迷宮都市の困った長
平穏とは、波乱と波乱との間にある、つかの間の時間を指すんじゃないだろうか。
僕はふとそんなことを思って、それはあまりにも不吉な考えだと思い直した。
なんだろう。僕はただ、毎日ぼんやりだらだら生きたいだけなのに。
間違っても部屋の窓ガラスが毎日割れるような生活は望んでいないし──、
「……はっ……、ふっ……、おまえだけが、頼りなのです……!」
息を切らせて必死な領主代行様に、こうやって両手を握られて懇願されるようなことは、おおよそ平穏という単語からはかけ離れている光景だ……。
シア様の手はやたらと冷たい。夜風に当たっていたためだろう。ガラス窓を凍らせて砕いたのも関係しているかもしれない。
部屋の窓辺は、破裂した氷とガラスできらきらと輝いていた。
「……キフィっ……、キフィナスっ……」
握られた腕にぐっと力が籠もる。深い青の瞳が、正面から僕を見据える。
彼女はシルエットを隠せる大きめの外套を羽織っていて、僕はパジャマだ。
……僕はシア様から目を逸らすが、シア様の方が許してくれない。
「と、とりあえず落ち着いて……」
「……はっ、はい……。……おまえの手は、あたたかいのですね……」
「え?いや、まあ、ついさっきお風呂入ったばかりだからですかね。こっちは冷たいので離してもらいたいんですけど……」
「……やです……」
なんでですか離してくださ……あっ僕の腕力じゃシア様に勝てない。メリー。メリーたすけて。
え、だめ?なんでぇ……? なんで壁際に離れるの……?なんでじっと見てるの……?
……まあいいや。僕はシア様に問いかける。
「ええと、どうして夜遅くにひとりで……」
「……王都に行った姉さまの魔力が、辿れなくなったのです。最も信頼できる者の力を借りようと考えました」
「信頼、ですか」
「……もちろん、姉さまのつぎにですが。姉さまの次ですが、……わたくしが、世界で、にばんめに信頼できるひとは、おまえです」
──信頼という言葉が、僕の胸にのし掛かる。
前回、屋敷を爆破された時と違って、今回のシア様には選択肢があった。
早馬を備えている憲兵隊でも、身元調査を進めた家臣でも、いかがわしい切り札を沢山持ってる冒険者ギルドでもいい。
多様な選択肢の中で、僕を選んでくれたことは、言葉通り『信頼してくれている』ということなのだろう。
ただ、僕にとってはずっしりと重くて、
持ってるだけでも全然落ち着かなくて、
できることなら今すぐにでも放り投げてしまいたい代物だった。
「……僕を、ねぇ?」
──僕は性格が悪い。
ねじくれてひん曲がっている。自覚はある。
でも改善する気はない。しようとも思わない。
そんな自分の性格が、僕は別に嫌いではないからだ。
誰かをからかってけらけら笑うのは楽しいし、敵対しない範囲で嫌がらせをするのも楽しいし、相手の毒虫を噛んだような表情を見るのが楽しい。
何より、そういう態度は他人を遠ざける荊棘になる。
……実のところ。僕は、他人が怖い。
物理的にも精神的にも、他人を隣に近づけたくないな、と思っている。
なにせ僕には力もないし、《スキル》もないし、《魔術》も使えない。
街の人は武器を持った冒険者を恐れるけれど、街の人だって僕にとってはそう恐ろしさは変わらなかったりする。突然ふっと『血が見たくなった』とか言って飛びかかられたら、準備していなければ僕はろくな抵抗もできずにそのまま死んでしまうだろう。
その点、セツナさんのように明確に僕をぶっ殺そうとしてくるひとの方が事前準備ができてまだ安心……いや、できないな。あの人はあの人でもちろん怖い。
だから、まあ、いずれにせよ。
僕は他人の能力を信用することはあっても、人柄の信頼はしない。
…………はず、なんだけど。
「…………迷惑、でしたか……?」
顔を伏せたシア様が、遠慮がちに僕に問いかける。
いつもよりずっとか細い声の問いは、貴族の子女のそれではなく、
まるで寄る辺のない、年相応の、普通の女の子のそれで。
重くて、落ち着かなくて、捨ててしまいたいはずのそれが。
僕の胸の中で、どくん、と。
熱を持って、うずくのを感じた。
「きふぃ。へんじ」
あ。
いけない、ぼーっとしてたな。
「ええと……、いえ。僕は、あー、薄汚い冒険者ですからね。だから、その。権力者とのつながりは、やぶさかではありません」
