるみたいなところがある。馬車を持ち、それでいて問題になるほどの速度が出せるとなると、条件はかなり限られるためだ。よほど問題にならない限り、貴族様は同じ貴族様同士で裁きあうための法律をわざわざ明文化しない。
「はー、風がさわやかだなー」
僕は穏やかだった。徹夜なのもあるかもしれない。僕の隣で、肩にもたれ掛かってきている──痛みを伴う──幼なじみが僕を抱えるときは、もっと景色がばーって線みたいになってるからだ。慣れを感じる。
「まあ、結構長々と話しましたけど。僕はまっとうな教育を受けた覚えはないですね」
「成程ね。……ぶつりがく?とか、あなたの言ったことは正直、どれくらい理解できているかわからないけれど。キフィナスさんは、異界の知識を豊富に持っているのはわかったわ」
「ええ、まあ。そうなります。別に役に立たないことも多いですけどね。知らなきゃよかったなってことも、まあー、いくらでもありますし? これは皮肉じゃないんですけど、貴族様にとって、広めることが不都合な知識だって多いと思ってます」
僕は、自分で言うのもなんだけど、割と生きた《文化資源》みたいなところがある。ただ、今まではそれを誰かに開示する気はなかった。
おそらく、僕が得た知識の中には『統治の上で都合が悪いから』という理由で公表していないものも多いだろうからね。自らの権力を脅かすものに対し一番簡単なのは口を封じることになる。世界の歴史で東西問わず本を焼き捨てることを為政者が好んだのは、コスパがとてもいいからだ。
僕は痛いのと怖いのは嫌だ。火炙りとか苦しそうなのですごい嫌だなって思う。
それでも、視線ひとつで火を自由に操る貴族様であらせられるステラ様にそれを明らかにしようと思ったのは、まあ、一言で言えばフェアじゃないからだ。
僕は他人の秘密を暴き立てて攻め立てて晒し上げることにも全然心を痛めない高潔な精神性をしているけど、いくらなんでもそんな僕なんかを信頼してくれるお人好しにやるほどではない。
彼女のアイデンティティを酷く傷つける真実を聞いてしまった以上は、これくらいは話さないと卑怯なんじゃないかな、と思った。基本的に僕は卑怯だし自分が卑怯であることを恥じることもないけど、どうしてか、誠実なひとの前で卑怯でいると居心地が悪かったりするのだ。
まあつまり、僕が彼女の秘密を話せば、彼女も僕の秘密を明かして生きた宝箱にできる。逆もまた然りだ。
「………よかったの?」
いいですよ別に。ただ僕が落ち着かない、というだけです。
無条件の信頼を寄せられるより、お互いに条件付きの信頼を抱えていた方がいいでしょう。
あ、メリーもよかったよね?喋っちゃったけど。
「ん。よい。きふぃは、もっとしゃべるべき。いっぱいはなすべき」
自分で言うのもなんだけど、僕は結構おしゃべりしてるよ。
「じぶんのこと。もっと。みんなに。はなす」
あー、うん。そうだね。追々ね。おいおい。僕は頭をぐりぐりと肩に押しつけてくるメリーの髪を撫でた。
ん? おや。ステラ様、どうかしました?
「ねえ。キフィナスさん。──うちで働いてみない?」
「は?」
「帰ったら、全員を解雇しなければならないでしょう? そうすると、私とシアの味方はいないのだわ」
……いやいや。
全員を解雇って。ずいぶん苛烈ですね。
「王都から戻ってきた……おとうさ──父に近かった者たちには、少しずつ暇を出していたのだけれどね。ロールレア家に忠誠を誓ってくれたあのひとたちには、もちろん申し訳ないとは思うけれど──家への忠誠では、いけないの」
それはそうですけど……。
「『家財の多くが瓦礫に沈んだ』と伝えて、それでも我が家のために働きたいと言ってくれた時は、本当に、ほんとうに、嬉しかったのよ?」
ステラ様の声には、悲しみが滲んでいる。
彼女の傷跡は、まだ深いらしい。……それも当然か。
「私には、何が善で、何が悪なのかはわかりません。父の行いは人道にもとるものでした。だけど、それは我が家のならいで、私はその血を引いている。それが我が家の歴史だというのなら、背負わなければいけないのでしょう。
ですが、その悪因を続けるかと言えば、話は別です」
受容と訣別。
彼女は、そんな道を選択したらしい。
実に彼女らしい、まっすぐな──、
「──わたしは、あなたが欲しい。力を、貸して頂戴」
燃やされてしまいそうなほどまっすぐな眼差しだった。
高貴な眼差しだった。不安に揺れた眼差しだった。
思わず僕は息が詰まった。
「……え、いや、あの。僕には、メリーが──」
「きふぃ。きふぃのやりたいことを、やる」
……そっか。やりたいこと、ね。
しいて言うなら。あくまでこれはしいて言うならだけど、頑張っているひとに対して、僕のできる範囲で、力になりたいって思うよ。
『どこかの誰かさんが無茶やらかさないこと』というのが僕の人生の勝利条件にはあるんだけど、それを脅かさない範囲で協力したいと思う。
というわけで、
「──週2からでいいですか?」
対面に座る女の子の熱を放つような視線に負けないように、僕はキメ顔で言った。




