文明賛歌
社会の最小構成単位とは、《自分》と《あなた》と《誰か》の三人だ。二人では社会に──人間が相互に連関する共同体にはならない。
二人きりの空間では、どんなに賢かろうと、どんなに強かろうと、どんなに尊敬を得られる能力を持ち得ようと大きな意味はない。あらゆる能力は、自分とあなたとの比較によってのみ規定されることとなる。隔絶した力を持つメリスと無力なキフィナスとの差は、この世界では限りなく縮む。
よって、たった二人のみで完結した世界では『己の価値観を隣のあなたへと合わせる能力』こそ、もっとも価値あるものとなる。
「眠くなってきちゃったな……」
「ん。おひるね。ねどこ。さがす」
「あのおうち借りようよ」
キフィナスはキャンピングカーを指さした。
メリスはドアを破壊した。キフィナスはひどく驚いたが『すぐなおる』という言葉で落ち着きを取り戻した。
二人きりの2020年3月21日14時12分の東京には、およそ社会と呼べるものは存在しなかった。
器物損壊もなければ、窃盗も住居侵入もない。
二人は好きなときに好きなことをして、休みたいときに休んで、食べたいときに食べた。
「ちょっと休んだら、つぎはあっち、あっち探検してみようね!」
「ん」
掛け布団の獣の皮を被りながら、二人はお互いを抱き枕にして眠りにつく。
「……あったかいね」
「ん。あったかい」
二人はぎゅっと抱き合って、お互いの体温を頼りに眠りについた。
そうして、すっかり寝過ごした。寝過ごしてなお太陽はぴったりと同じ位置にあり、何より二人とも寝過ごしたことを気にすることはなかった。
二人の行動は、そのすべてが思いつきから発されるものだった。
・・・
・・
・
静止する東京にて。
「わあ……! 本がいっぱいある! すごい、すごいよメリーっ!」
とりわけキフィナスが気に入ったのは、8階建ての書店だった。
彼らが暮らしていた村は、村長のみが利用していたダンジョンこと2020年の東京都から引っ張ってきた事物の影響を受けている。
──つまり、小さい村落ながら文字の概念があった。加えて、印刷物が存在していた。更に言えば、6歳のキフィナスにもひらがなとカタカナの読み書きができた。
「ええと……。よ、よめない」
子どもでも手に取りやすい大きさ──文庫サイズの図書を見つけたキフィナスは、精緻なデッサンで人の絵が描かれている表紙に惹かれた。
「めり。よんだげる」
ぺったりと、メリスが頬を合わせて密着する。
「あ、うん……。ありがと」
メリスには生まれつき多数の《スキル》がある。《言語完全理解》もその内のひとつだった。彼女はあらゆる言語──それが言語として用いられているものなら、スラングはもちろん象形文字であっても紐の結び目であっても──目にしただけでその意味を完全に理解できるという能力を持っている。
そんな彼女の能力は、もっぱらキフィナスを喜ばせるために使われた。
「──しかし、これらのこりつしたとしは、あるきしょうのぶっしつのどくせんまたはじゅんどくせんによっていきていた。ぶんめいがかくだいするためには、もっとひろいせいたいがくてききばんがひつようであり、じぇりこやちゃたるひゅゆくではそれはふかのうだった」
そうして、メリスは上下巻の、彼女の手のひらよりもやや大きい文庫サイズの、『世界史』を朗読した。
「すごい……!!」
メリスの朗読は一本調子で淡々と進み、事前に知識などもなかったため、キフィナスは当然ながら内容の1/100も理解できていなかった。
しかし、それでもわかったことがある。
──この世界が、人間の手によって生み出されたものであるということだ!
美しい外観をした背の高い建築物。勾配がなく、歩いても足の裏が土で汚れない平らな床。何でできているのかわからない、透き通った薄い板。
地下に穴を掘っているのに、地上でいくら飛んでも跳ねても崩れたりしないこと。
そして、どの店を見ても整然と並ぶ商品たち。
村落で暮らしてきたキフィナスには、それらが人間の手によるものだとは思えず──しかして、自分の目に映る景色のすべてが、ただの人間たちによって築き上げられたことを理解した!
なんということだろう! キフィナスは背骨に雷を落とされたような衝撃を受け、座りこんでいるのに膝に震えが止まらなかった!
