長髪と長話
絡まりそうなほどに長い黒髪が、顔を暗幕のように覆う。そんな相手と、僕は顔をつき合わせ対面している。
さっそく僕は指先を絡ませた。
「ひっ……!」
さっきまでぼそぼそと呪詛のような何かを呟き、うめき声を上げていた相手が、今度は小さな悲鳴を上げて指を引っ込めた。
それを見て、僕はけらけらと笑う。
僕は痛いのと怖いのが嫌いだ。
顔を完全に隠すより長い前髪とか。イタくて怖いじゃん。
そんな相手が動揺する姿は僕に安心感を与えてくれる。
ついで僕は、人差し指と中指で、二足歩行びとを作ってテーブルの上をてくてく歩かせてみた。
僕が指を一歩近づけるたび、長い黒髪が大きく揺れ、姿勢が強ばるのがわかる。
指とは、感覚が集中している場所だ。
それでいて結構簡単に治療できて、痕も残らないから乱暴なひとたちとおはなしするのに便利だ──というのはともかく。僕がそこに触れた理由は、相手の反応を伺い見るためだ。
別にそんな気はなかったんだけど、どうも僕は先ほど、なんか胸を触っていた。
そんな相手が、何の脈絡もなく指先を触ってきたとしたら。相手はそれを、どう考えるのだろう。
嫌悪? 屈辱? 動揺? それとも──。
「怖いですか? 僕が。この、灰色の髪が」
「あっ……、あっ……」
僕は、相手の感情を恐怖と決め打った。
人間の感情というのはひどく曖昧なもので、どっちつかずだから、こうして言葉にしてやると引っかかる。
僕の印象を『怖い』と塗る。
「疫病の媒介者。魔力を持たない石ころ未満。論理的思考力のない魔抜け。灰色の髪には色んな印象がありますね。それらをいちいち集めてまとめて否定するのもバカバカしいので、どう思われても構いませんけどね?」
これまでのやりとりを考えるに、この人は、僕だけじゃなくて世間一般の灰髪に対してマイナスなイメージを抱いている。
それは気味が悪かったり、嫌いだったり、いくつもの要素が混じり合った感情だ。
別に、僕は誰にどう見られようと構わないし、それで困ることもないし、更に言えばそういうイメージが付いてることで得してることは結構多い。
ただまあ、嫌悪よりは恐怖の方がコントロールしやすいからね。
「僕は……。あなたに好意を、抱いていますよ?」
僕は上着を脱いで、くつろいだ様子を見せる。
それから相手の動作を真似──真似られないな。髪の毛が邪魔だ。
「さて。僕は協力を惜しむつもりはありませんが……その前に、なぜ僕の薬草が必要なのかは……知りたいなと……」
相手の声は弱々しく、たどたどしく言葉を発する。僕は声のトーンをそこに合わせる。
『自分に似ている』というのは、相手に親近感を抱かせるものだ。
──だけど、その相手が『怖い』と感じる相手だと、どう思うだろう?
その上、相手にわかるよう、露骨に合わせたら、どう感じるだろう?
その効果はすぐに現れた。
「……ひ、ひいッ…………!」
僕は、けらけらと笑ってみた。その笑い声に、相手はやはり身体を強ばらせる。
そりゃあ、そうだろう。
怖い相手が、自分に距離を詰めている。そう見えているに違いない。
(ちょっと! あんた何してんですか!)
レベッカさんが耳元で、小声で話しかけてくる。
……さて。この動きも、目の前の髪の毛のひとにはどう見えているのやら。
「なにしてるってー、なんのことですー?」
(とっとと薬草を納品するって契約結べばいいんですよ! そんだけでいいんです!)
おや?
そこは前提で、その上で達成すべき『勝利条件』があるって。僕は認識してたんですけどね?
