74 記憶
──ブレアは夢を見ていた。
暖かく、眩い光が上から降り注ぎ、そこへ──はらはらと花が舞い落ちてくる。
(……花……)
ふと、目の前に落ちてきた花を手のひらに受けると……以前、エリノアからもらった小さな野花と同じだと気がついた。その時の、とても幸せだった気持ちを思い出したブレアの顔が、優しく和らいだ。
──と、次の瞬間。
ブレアの中で、何か……記憶の底のほうにかかっていた霧のようなものが、さっと晴れていったような気がした。
すると脳裏に、ある記憶が鮮明に呼び起こされて──ブレアは、言葉を失くす。
ブレアの頭に蘇ったもの──それは。
エリノアと初めて出会った時の光景だった。
「…………?」
その不可思議な記憶の齟齬に、ブレアが一瞬眉間にシワを寄せ、怪訝な顔をする。
──それは在りし日、王宮の私室で、新しく部屋付きになった娘だと、侍女頭に紹介された時のこと──ではない。
本当に、最初の最初。女神の大樹の前ではじまった、彼らの物語の冒頭……驚きに満ちた、二人の出会いの記憶。
「こ、れは……」
頭上に広がる女神の大樹の豊かな枝葉の下を思い出した。まるで、時が止まったかのように見つめ合った、緑色の瞳の娘。唖然とした彼女の手には──聖なる剣が。
「……、……、……エリノア……」
それは──優しき花のせいだったのか……それとも件の忘却魔術をかけた老将が、今その命が危うい状態であったせいなのか……それは定かではない。
しかし、彼の中には確かに、その時の記憶と、さらにそのあと。エリノアの弟や、その、人ならざる配下たちと出会った記憶が蘇っていた。
青年は一瞬、呆然として。それから……
「………………」
無言で手のひらの花を見下ろしたブレアは、そうかと、つぶやいた。
「──そうか……そうであったか……君だったか……」
自然と腑に落ちた思いだった。その顔に、自然と微笑みが浮かび、ブレアは目頭を熱くした。
──はじめはとても驚いた。自分だけではなく、多くの戦士たちに渇望されていた聖剣が、その主人に侍女である彼女を選んだことを。
──でも、今は違う。エリノアは、ひたむきで、愛情深く、勇敢だ。そこにこそ、天の意思があったのだろうと、ブレアは信じられる気がした。とても、晴々とした気持ちだった。ブレアはつぶやくように言った。
「女神よ……暖かく、懸命で、勇敢なものをよくお選びになられた。……感謝いたします」
穏やかに歓喜した青年は。手のひらにあった花をつまみ、額の上に掲げて。敬意をこめて瞳を伏せた。──と、その瞬間。彼の周囲で光が軽やかに弾けた。
「──⁉︎」
ふと気がつくと……目の前にはソルの必死な顔。
「ブレア様!」
「ソル……」
「! ブ、ブレア様⁉︎ お、お目覚めですか⁉︎」
目があった途端、くしゃりと顔を歪めた男を、安心させるように微笑んで。ブレアはすぐに瓦礫の上に身を起こした。と、ソルが慌てる。
「! じっとなさっていて下さい! 今、主治医を呼んでおります! お、お願いですから──」
不安げに案じる書記官に、ブレアは首を振り大丈夫だと告げる。
「私はなんともない」
──本当に、不思議なことに身体は少しも痛くない。ブレアも、自分が気を失う直前。何者かの攻撃を受けたことを覚えている。だが、まるでそんなことは夢だったかのように身体は軽かった。それが、誰のおかげなのか。それを彼はもうなんとなく分かっていた。
ブレアは冷静にソルを見る。
「……ソル、エリノアはどこだ?」
「しゅ、主治医……え⁉︎ エ、エリノア嬢、ですかっ⁉︎ あ、そ、そうなんですブレア様……! あ、あのエリノア嬢が……も、もし私の勘違いでなければ……」
ソルはそう言いかけて、まるで怯んだように言葉に躊躇う。どうやら、彼自身、まだ自分が目撃したものを信じられていないらしい。
「エリノアが、どうした?」
ブレアに静かに促されると、ソルは覚悟を決めたような顔で言う。
「──私は、見たのです。エリノア嬢の、手の甲に……一瞬だけ、聖剣の柄頭に刻印してあった女神の印と、同じ印が輝いたのを……」
