迷宮都市デロル貸金業店舗《貧者の灯火》バックヤードにて
経済とは、文明の発達に欠かせない要素である。
原始の非市場社会においても、貴重品の贈与という形式で富の交換・貯蓄・分配は行われ、そのうちヒトは通貨を発明した。
そして、市場経済の発展に伴い、分業化と、社会全体の生産力の向上とが始まる。
──しかしながら、世界《ラーグ・オール》は、尋常の発展形式を辿っていない。
この世界には文化文明の痕跡を残した《ダンジョン》があり、それを模倣する形で文明を発展させていった経緯がある。
技術の階梯を一段、一段と積み重ねたわけではなく、二段飛ばし、三段飛ばしで文化を進めるために、穴がある。
馬を交通手段として利用している社会にて、石畳の隅に、その糞便が垂れていないのは、いびつに発展した衛生観念によって、掃除夫が設けられているためだ。
そして、この世界には人間の身体能力に補正をかける《ステータス》という概念が存在する。
一個人が、国家を打破する力を持ちうることは、社会の発展に著しい影響を与える。
歴史を動かす少数の天才の影には、数多の凡人がいるものだが、この世界は凡人を必要としない。
ゆえに、政体や文化、文明は極端な形に偏りやすく。
「そして、ボクがいた」
一切の光源のない、暗い部屋にて。
闇の中で、クロイシャの紅の瞳はテーブルの上の手紙に注がれていた。そろそろ、彼らには督促状を送りつけなければならない。
競合他者が増えないほど低い利率と、10年から20年以上という気の長すぎる期日によって、基本的に良心的な運営をしている貸金業者ではあるが。
クロイシャの《貧者の灯火》は、支払いの意志のない者を──心のうちに燃ゆる火を消した者を許さない。
「おい。貴様は、なにをちまちまとしておるのじゃ。文官の真似事かの?」
黒いゴシックドレスに身を包んだ、眼帯を着けた少女が、古風な口調でクロイシャに語りかける。
その髪は黒みがかった濃紫で、肩口のところで切って揃えられている。
彼女の身体的特徴のうち、最も目立つことは──四肢がないことだろう。上は肩から先、下は鼠蹊部から先、つくべきところにつくものがない。彼女にあるのは、頭と胴体だけだ。
その姿は、見ているだけで、ざわざわと心がざわめくような不吉さを感じさせる。
眼帯の少女は椅子から身を乗り出そうとして、倒れてぐえと声を上げた。
「ロマーニカ。テーブルクロスを引く座興の練習なら、余所でやってくれないかい? 何度も言っただろう。ボクの生業の邪魔はするなと」
「貴様……」
「ほら、あちらのテーブルまで這いたまえ。ああ、ドレスならいくら汚してくれても構わない。換えはあるからね」
「道化のような真似を、余がするわけがないじゃろうがっ!」
「そうだね。キミは零落した姿でも、誇りは失わなかったからね。あるいは驕りと言っていいのかもしれないけれど。その姿勢は、尊敬に値すると思っているよ」
クロイシャは、そう言いながらロマーニカと呼ばれた少女を椅子へと戻す。
「……屈辱じゃッ! 竜姫たる、この余が!」
「仕方ないだろう。キミが四肢を持っていないことも、ボクに世話をされていることも。だいたい、今のキミは竜ではなく蛇だし、もはや姫ではないじゃないか」
クロイシャは手紙から視線を離さずに会話を続け、ついに万年筆を取り出した。
インク壷に浸されていた純金製の筆先には、鳥の紋様が描かれている。
「なりたいのなら、叶えてあげることも吝かではないがね」
「ふん。民のいない玉座に何の意味があろうか。それに、貴様に貸しを作るのも好かん」
「そうか。……世の王たちが、キミのようだったら。この世界にはもう少し多くの国家が残っていたのかな」
「国?」