「レベッカさんが、休日なのに僕に声を掛けたってことは。相手にせいいっぱい迷惑かけろってことでしょう?」
(それはっ……!! いや、でも相手は《呪医》って状況がですね──)
自覚しているかどうかは知らないけど。
目の前の髪の毛のひとは、おぞましさを武器にギルドの職員さんを困らせていた。
僕はレベッカさんのことが嫌いじゃないけれど、レベッカさんはというと、僕のことを、まあ好いてない。ギルドの外で会うと舌打ちされる程度には嫌われている。
で、そんなレベッカさんは休日というものをとても大事にしていて、趣味に時間を注いでいる。
そんな彼女が、わざわざ僕に声をかけてくるということは、後輩のライラさんへの対応に、よほど腹に据えかねた、ということなのだろう。
(……そうですけど。そうですけどね……?)
これは最近気がついたんだけど、誰かに頼られるというのは……、その、なんだ。嫌な気分じゃ……ない。
だから、わざわざ休日を潰して頼んでくれた、レベッカさんのその意を汲んで、
二度と冒険者ギルドに行こうだなんて考えないくらいには、心をへし折ろうかなって。
(あの、いや、ギルドの職員としては止めてほしいんですが)
「レベッカさん個人としては?」
「もっとやれ。……あっ! いや、止めてくださいね!?」
はいはい。
最終的な落としどころはそうしますよー。
僕はぺらぺらといつもの調子でレベッカさんとお話をした後、
「さあ……。お話をしましょう……? 僕は、あなたについて知りたい。どんな……些細なことでも」
無表情を作って、声のテンポをのろまにして、トーンを辛気くさくした。
ま、僕もギルドに迷惑をかけてる側だけどね。
僕はけたけたと笑った。その笑いを少しずつけたけた、げらげら、げたげたと大きく、下品な物へと変えていく。
緊張と緩和を繰り返すのは相手の心に負荷をかける基本だ。僕はそのまま──。
「キフィナスくん。きみ、ちょっと席はずしなさい」
あっ本官さん。
うわ何をするんですか僕の腰ひっぱってうわやめてください僕を外に放り出さないで──カチャン?
あ。鍵かかった。
あけてくださーい。あけてくださーーい。
僕はドアをノックするが返事がない。
困ったな。どうしようね、メリー。
「こわす?」
うーん……。まあ、ちょっと待ってみようか。
僕らはドアの前で座った。
* * *
* *
*
常人の三倍は喋りたおすキフィナスを追い出した取調室は、静まりかえっていた。
二人掛けの小さなテーブルの向かいには、髪の長い年齢不詳・住所不定・名称不明の女性がひとり。
手前側に、アネットとレベッカは立っている。
沈黙を破るように、アネットはレベッカに声をかけた。
「ギルツマン女史。詳しい状況を確認したいのだが。キフィナスくんの今回の所業には、貴女も関与しているようですね」
「はい……。イチから説明するとですね──」
そうして、レベッカは語った。
──すべては出来心だったのだと。
目の前の髪を伸ばし放題に伸ばした女性が、ここ数日冒険者ギルドの業務を妨げていたと。
薬草なんてどーでもいいものは品質とか納品者含めて誰も気にしてないもので、クレームを付けられても困ると。
ギルドで取り扱う薬草──正確に言えば、ほぼ捨て値で、ご自由にお取りください感覚で置いている──は、8割がキフィナスによって納品されたものだったから、じゃあ案内して解決して貰おう、なんて考えを思いついてしまったと。
「……厄介者に厄介者をぶつけようって気持ちが、なかったとは言いません」
対面に座っている黒い長髪の女をそのままに、レベッカはこれまでの経緯を語り終えて、それから大きく息を吐いた。
「ギルツマン女史……。休暇を取った方がいいんじゃないか……? 発想が疲れている……」
「今日がその休暇です」
