83 姉と弟のたわいない約束
天が崩落してきたかのような衝撃に、テオティルの服を掴んでいたエリノアの手が地面に落ちる。言葉もないエリノアの頬に涙が次々と落ちて。頬に収まりきらぬ雫はどんどん地面に落ちていった。小刻みな身の震えが次第に強くなって、喉の奥から押しつぶされたような呻き声が引きずり出される。
「……ぁ……ぅ、あ、ぁあああああっ‼︎」
吐き出すような、言葉にならない絶叫は絶望感に満ちていた。
その悲しい叫びを聞いて、彼女の前でテオティルが目を伏せた。覚悟していたことを受け入れるように。青年はするすると小さくなって。しかし、自分の主人がもはやそのことを気にかけるほどの心の余裕がないことは分かっていた。
物質の化身としての無感情さと容赦のなさを備えた女神の使いは、真っ青な顔で泣き叫ぶ主人を見下ろし、声音を変える。この言葉は、どうあっても彼女に届けなければならなかった。
「……よくお聞きくださいエリノア様。ご自分が何者であるかを、思い出してください」
テオティルはエリノアの両腕をつかみ、嗚咽をあげる彼女の瞳を見据えた。それでも主人の視線は彼に向かなかったが、彼は辛抱強くエリノアを呼ぶ。幼い手で、振り乱れたエリノアの前髪をかき分けて、そこにある虚ろな双眸に訴える。
「エリノア様、つらいでしょうが、残された者たちのことを思い出してください。このままあなた様が勇者としての務めを果たされなければ──」と、テオティルは強ばった顔で告げる。
「──いずれ、ここに女神が降臨なさいます」
ひくりとエリノアの嗚咽が止まった。思ってもみない報せに、潤んだ緑の瞳がやっとテオティルを捉える。
「……め、がみ様……が……?」
エリノアは呆然と返した。それは、すでに感情を凍らせたエリノアの心を大きく動かすことはなかったが──偉大なる救いの主が来てくれるという報せに、彼女が一縷の希望を感じたのは確かだった。
けれども。
テオティルの口調は苦い。とても吉報を口にしているとは思えぬ表情に、絶え間なく溢れてくる涙もそのままに、エリノアは瞳に困惑を浮かべた。女神の御使は、ええそうですと頷きながらエリノアの目を見る。その身に纏う空気は、一層重苦しくなったようだった。
「女神が降臨なされば、あの方は魔王を討とうとなさるでしょう。しかしそうなれば……人界を舞台として、大きな戦がはじまります」
「い、くさ……?」
唖然としたエリノアに、テオティルはきっぱりと、冷酷とも見える表情で、「ええ」と言い切り、説く。エリノアはそれを息を殺して聴いた。
「本来大いなるものは、自我を持って生きる人々への干渉を避けます。天界が人に望むのは、あなた方が怠惰なく魂を磨き、魂の循環を清らかに保つこと。自らの力で生き抜かせることを重んじているのです。……しかし、滅びを知らぬ闇の勢力は、いつでも人界も、天界をも支配下に置かんとし、人々に悪意を持って関与し続ける」
そこまで言って、しかしテオティルは「……少なくとも、これまではずっとそうでした」と付け加えた。……どうやら、エリノアとの平穏な日常を望んでいたブラッドリーという魔王や、その王の望みを守ろうとする魔物たちの存在を思い出し、一概には言えないのではないかと思ったようだった。テオティルは続ける。
「……なんにせよ、人らの憎悪は魔物たちの糧となり、天界に攻めこむ力を蓄えさせる。それをよしとせぬ女神と、魔王とはとこしえの宿敵同士。しかも魔王は先の戦で女神に敗北し、一千年封じられた。そこにある憎しみはクラウスやヴィクトリアへのものとは比較にならぬほど強大なものです。女神が勇者を立てるのは、自分たちで人の世を守り、勝ち取らせる為でもあり、そのほうがまだ敵の力が肥大せぬと知っておられるからです。あのお方が場の平定のためここに現れれば、魔王が怒り狂うのは目に見えています。その憎悪はきっと、憎しみを糧にする魔王を手のつけられぬ存在へと育てるでしょう」
つまりとテオティルは、静かに予言する。
「……女神のご降臨は、新たな戦いの時代の幕開けを意味します」
「……」
テオティルの淡々とした言葉を、エリノアは、どこか遠く聞いた。そんな大いなる話など、まるで物語か何かを聞かされているようで。少しも現実のものと実感できなかった。
されどテオティルは、真剣な顔で訴え続ける。その瞳の曇りのなさは、絶望に沈むエリノアをそこから強引に引き剥がして現在に引き戻したが──新たに追い立てられていく先もまた断崖絶壁のようなものだった。
「…………」
途方に暮れるあまり、涙が止まった。そんなエリノアに、テオティルは必死に懇願する。
「ですからエリノア様、どうか、今のうちに、女神が降臨する前に、どうか魔王を退けてください。女神は、エリノア様が役目を果たさぬとなれば、勇者から……聖剣を取り上げるでしょう。あなたがこのまま弱れば、どのみち聖剣が役に立たぬものと化すことをもちろん女神はご存知ですから」
言われたエリノアは、やっとテオティルの幼さを認識したようだった。ハッと自分を見た主人に、テオティルは、願いをこめて告げる。己に名を与えた、ただ一人の主人に向けて。