「うん。キミはブーバの話を聞いていなかったからわからないだろうけど。ボクは《キキの魔法》が届く範囲に、多くの国を作っていたんだよ。宗教国家、軍事国家、全体主義国家、民族国家、都市国家……、古いものは1000年前から、新しいものは120年ほど前にね。コンセプトを考えたものもあれば、そういった方向に傾いたものもある。まあ、多くはそのまま滅んでしまったけどね。
今残っているのは……、貴族制と分国統治を行う都市国家の延長線の王国。選挙にて選定された皇帝に国家の裁量権が集中している《ヘザーフロウ帝国》。それから、比較的最近成立した、特定の君主を持たず、民主化の道を進めた《ドノワバズ共和国》かな。他は、およそ国家の形態を保っていない。法の範囲外、灰の大平原の向こうの辺境の集落と、そう変わらない状態だ」
「随分と腕の悪いキングメーカーがいたものじゃの」
「……そうだね。そこに返す言葉はないよ。一代、二代はたいてい上手くいくんだけれど、カリスマによる支配とは脆さを孕んでいるものだ。……国が破れるたびに、ヒトの生が有限で儚いものであることを、実感させられる」
「いっそ、貴様がすべてを管理すればよいのではないか?」
「いや。どう生きるかの指針とは、過去の亡霊でなく、今を生きる人々に委ねられるべきだよ。文明の盛衰は優劣ではなくあくまでも結果だ。衰退、滅亡はすなわち誤りではない。それは、社会のありように過ぎない。もちろん、寂しくはあるけどね」
──より早く産業革命を迎え、大量生産と消費の段階に入った国もあった。
──『隣人を愛せ』と相互扶助を徹底させ、福祉がよく充実した国もあった。
──ダンジョンから産出された資源から、独自の文化を築き上げた国もあった。
しかし、そのどれもが皆滅んだ。
クロイシャは、その滅びの原因が、その地に生きる人々が誤っていたからだとは思わない。
ただ、彼らが熱意の元に引いたレールが、その道を少し違えていただけなのだ。
「他者の熱だけが、触覚を失ったボクを暖めてくれる」
クロイシャは、ふっと冷たい息を吐く。
生気を感じさせない、厳寒の木枯らしのような吐息であった。
「多様な国があったということは、経済活動もまた多様だったということだよ、ロマーニカ。管理通貨制を導入した国もあれば、物々交換からなかなか発展しない国もあったし、兌換制を取り入れた国もあった。株式会社の概念まで理解したところもあるね。ああ、変わり種で言えば、平等のために廃したという国もあったかな。まあ、そこは早晩に滅んでしまったけれど」
「そこでも貴様は、今のようなことをしていたのか?」
「そうだよ。マイクロファイナンスが中心になったのは、ここ200年くらいだけれど。昔はもっと国同士の距離が近くて交易もあったから、最初は両替商の看板を立てていたんだけどね。まあ、今でも王国の外に住まう人々が来ないわけではないから、一通りの貨幣は保管しているけどね。たとえば……」
クロイシャは鈍色の貨幣を取り出す。
それは、いびつな楕円型をした銀貨だった。
「600年前、ジェレミア神国の愛道徳規範銀貨。元々真円だったものが、地金を盗むために少しずつ、多くの人々に削られて、こんな形になってしまった。王国の貨幣は縁に細やかな溝を作って、地金盗りを禁じている。しかしジェレミア神国の人々は、問題を認識してもなお、その貨幣の形を改めることはなかった。『愛を疑ってはならない』という教義に殉じたんだ」
「宗教国家かの? ふん。宗教は好かん。何の利もない」
「それは偏見だよ、ロマーニカ。倫理観を共有するに当たって、布教はコストが低く効果が高い。全国民に教育を施すために必要な人材・設備・制度を整えることは、まず前提に、豊かさを必要とする。『盗みや殺害を禁じる』という規範を学のない人間にも伝えることができるというのは確かなメリットだ」