「なんという…………」
アネットはううむ、と唸った後、
「ここは、本官が引き受けましょう」
「え、でも、わたし明日は半休の手配取ってますし……」
「いいえ。ギルツマン女史にはまとまった休息が必要だと本官は考えます。さあっ」
アネットは多少強引に、出口までレベッカを連れる。
するとドアの前で、キフィナスがメリスと並んで、体育座りしていた。
「おや? レベッカさんじゃないですか。尋問室の血の臭いで気分を害され──」
「やめないか。そんな物騒なことウチじゃしたことないかンな。女史はお帰りだ」
「いいんですかね……」
「いいんですよ。あなたの評判は、わたしも──本官も、よく聞き及んでおります。どうぞ、本日はごゆっくりお過ごし下さい」
入り口越しに、アネットは笑顔でレベッカを見送った。
ここからが本番だ。
「あっ僕ら入りますねー」
「ダメに決まってんだろ」
アネットは再びドアに鍵を掛けた。
ここからが本番だ。
「さて……、お待たせした。本官はアネット・マオーリア。デロル迷宮都市の憲兵だ。こんなところに連れてこられて、あなたには混乱があると思う。キフィナスくんはそれを狙っていたんだろうが──おほん、失礼」
アネットは咳払いをして、目の前の黒い髪の毛と応対する。
正直なところ、アネットにも彼女の姿は不気味に見える。
「黙秘権は保障されるし、これはどちらかと言うと、わたし個人のおしゃべりに近いものだ。だから、聞きたくないのなら聞かなくてもいい」
しかし、アネットは、誰に対しても誠実である。それは目の前の相手とて例外ではない。
たとえば、排斥されることの多い灰髪に対して、当初から、嫌悪感を抱かずに接することができていたように。
これはひとえに、アネットの人格によるものだ。
「まず、そうだな……。わたしから彼と話をして、あなたが必要な、薬草の納品は保障させてもらおう。これが、あなたにとって一番重要なことだろうからな」
アネットの言葉に、長い髪がばさりと揺れた。
どうやら、頷いたらしい。アネットは少し驚いた後、言葉を続ける。
「あとは、そうだな……。彼のことを、嫌いにならないであげてほしい」
長い髪は、身体を強ばらせる。今度は、髪の毛が揺れることはない。
「難しいことを要求しているのはわかっているよ。でも、わたしは彼の、一人の……友人として。けして悪い子ではないことを、よく知っているんだ」
いつも手を焼かされる、ほっとけない青年のことを想いながら、
アネットは、ぽつぽつと諭し始めた。
* * *
* *
*
「取調室は使用中か……。おや、君たちは?」
廊下でメリーのふわふわな金の髪を手櫛でとかして遊んでいたら、憲兵のひとに声を掛けられた。
こんにちはー。いつもお世話になってますー。キフィナスですー。僕は相手を誰か確認せずにお世話になってるとか言って、その後に顔を確認した。
ええと……ジャックさんだったかな? 本官さんの同僚の。
その隣には、育ちと頭と性格が悪そうな男が連れ立っている。手錠までしてる。
「いやぁ。部屋借りてたんですけど、アネットさんに追い出されてしまって」
「そうか。アネットさんは、君のことがお気に入りだからなぁ」
「チッ……。おい。何だ、そのネズミ髪」
はーい。灰髪でーす。
じゃあ聞き返しますけど。なんですか、その手錠。僕、まっとうに生きていれば人生の中で手錠なんて掛けられる機会ってないって思うんですけどー。まっとうに生きてないのかなー? あ、生きてないか。そんな顔してないでしたね。ごめんなさーーい。
「テメエッ!」
……ははあ、なるほど。連れだってここまで来るってことは、口を割らせたいんだけど、なかなか割らない、というわけですね。
囚人服じゃないのを見るに拘留はしてない。すると、捕まえたばかりかな?