「……きふぃ? いたい? くるしい?」
「あ……、あれ?」
そして、キフィナスはメリスの声で、自分が涙を落としていることに気がついた。
「えとっ、いたくないよ。くるしくもない。でもっ、なんだろう……、むねが、あったかくて……」
自分の感情を表現するための語彙を、幼いキフィナスはまだ持っていない。
「なんて……、いうのかな。ぼくにも、よくわかってないんだけど、……ひとって、すごいなって」
それは、文明に対する畏敬の念だった。
人間の営みが生み出した造物への驚きだった。
それを垣間見ることができたことへの喜びだった。
「すごいって、思ったんだ」
すなわち感動だった。
そうして、キフィナスは書物に食いつくように読んで回った。時間の止まった世界で毎日通った。
色んな本を読んだ。多くのことを知った。知るたびにわからないことが増えた。わからないことを埋めるように知ろうとした。
次第に、メリスの朗読に頼るのがもどかしかったので、語学の勉強を始めた。大きくて手で持てないため、地面に広げながら読んだ。字典を読んで漢字を知った。それから世界に色んな言語があることを知って、その数に圧倒された。頼ってくれないからとメリスが無言のまま拗ねた。
辞典を地面に広げながら読むことで、自分ひとりで本が読めるようになったため、今度は人間──この文明を作り上げた人たちについて知ろうと思った。
医学の本は怖かったけれど、自分の体について、驚くほど何も知らなかったことを知った。そして、《スキル》《ステータス》を解説することがないことに気がつき、この大いなる文明を築き上げた人々が、自分と同じ、何の能力も持たない人間たちであったことに更に驚いた。メリスは1冊の本を10秒から20秒程度で読み終え、弟がかまってくれない腹いせに、読み終えた本を次々床へと投げ捨てるようになった。
それから、科学の本を読んだ。元素という、世界を構成してるという小さな物質が、すごく大きな写真付きで載っている本だった。人間の体もこれでできているらしい。そして長い歴史の中で、これらをひとつひとつ発見した人々がいるのだと知った。メリスは150万冊ほどある図書を一通り読み終えて拗ね終えたあと、夢中な表情で本を読み進めるキフィナスを眺めていた。
改めて、ひとりで歴史の本を読んだ。積み重なった人間の営みの、その層の厚さに改めて震えた。そして、同じ歴史であっても著述者によって争点が異なること、価値観の多様性を知った。キフィを眺めているうちにすっかり機嫌を直したメリスは、ぺったりと頬と頬をくっつけて、キフィナスが目で追っている本文に視線を合わせた。
歴史の本の中で、経済という概念にたびたび触れられていた。そのため、経済の本について読んだ。なにやら、よくわからない。わかるのは、貨幣と呼ばれる物体をあげたり貰ったりする巨大なシステムが存在したことと、店の商品には値段がついているということだ。どうやらぼくらは悪いことをしているらしい。悪いこととはなんだろうか。では次は法律か、はたまた算数を──。
キフィナスは、好奇心のままに知識を膨らませていった。知識を得るたびに浮かび上がる尽きない疑問に対し、ひとつひとつ自分で答えを見つける時間はたとえようもなく楽しく、それでも疑問はいくらでも湧いた。
何故メリスはもう全部読み終えたって言っているのにこうして背中に乗っかってきて一緒に本を読んでいるのだろう。
何故村長は、こんなにも価値のある多種多様な知識を独占していたのだろう。
何故、これだけの文明を築き上げた人々が、どこにもいないのだろう。
「ねえ、メリー?」
キフィナスは、のしかかって抱きしめてくる幼なじみに問いかけた。
「どでもいい」
メリスは答えを知っている。
のしかかって抱きついて首すじをかぷかぷと甘噛みするのは、じゃれつきたいからだ。それ以上の理由はない。
村長が知識を独占していたのは、希少な物質
の独占が自身と一族の権威に直接結びついていたからだ。その優位を崩さない範囲で村長は寛大で気前がよかった。
この世界にキフィナスとメリスしかいないのは、時空連続体の一部を切り抜くためには無生物しか存在しえないという構造の問題があるからだ。魂を持った存在が観測することで世界はそうと規定される。だから生物を配置できない。この世界の事物はメリスとキフィナスの認知を外れた途端に辻褄合わせを始め、元の2020年3月21日14時12分に戻る。
──しかし、どれも重要なことではない。
そんなことよりも、メリスはキフィナスにかまってほしいのだ。
キフィナスは、すぐに新しい疑問を見つけては、それを解消するために何冊も何冊も本に当たる。そろそろ立ち止まって、こっちを向いてもいいだろう、とメリスは思うのだ。
だから、これはいぢわるではない。
「うーん……。なんでかなぁ」
いぢわるではない。いじわるではないけれど──困った顔を、こっちに向けて。
やわらかなメリスの乳歯が、生白くか細いキフィナスの肌に、くっきりと小さな歯形をつけた。
日昇らざる国にして、日没さざる国にて。
時間のない世界で、二人はじゃれあうように日々を重ねる。
お互いの体温を感じながら、二人は同じように歳を重ねていく。
しかしある日、破局の時が訪れた。
※ メリスの朗読はマクニール『世界史 上』中央公論社,2008
第Ⅰ部「ユーラシア大文明の誕生とその成立」小節「最古の文明」より(p.55)
「しかし、これらの孤立した"都市"は、ある希少の物資の独占または準独占によって生きていた。文明が拡大するためには、もっと広い生態学的基盤が必要であり、ジェリコやチャタル・ヒュユクではそれは不可能だった」