「……そう、ですか。……よかった……」
我ながら、空滑りした言葉だなと思う。
……少し腕が震えて、足がすくんで、喉がかわいていた。
痛いのは嫌だ。怖いのは嫌だ。誰かに裏切られるのは怖いから嫌だ。だいたい暴力を伴ってて痛いから嫌だ。
──そして、誰かを裏切ってしまうことも、同じくらい怖くて、痛くて、嫌だ。
だから僕は、誰かの期待なんて受けたくないし、自分のやりたいことを、やりたいだけ、やりたいことだけやってきたつもりだ。
「詳細を聞かせてください。一般的な冒険者が、依頼を受けるにあたっては、そんなことをするそうなので。僕は八流ですけどね」
だけど。
震える手を抑えた僕は、僕よりも震えてる女の子に、せいいっぱい応えたいと思った。
・・・
・・
・
「なるほど。シア様は自身の魔力を氷の粒に変えて、ステラ様に付けて。いつでも場所を把握できるようにしていたんですね」
「……はい。《氷晶蚤》は微少な粒ですので、目に見えることはありませんし、冷たいと感じることもありません。また、わたくしが解除しない限り、魔術で生み出した氷が消えることもありません」
「さらっととんでもない情報が出てきたな」
それを聞かされて僕はすごいなーって思った。
すごい。色んなことができる。
要人の位置を常に把握できるというのは、それだけで情報戦を優位に進められる。
誰がどこに行ったか。誰と誰が懇意なのかを知れるだけでも、取れる手は大きく変わる。
悪名高い商人が、どの貴族と繋がっているのかを知ることができれば、追い落とす材料なんていくらでも掘り出せるというものだった。
「すごいですね。すごい」
僕は、シア様の能力を一言でまとめた。
我ながらまとめ能力が高い。
「……いえ、わたくしの能力は、姉さまには及びません。姉さまの炎は、溶岩よりも熱いのですから」
「いやいや。勝利条件ってただ正面でぶつかるだけではないですし。そんなこと言ったら僕なんか指先から水すら出せません。真正面から勝てないなら、迂回でもすればいいんです」
「……そういうもの、ですか」
「そういうものですよ。よーいどんで力比べなんてする必要も、機会もないです」
「ん。きふぃは。かしこい」
なんか壁際で僕らの会話を眺めていたメリーが口を挟んできた。
口を閉じた直後に、さっとそのまま再び壁の陰に隠れる。メリーの遮蔽物になった壁はもう既にボロボロだった。
「あの。メリーさん。僕を持ち上げようってタイミングでだけ会話参加するのやめませんか」
僕はメリーをたしなめた。返事はなかった。知ってた。
メリーさんほんとそういうとこある。
僕は気を取り直して本題に戻った。
「ええと。魔力が辿れなくなるのは二通り。氷晶が破壊された場合と、ダンジョンに入った場合ですね」
「……はい。ダンジョンに侵入することで魔力が辿れなくなることは、確認しています」
王都の憲兵隊は控えめに表現して金権汚職がまかり通るぼんくら揃いだ。ステラ様の身元を改めて、付着した氷の粒をなんとかしようなんて真似はしない。
王都の裏通りは僕らが住んでた数年前より遙かに治安がいいし、まあ返り討ちだろう。視線より早い動きが出来る変態は、僕は数人しか知らない。
それに、仮に街中で倒れていたなら、魔力はそこから動かないだろう。憲兵隊に引き取られて、土に埋められての行程で、氷が破壊されることもない。
「そうなると、つまり……」
「……はい。姉さまは、また、再び、おひとりでダンジョンに入ったのではないかと。今回は《適応》して強くなったからと」
「あー……その、なんというか……」
懲りないのかな、ステラ様。
「……姉さまは。好奇心が旺盛でいらっしゃいますので……」
そうですかー。好奇心が旺盛なんですねー。
まあ、ここにいない人をあげつらっても仕方がない。
最後に、まあ冒険者らしく、報酬の話とかしましょう。
「……今回の報酬についてですが──」
「いえ。自分で言っておいてなんですが、別にいらないですー。僕は七流?とかそれくらいの冒険者ですしねー」
「……ですが、それは……」
「まあ、強いていうなら。お二人の笑顔が、一番の報酬かなって」
「っ──!」
なーんて。僕はけらけらと笑って──え、シア様?