ふらふらとした足取りは……酔っている? いや、でもアルコールの臭いはない。となると……。
僕は自分の生活が穏やかなものであるために、ゴミ掃除なんかのボランティアには積極的に参加する意識の高さを持っている。
よーし、ここは助け船を出すとしよう。
「もしもーし。お元気ですかー?」
「なんだ、テメエは……」
「あなたは男性ですか?」
「何言ってんだ。どう見ても男だろうが」
「一週間ほど前でしたっけ。夜の10時に出会った人との会話内容が聞きたいんですけど」
「そんなこと、なんでテメエに話さなきゃならねえんだよ、灰髪」
「興味本位ですー」
「ちっ。俺が誰と話そうが関係ねえだろうが」
そうですね。僕には関係ないですけど──、
「……一週間前の夜。誰と会ったんだ? ──それは、お前が所持していた薬物と関わりがあるのか」
ジャックさんにとっては、すごーく関係があるんですよね?これ。
「ッ……違う、俺は、誰にも会っちゃ──」
「おやおやおや? これはおかしいですねー。あなたは先ほど『誰と話そうが関係ない』とおっしゃっていましたけどー? 誰かと会っていないなら、何も買ってないなら、後ろ暗いことがないなら! 最初の時点で、あなたの否定のしかたは『会っていない』『話してない』『心当たりがない』になるはずでしょう?」
「ッ……!」
──初歩的な質問のテクニックに、暗黙の前提を埋め込むというのがある。
僕の問いかけ『夜の10時に会った人との会話内容が聞きたい』には、『夜10時に、相手が誰かと出会った』というのが前提にある。
はい/いいえで回答できない質問でない場合、人間は回答に少し頭を使わなきゃいけなくなる。
だから、最初は『はい』か『いいえ』で答えやすい質問を投げる。後は、せいぜい名前とか。
そしてその後に、暗黙の前提を混ぜた質問を投げる。
これは否定するときに、その前提としている部分から否定しなければならない。すんなりと答える流れを作ってからこういう質問を投げることで、相手に考える時間を与えずに、嫌疑をふっかけることができる。
まあ、もちろんこれだけだと難癖に近い。僕は追撃をする。
「日が沈んで店も閉まって、明かりのない街は、もう眠りにつく時間だ。出歩いてたんですよね? 何をしてたんですか?」
「出っ……出歩いてねえっ!」
──はい、ヒット。
「え? 出歩かないんですか? おかしいなあ。そんなに品行方正に見えないですけどー。ジャックさん?」
「ああ。娼館に通っている」
「おやおや。あなたの証言の信用度がさっそく下がってしまいましたねー。いや残念残念。誠実さって美徳だって、僕思いますよ?」
僕はけらけらと笑う。
男の顔色は青くなり、赤くなり、震えている。
「ネズミ色の髪で、魔抜けで、それから善良な僕から、この言葉をひとつ贈りましょう。
あなたにお似合いなのは、鼠色の囚人服です。ばぁーーーーーーーーーーーーーーか。くく、きひゃひひひっ!」
僕はあざけるように笑った。
相手の顔は屈辱に歪み、紅潮し、冷静さを失いつつある。
身体の震えは感情の動きか、それとも薬物によるものか。まあ、どっちでもいい。
さて、こうして相手の冷静さを失わせたところで、次はどんな手で──。
「あ、ジャック先輩? 取調室使われます?」
おや?
尋問室のドアが開いて、アネットさんが出てきた。髪の毛も、アネットさんの背に隠れるように、身体を縮こまらせて付いてきている。
一体どんな非人道的な尋問をしていたんだろう? 僕は背筋を伸ばした。
「ああ。使わせてもらうよ。アネットさん」
「私用してしまい、申し訳ありません」
「説諭だろ? いいよ。スコットみたいに彼女のご機嫌取りに使うより全然いい」
「恐縮です……」
「テメエ、ぶっ殺す!!! クソネズミが! 魔抜けのくせに!!ッメ、テメエーッ!!!!」
「いやー怖い怖い。野蛮ですねぇー。とても文明人とは思えません。辺境のド田舎の果てとかから来たのかなー?」
「……キフィナスくん? きみ、この短時間で一体なにしてたの……?」
「大したことはしてませんよー」
僕はけらけら笑いながら、
(適当に暴れさせれば罪状ひとつ追加で拘束期間延ばせますよ。その間にたっぷり捜査ができるのでオススメです)
すれ違うジャックさんに、そんなことを囁いてみた。ジャックさんは小さく頷く。
まあ、これは僕の都合で場所を占有してしまった迷惑料代わりだ。
「……キフィナスくんはさあ……」
アネットさんは、すごい仏頂面で、ちょいちょいと手招きして僕を呼びつけた。
「サマラ女史には、一足先にお帰りいただいた」
サマラ? ああ、髪の人の名前ですか?
