連行中の一幕
迷宮都市デロル憲兵隊一般衛士アネット・マオーリアは知っている。
いま自分が片腕を引いている、柔和な笑みを浮かべる灰髪の青年──キフィナスが、何をしでかすかわからない、悪質なびっくり箱のような存在であることを。
時刻は午前。ミルリリーフ通りの朝市には、卸したての商品が数多く並び、露天の店主たちは皆、道行く者に威勢よく声を掛けている。
──その内のどれほどが、営業許可証を持っていない店なのだろう。
店主のうちの何人かは、通りすがったアネットの制服を見るなり、その表情を強ばらせている。
「本官さん本官さん。きっとあのひと、無許可で営業してますよーー。ほら、あのひとも」
「本官は容疑者の発言を耳に入れないことにしている。あと本官さんってゆーな」
アネットは、当初この道を通るのを避けようとした。
まず第一に『人通りの多い中、手錠で手を繋いだまま移動するのは、流石にキフィナスくんの風聞を損なう』と考えたためだ。
そこにキフィナスは『じゃあ手錠外しましょうよ。ひんやりしてますし』などとのたまった。外気に触れた手錠が冷たいのはアネットも同じである。なめんな、とアネットは思った。口にもした。
しかし、明らかにこちらの道の方が憲兵隊の詰め所に近い。あえて迂回すれば、余計な時間を食うことになる。
そしてキフィナスは、いつものように笑みを浮かべながら『こっちの方が近いですよ』と言った。
(キフィナスくんめ……)
「あ、そこにも。あっちにも。こうして見ると、半分くらいは許可証持ってないんじゃないですか?」
キフィナスは、次々と屋台を指差していく。その見立ては、恐らくいずれも正しい。
しかし、アネットは彼らに公権力を行使するつもりはなかった。
行商を生業としている彼らを取り締まることは、必ずしも良い行いではない。生活レベルを維持できなくなれば、彼らはそれより重い悪事に手を染めざるを得ないためだ。
現場に立つ行政職員には、四面四角に法律の文言を遵守し執行するよりも、ある種の、良心的な怠惰さというものが求められる。
……もっとも、彼らの内の誰かは、いずれ綱紀粛正のために取り締まることになるのだが。
「いやぁー。法改正のひとつやふたつ、すればいいのになーって。見る度思いますよねぇ。10年も経てば、法律でカバーしきれない事柄なんていくらでも出てくるのに」
(そうだな。そうかもしれない。……でも、法を定めるのは統治者だ。わたしたち、騎士じゃない)
──その矛盾は、『善良であれ』と自他に語るアネットの喉に、小骨のように突き刺さる。
「あ、見てください本官さん。うなぎの看板を掲げたお店ですよ。あの肉はどう見ても蛇ですけどどうしましょうどうします? 買いますかー? せっかくなのでご馳走しますよ。まあ、蛇ですけどね」
「黙って歩きなさい。本官には必要ない」
……おそらく、この道を選んだのは、わざとだ。
デロル憲兵隊アネット・マオーリアは知っている。
キフィナスは、性格が悪い。とにかくひねくれていて、不都合を受ければ仕返しをしてくる。
(たぶんキフィナスくんには、女性のおっぱいに触れたことへの罪の意識がない)
だから、このような嫌がらせに及んだのだろう。
憲兵アネット・マオーリアは知っている。
朗らかに笑っている隣の青年ことキフィナスには、常識に欠けていて手段を選ばないところがある。そして自分に常識がないことを強みだと捉えてるフシすらある。
彼は、自分の目的を達成するためなら──胸のひとつやふたつは、平気で触りうる子だ。
王国全土に効力のある『947年改訂版タイレル王国法』にも、デロル領内で通じる『ロールレア家領地法』にも、女性の姦通・強姦に対する規定はあれど、胸を触ったことが犯罪成立の要件になるという見方はない。
キフィナスは法律を読み込み、その上で灰色のラインを突く。