「しかし、盗みが常態化しておったのであろう?」
「そこが難しいところなんだ。宗教的権威に陰りが出ると、共有していた価値観にも疑いが出てしまう」
「ならば、それは民とは言えぬし、そこは国とは言えんのじゃ。禽獣とその巣よ」
「キミは手厳しいね。それでも、多くの善良な人々にとって、宗教というツールは身の回りに起きる理不尽──たとえば、病や死だね──に、説明を与えてくれる有用なものだよ」
「フン。貴様は、蟻の一匹にすら利を見いだすのではないかの?」
「それは当然だろう? ボクは商人なのだから、あらゆるものに値を付けるさ」
クロイシャはそう言うと、緋色の目に燐光を灯した。
「ふむ。新米冒険者カナンが、ダンジョン探索を終えたか。彼は筋がいいね。返済計画もよく練られている。まだ未分化の魂は、果たしてどんな道を辿るのだろう」
「覗き見とは趣味が悪いのう」
「趣味が悪い、か。その言葉は職業柄、言われ慣れているよ。片目を潰したキミと違って、ボクの眼は多いからね」
クロイシャの《眼》は至る所にあり、魔力を消費することで監視記録を読みとることができる。
300時間分の声と映像を、瞬きのうちに把握することが可能であった。
「他には──ラスティ・スコラウスの論文が掲載拒否されたようだね。タイトルは『世界空洞仮説』。いささか論理に飛躍があるが、悪くない着眼点だ」
灰髪の彼に刺激を受けたのかな、とクロイシャは笑った。
あるいは、この若き研究者もまた、貧者の灯火の利用者となるやもしれない。
クロイシャはダンジョン学の学位を取得している。
──明日は、直接彼の元に、営業に赴いてみようか。
「……いずれ、すぐ、消える世界であろうに。貴様は、明日のことばかり考えておるのじゃな」
「ああ。そうだよ。ヒトは、最期の瞬間まで、胸のうちにある炉を燃やし続けるものだからね。世界が燃え尽きて、すべてが灰に変わっても。その寸前まで心の火は消えないのだろう。
ボクは、その灯火で暖を取りたいのさ」
燻る種火を、猛る赤き炎を、静かに燃ゆる青き焔を。
ヒトの胸のうちに、しかと宿る熱を。感情を。魂を。
魔人クロイシャは、それらを美しいと思うのだった。
今日という一日をひとことで表現するなら、つかれた。
お風呂に入って、部屋で日課のトレーニングこなして、それからもう一度お風呂で身体の汗を流して。
そうして、僕の一日は終わる。
「ふう……」
へとへとになった体力の全てをトレーニングで使い果たして、水分を吸って手足の指をしわしわにふやけさせた僕はもういますぐにでもベッドに倒れこみたい。倒れ込む。倒れ込んだ。
ああ……。ふかふかの布団が、ぼくの全身をゆったりと包み込む……。
ぬくい……。
「ねえ、メリー……」
ぼくはうとうとした頭で……、となりのメリーに話しかける……。
「明日は……、今日より穏やかな一日だといいね……」
「きふぃといっしょなら。いつも、そう」
「え? うわ目が覚めたよ。君が寝ぼけたこと言うから覚めちゃったよメリー。認識の違いがあるね僕はメリーと一緒ならいつだって穏やかだとは思わないというか穏やかさと無縁の行動ばかり君はしていると思うんだけどもしかして自覚が──」
──瞬間、窓ガラスが吹き飛んだ。
「キフィっ……、キフィナスはいますかっ!」
こんな時間に襲撃か!と疲れた身体で十尺棒を手にすると、
声の主は、なんか見知った女の子だった。
「……シア様? 夜盗の仲間入りでもしたんですか? それとも屋敷を爆破された腹いせに僕の宿屋を爆破するなんて考えを──」
「姉さまの魔力反応が消えたのですっ!! 行方不明なのですっっ!!!」
……ええと?
とりあえず、その。落ち着いていただけませんか?