教えてもらったんです? なんか制約、とか言ってましたけど。
「身元を明らかにするのは、本官のいつもの仕事だからな」
はあ。なるほど。
「わたしの方から、彼女に話はつけたよ。君から薬草を卸すことも、ギルドに迷惑をかけていたことも注意した。これでも職業柄、注意喚起には慣れてるからな」
おや? 憲兵って個人の契約の仲介なんかもするんですか?
すごいなーお仕事の範囲広いなー。手広くやられてますねー。
それに僕、薬草これから卸します、とか言ってませんけど。
「しないに決まってるだろ。いや、もしキフィナスくんが薬草を卸したくないなら、わたしが断ってくるけど……」
「それ、本当に契約の仲介じゃないですか。アネットさんからわざわざ声かけて貰わなくてもいいですよ。あと、薬草を卸したくなくはないです。薬草採るだけで仕事になるなんて申し出、断る理由がないですからね」
てきとーに薬草採って、レベッカさんのお小言聞いての毎日が帰ってくるのだ。
もちろんそこに拒むことは何もない。
ただまあ……僕が引き受けたんだし、そういうのって僕がやるべきことなんじゃないかな、とは当然思う。
これは世間一般では、おせっかいとか呼ばれる類のものだと思いますが、どうでしょう?
「……そうかもしれない。けど。……きみはすぐ、人から嫌われたがるじゃないか」
アネットさんは、そう言って、上目遣いに僕の目を見た。アネットさんは背が低い。
……ちょっとだけ、どきっとした。
「ギルツマン女史から話を聞いて、君が何をしたかったのか、だいたいわかったからね。
君がだらだらと話を長引かせていたのは、冒険者って仕事に悪い印象を持たせて、ギルドから足を遠ざけるため。違うか?」
「本官さんってばすごい推理力ですねー。でも的外れですー。僕はただ、誰かを言葉のナイフで通り魔したかっただけで──」
「あたり。せいかい」
……メリーさん?
さっきまで静かだったし、てっきり僕は話なんて聞かずにぼーっとしてたんだと思ってたんだけど?
「よい。あねと。とてもよい」
「あーっとメリーの発言は虚偽ですよ?メリーは時々そういう悪い癖が──」
「よい。まんてん。ぱふぇ」
「どっちの言葉が正しいか、推理力をお持ちのアネっ……ほ、本官さんはわかりますよね?」
「うん。──もちろん、わかるよ」
そう言って、アネットさんはにっと笑った。
……この反応はわかってない。全然わかってない。わざわざ指摘するのもばかばかしいくらい、これっぽっちも、わかってないぞこのひと……!
「それはそうと、キフィナスくん? 君は本当に、よくないところがある。どうして君は──」
……心のこもったありがたいお説教を右から左へと聞き流しながら。
まったくほんとに困ったひとだな、と僕は思った。
「アネット・マオーリア、本日の業務を終了します。お疲れさまですっ!」
「アネットさん、おつかれ」
「おつかれさまー」
アネットの提出した業務日報には、今日も『冒険者キフィナス■■への説諭』という几帳面で丁寧な字があった。
■■とは、つまるところ書き損じだ。くん、と付けてしまい、訂正した跡である。
月に2回ほど、アネットはこの訂正跡を文書に残す。
「やっぱ、アネットさんはキフィナスくん係だよね」
「だよな」
アネットが退出したオフィスでは、今日も同僚たちがそんなことを言っていた。
------
《職人》
迷宮資源を加工し、有用ななにかを生み出すことのできる存在。
彼らは冒険者や他の産業と同じく、同業者組合を立てて権益を上手く分配する──文明の発展に貢献している。
冒険者は持ち帰った迷宮資源を卸す先が必要であり、職人は何かを作るために素材が必要となるため、お互いの関係は──時に出し抜き、出し抜かれることはあれど──良好である。
ただし《呪医》は、その組合に属していない。鑑定時に表示される名前と、作品の優秀さで、冒険者界隈では有名な職人であった。
職人ギルドに貸しを作るため、確保しようという打算がレベッカには働いていた模様。