アネット自身、今回の一件は説諭処理で終わりにするつもりではあった。
(キフィナスくんは頭が回るからな……。多分、わたしが結局どう対応するかまで読んでいる)
読んだ上で、大きな問題にならない範囲で、アネットを困らせてきている。
2歳年下の青年の横顔を見上げながら、アネットは、困った子だなぁと改めて思った。
(……あるいは、姉さまはわたしのことを、こんな風に見ていたのかもしれない)
アネットは、歳の離れた姉を──わがままで困らせてばかりいた、10年前に生き別れた姉の姿を幻視する。
キフィナスはその間も、右を向いてはやれそれと、左を向いてはどれそれと言っている。
「……まあ、法律のことはあまりよくわからないですけど。このひとたちを捕まえないから、僕はアネットさんを信頼してるんですよ」
「ん……、そっか」
──アネットは知っている。
彼は、本音の底の部分では、弱き人々に対して心優しくあることを。
「ちょろいな、って」
「なんだと」
「おやー?あれーー?今僕に反応しました? おかしいですねーーこれはおかしい。本官さんさっき容疑者の声は聞かないって言ってましたけど?」
「ええいうる゛さいっ! 目立つようなマネをするんじゃあないよっ! キミのためでもあるんだからな!?」
「人のためとか言いながら不利益を被らせてくるひとって嫌ですよねー」
そして、それ以上にひねくれていることを。
アネットはよく知っているのだった。
* * *
* *
*
割と不服だったけど、不服であることをそのまま口に出すと、なんだかえらいことになりそうな予感がした。
だから、僕は本官さんに大人しく付いてっている。
僕の左隣には本官さんがいる。
僕の左手と、本官さんの右手に手錠がかかっている。本官さんは僕より背が──更に言えば多くの人よりも背が低いので、右手を少し上に挙げていた。更に、僕の手錠を白いハンカチで隠してくれている。まあ正直、あまり意味はないと思うけど。
そして、右隣にはメリーがいた。
メリーはまだ僕の右腕をぐっと掴んでいた。僕が憲兵のひとに連行中だというのに、一向に離す気配がなかった。
「僕が暗くて狭い牢屋に入っても。手を離さないつもりなのかい、メリー」
「ん。はなさない」
まさか追認してくるとは思わなかったー。
やっぱメリーさんってば反社会的性向性がけっこう高いなぁー。
僕はこの子を第二のセツナさんにしないために気を張らないとならない。改めて僕は思った。
──道すがら、僕らは多数の人々とすれ違う。
彼らの中には、当然ながら善良なひともいれば、そうでないひともいる。
僕はそのたびに、本官さんに『これいいんですか』と声を掛ける。
そしてそのたび、僕の左手は、ぶん、と抗議のために大きく振られる。時々声を上げて僕を非難する。
……アネットさんは、本当に優しいひとだなって思った。
「ついたぞ」
「もうすっかり慣れましたねー」
「慣れちゃダメだからな。不名誉だからな」
憲兵隊詰め所は、人通りが多い、岐路の多いバニュームのちょうど中心地にある。
都市計画の当初から、憲兵をデロル領各所に派遣できるようにと考えたのだろう。
この付近でテロやらかそうとしたアイリーンさんは、多分頭がおかしいんだと思う。
しばらく見てないけど、捕まったりしたのかな……。
「アイリーン女史は捕まってない。というか、そゆこと言うのやめなさい」
「いやー、でも、僕の知り合いの中で、限りなく逮捕に近いひとのうちの一人なので。まあ上には上がいますけど」
「君の交友関係には、わたしは思うところがしきりにある……」
それは僕自身もそうですよ。
例えば、そうだなぁ──。
「おや? あの人影は……先ほどの被害者女性?」
なんで髪の毛おばけの人が、レベッカさんを伴ってここに先回りしてるのかな、とかね。
「あ゛……ッ、あ゛……取り、下げる……」
……おや?