「そうなれば、私はもうあなた様のお手伝いができません。新たな勇者が選出されでもすれば、私はその者の所有物。──あえてハッキリ申し上げます。そうなれば、エリノア様はもう何もできなくなります」
「っ」
「瀕死のリード・モンタークも、その命を繋いでいる老将もどうなるか分かりません。せっかく助け出した王太子を思い出してください。あの者はまだブレアとの再会を果たしていません。それどころか……女神と魔王の戦いが長引けば、この地もここに生きる人々もどうなるか分からない。いつでも大局を見る神は、時にとても非情。そんな女神と魔王の戦いは、人のそれとは比べ物にならぬ過酷なものとなります。──エリノア様、それでもよろしいのですか⁉︎」
立ち上がってくれという切実な訴えに……エリノアの弱々しい視線が横へ向き、斬り結んでいる魔王とブレアを見た。そしてふと気がついた。この騒動に、周囲にはいつの間にか人間たちが集まってきていた。多くは王宮の兵士たちだ。ソル・バークレムの姿もある。しかし戦いがあまりにも壮絶で──特に襲撃者の尋常ならざる業の数々に、皆手を出しあぐねているらしかった。幾度か兵士たちがブレアを助けようと魔王に手持ちの武器で攻撃を試みたが……その刃はことごとく魔王を素通りし、一太刀さえも与えることができなかった。その一様に困惑した人々の表情を見て──エリノアがぽつりと漏らす。
「……、……どうして……」
テオティルに視線を戻し、エリノアは涙顔で弱々しく笑った。
「どうして……ここまで過酷なの…………?」
絶望的で涙が出た。勇者としての力など惜しくないし、弟という彼女の生きる意味が消えた今、自分の魂の行方なんか、どうでもよかった。
しかし、ブレアや、リードたち、ルーシーや王宮の同僚たちのことは守らねばならなかった。戦なんて、冗談じゃない。
(……だけど、)
エリノアの瞳が魔王を捉える。
(私に、魔王が斬れる……?)
聖剣がもうあそこにブラッドリーがいないと明言したとはいえ、エリノアの感覚は別だ。ずっと、『弟は魔王』だと認識してきた自分に、魔王が斬れるのか。考えただけで、心が握りつぶされるように痛かった。
(……、……でも、)
周囲を見回すと瓦礫と化した王宮。その外、城下もきっと同じような有様に違いない。これで、人に被害が出ていないなんて、ありえない。きっと、多くの人が怪我を負っているはず。
──どんな理由があろうとも。これをやったのは、間違いなく“魔王”だった。
「──っ」
それを思い出すと、また涙が一筋頬に流れ落ちた。エリノアは一瞬天を仰ぐ。涙が枯れて褪せたような瞳の色で、エリノアは決心する。
「…………分かったわ」
エリノアは、よろよろと立ち上がり、その名を呼んだ。
「……テオ」
幼い少年に手を差し出すと、その姿はかき消えて、手のひらに聖剣が現れる。その柄をぎゅっと握りしめた。
「……私が……魔王のやったことに始末をつけなくちゃ……私は、あの子の姉だから……」
これ以上状況が悪くなる前に。自分が魔王を止めるしかない。ずっと、エリノアは弟の面倒を見てきた。育てたのは、自分なのだ。──もしかしたら……家族であってもエリノアには責任がないと言う人もいるかもしれないが、エリノアは、ブラッドリーを愛しているがゆえに。最後まで責任を取りたいと願った。
彼を止めて──そして、彼がいなくなったと言うのなら。
エリノアは、涙したまま魔王を見据え、低い声で誓う。
「……待っててブラッド。私も……一緒に天界に還るわ」
もうそうするしか道はないと思った。弟を止め、予告された戦を阻み、その後自分は弟を追うのだと。大事な弟を迎えに行くのだと。そう考えることでしか、弟を失った喪失感と絶望感の向こうに道を見つけられなかった。立ち上がらなければ、大切な者たちを守ることができないと知った。──だから。そう思うことでエリノアは立つことを選んだ。単純な自分の扱い方は、分かっていた。いつでも、自分は『弟の為』と思えばなんでもできたから。そういう人生だった。
(……──ほら、やっぱりそうなんだわ……)
弟のもとへ向かうのだと自分に言い聞かせると、あれほど力の入らなかった手足が不思議と力を取り戻していた。
もう恐れていたことは起こってしまった。弟が生まれて以来、ずっと彼が死んでしまうことを恐れて生きてきた。もうそれは、起こってしまったのだから。エリノアに残された使命は、残していく人たちのために、少しでも力になることだろう。
そこでふと、エリノアは、以前弟と交わした、たわいない会話を思い出して──泣き顔で笑う。
「……約束したものね。次は、私があなたの妹に生まれ変わるって……」
もし次の生があるのならば、次は絶対他人になりたいと言うブラッドリーに、エリノアが嫌だと泣きついて。だったら次はせめてエリノアが妹なんだと。自分が兄になるんだと。いかにも渋々という顔で言った弟の顔を思い出すと──切なかった。
その痛みを胸に、エリノアは歯を食いしばった。これが最後だと言うように、瞳は煌々と燃え上がる。
「でも今はまだ私が姉よ。……絶対に、置いて行かせない!」
──奇しくも。
その命を賭けた誓いと覚悟は、彼女の聖剣の力を強くした。
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