あの、突然そっぽを向かれて、ええと……?
気分を害したのかな……?
「……いえ。気分を害してはおりません。ただ、……わたくしを、見ないように」
えええ……?
「……きふぃ、き、きふぃなす。わたくしは、いつか恩を返します」
はあ。
そうですね。伯爵家に売った恩というのは結構大きそうですね。
期待して待ってます。
「……はい」
それはそうと、背中ごしに会話というのはどうなんですか?
僕不敬とかになりません?
「……不敬です」
え、じゃあこっち向いてください。
「……嫌です」
ええええ……?
困る……。困った……。
「……いいですか、そのままで聞きなさい……」
そのままで聞いていいんですか? え、不敬なのでは?
なんかぼそぼそ喋ってますけど、ただでさえ小さくて細い声が全然聞こえないんですけど……。
困る……。『はい』とか『ええ』とか『そうですね』とか言うけど、すっごい困るぅ……。
「……わかりましたか?」
「わかりましたー」
わからない。
なんていうか、まあ──迷宮都市には、ほんと、困ったひとたちが多いんだなと。
品行方正極まりない、ちっとも困らない僕はそう思った。
「あー。それはそれとしてー。ひとつだけいいですかー?。今は夜で、ここは野蛮で低俗な冒険者の邸宅で、その上そこは玄関じゃないんですけどー。そこは貴族の子女として、どのようにお考えなのかなーーって──え?メリーなんで僕をつかんでるの?痛いんだけど?あの、そもそも僕まだパジャマで皮鎧きたりとかってうわああああああーーーーっ!!」
「いそぐ」
「いやまあ急ぐけど急ぐべきだけどなんていうか心の準備って大事ぶぇ──」
「よけいなこと。しゃべると。したかむ」
「もごごご……」
迷宮都市の夜空には、幾万の星が煌めいている。
流星になった僕は彼らの仲間入りをした。
しぬかとおもった。
荒れ果てた部屋の中で、深い青髪の少女は、ほう、とため息をつく。
ついていきたいという気持ちはあった。無鉄砲な双子の姉に、自分と正反対の積極的すぎる姉に、苦言の一言や二言は呈していいと思ったし、
(……なにより。あの旅は、たった数日でしたが……たのしかったです)
だが──今、領主の血族が姿を見せないとなると、領民が再び混乱することは目に見えていた。
領主邸の爆破から、迷宮都市の動乱は今なお続いている。
今の彼女に出来ることは、『依頼をした』と宿屋の人間に説明をすることと、
──彼を信じて、待つことだけだ。
シアが背を向けて、『自分が笑顔を見せたときには、いつもの上辺の笑みじゃなくて、本当の笑顔を見せてほしい』と言ったとき。
彼は、わかりました、と答えた。
(……待っている間に。笑顔の練習を、するべきかもしれませんね……)
シアは割れたガラス窓に向かって笑顔を作ってみたが、その形は姉のそれよりも歪だった。
そして、自分の行為を少し恥じたシアの頬に、さっと赤が差した。
「……とにかくっ。頼みましたよ。………………きふぃ」
シアは頬を染めながら、世界で一番に頼れる彼の愛称を、世界中の誰にも聞こえないくらい小さな声で呟いた。
床に散らばる氷晶が、はにかんだ彼女の、つぼみのような笑顔を静かに映していた。