「薬草がないと、困る……」
膝まで届く黒髪が、顔を覆っている。
ぼそぼそと、呻き声混じりのか細い声は、どこか不吉な印象を相手に与える。
その姿は、最初に対面したときと変わらない。
だけど──なんというかええと──なんだろう。
胸を触って、あんな声を上げたひとがやってるなーって思うと、そこに不気味さを感じることは既になくなっていた。
いや、失礼な話だとは思うけど。
「とりあえず取調室で話しましょうか。あ、今先客とかいますか?」
「キフィナスくん゛さあっ!? ここをレンタルスペースか何かだと勘違いしてな゛い!?」
・・・
・・
・
そうして。
先の一件は晴れて冤罪ということになった。
『これは被害者の不起訴であってまったくの無実ではない』と本官さんは言うけど、実際のところ、扱いは変わらない。
僕は尋問室──ではなく、取調室の一室をお借りして、薬草の話をしている。
本官さんは、結局僕に付き添って、部屋を貸し与えてくれた。とてもありがたいことだ。
「トラブルになるのが目に見えているからだよ……!」
「お疲れさまです、マオーリアさん……」
「いえ、本官は職務の一環ですし……。本日お休みだというギルツマン女史こそ……」
「いえいえ、どうせ休みの日は部屋でミニチュア工作してるだけですし……」
レベッカさんと本官さんは、テーブルに座る僕らの後ろで親交を深めていらっしゃる。波長が合うんだろう。たぶん。
僕もまた、目の前の長い黒髪の人とコミュニケーションを取ろうと思った。
「ええと。改めまして自己紹介を。僕の名前はキフィナス。誠実と謙虚を重んじて日々を生きる八流冒険者です」
「こいつ初っぱなから適当なことっ」
「あ゛……、《制約》で、名乗れない……」
制約。
ああ……その手のひとだ。いや、見た目でもうそんな感じだったけど。
僕は椅子を一歩分引──こうとして、このままだと会話が成立しなさそうなので、むしろ身を乗り出した。
「さて。どうして僕の薬草が必要なのでしょう? 《薬草》なんてどこにでも生えている。ナノドランの空き地なんか至る所に生えてる始末だ。それなら、自分で摘んだっていいと思うんですけどー。どうですか?」
相手の目の位置は……この辺りかな?
僕の方からは目は見えないけど、相手の側から僕の目をのぞき込むことができる位置取りだ。
「それでは……あ゛ッ、作れ、ない」
声を聞き取りづらいが、受け答えははっきりとしている。
冒険者ギルド前で悪霊してた時は、同じ単語を連呼していたようだったけれど……心境の変化か何かかな。
結果的に、僕の立ち回りは正解だったんじゃなかろうか。
「作れない? モジョ、とかなんとか言ってましたね。それってなんですか?」
「モジョは……ッ、見るといい」
そう言って、髪の毛は懐から、何か不吉なヒトガタのオブジェを取り出した。
「これは……!? 《呪医のアミュレット》ではないですか!? あなたが!?」
レベッカさんが、机に置かれたなんか小汚いオブジェを見て驚いている。
そんなものより、僕はどちらかというと、病的に白い指先の方が僕の印象には残ったんですけどね。
「反応薄いですね!? 《ダメージ軽減Lv4》ですよ!? 作者がわからなくて流通量も少ないからぜんぜん安定供給が見込めなくて、オークションですごい値がついてんですからね!?」
へえ。
僕には使えないのでどうでもいいですけど。
「……協力してください。全力で、この方に協力してください」
レベッカさんが本気のトーンで僕にプレッシャーをかけてくる。
なんだろう。これから僕、薬草採るだけで一生安泰だったりしますか?
「本来ならふざけんなって一蹴するところですが──します」
……え、本当に?
それは、つまり。僕の穏やかな薬草採取ライフを取り戻すために、この商談は絶対に成立させないといけない、ということですか。
「そうですよ。そうですけど……ふざけんなよ?」
なるほど、なるほど。
──じゃあ、ふざけずに本気でいこうか。
僕はスルリと、空いている左腕を、髪の中へと入れる。
「なっ! アンタまた──」
そして、彼女の細い指先に、自分の指を絡めて。
「僕は、あなたの話し相手になりたい」
そう、耳元で囁いた。