「…………そうか」
それからソルは、ブレアに自分の手を見せた。先ほどまでそこに、激痛を伴う奇妙なアザがあったのだと説明する。それは、あの凶悪な青黒い炎に触れた時にできたものだったが……
ソルは困惑した目でブレアに訴える。
「それが──エリノア嬢の光を目撃した直後、消えていたのです……」
今、ソルが広げて見せる手には、細かな傷はあるものの、それらしい異変は見られない。
彼によれば、自分の他にも辺りには同じアザに身を冒された者たちが大勢苦しんでいたのだが……気がつくと、その者たちも皆、彼と同じように綺麗さっぱりアザが消えてしまったのだとか。
その話を聞いたブレアは、一瞬だけ愛しげに目を伏せて。それからすぐに立ち上がり、ソルに尋ねる。
「それでエリノアは今どこに?」
「え? は、はい! た、確か、私に殿下を頼むとおっしゃって……弟君の元へ……止めなければとおっしゃっていて……あの! ブレア様、まさかとは思うのですが、まさか……エリノア嬢は…………」
すっかり気の動転している様子の書記官の言葉に、ブレアは静かにああと頷き。そして、そこにはいない、愛しき黒髪の娘の姿を探すような、遠くを見るような目をした。
「彼女は……女神に選ばれた者──唯一なる聖剣の、主」
「──……っ」
その言葉にソルは言葉を失くし、呆然とブレアの顔を見ている。けれどもブレアは、そんな彼に視線を戻して言った。
「だが──その座をエリノアが望んでいるのか、それは分からない」
ブレアはエリノアが聖剣の勇者であったことを心から喜んではいるが、当初、彼女が『勇者になんてなれない!』と、拒絶の意思を見せたことを忘れてはいなかった。
「だからソル。今はまだ、お前も見たことを伏せておいてほしい。他の目撃者にも、同様に」
だがソルは困惑を見せる。
「し、しかし……エリノア嬢が本物であるならば……これはブレア様にとっても非常に有益です。エリノア嬢にご協力頂ければ、王太子殿下にかけられた疑惑や不利な状況が、一気に覆せるやも──」
現在ブレアの兄、リステアード王太子は行方不明で。彼には、聖剣偽造や、神官殺しの嫌疑がかけられている。当然王太子派の筆頭であるブレアも立場が危うい状態だ。ブレアとの仲を考えれば、エリノアは、聖剣がブレアのために使われることをけして嫌がらないだろう。そう言うソルに、しかしブレアはあっさりと首を振る。
「いや、それは自力でなんとかすればいいこと。……ソル」
静かに見つめられた書記官は。その、無言の内に諭すような主人の眼差しに、今度は素直に頷く。
「……かしこまりました。決して口外せぬとお約束いたします」
そして彼の書記官は、他の目撃者たちにも口止めをしておくとしっかり請け負った。その顔はすでにいつもの生真面目な書記官の顔に戻っており、ブレアはそんな彼に口の端で小さく微笑む。この顔の時のソルは、非常に信頼ができる。書記官の意思を確認したブレアは、すぐに己の愛剣を確認しはじめた。その行動に、不穏なものを感じたソルが眉間にシワを寄せる。
「ブ、レア様……? まさか……」
「ソル、私は行く」
「⁉︎ し、しかしお身体が……せめて主治医が来てからに……」
つい先ほど、この第二王子を失ったかという失意の底にいた書記官は。その主人がもう一度戦いに戻ろうとしていることを知って慌てふためく。が、ブレアの意思は固かった。
「──いや。私は、我らが勇者をお助けせねばならん」
「!」
その強い決意の眼差しに。動かし難いものを感じてしまったソルは渋々引き下がるしかない。
「わ、分かりました……私は、また情報収集と将軍との連絡に走ります……」
「頼む」
書記官に短く礼を言ったブレアは、すぐに辺りにいた騎士や兵士を収集し、まずは彼が気を失っていた間の王城の状況の把握に努める。今、この広い王城の、どこに敵がいて、どこにエリノアがいる可能性があるのか。その者を想い、気は逸る。だが、未知なるものとの戦いだ。冷静さを失えばこちらが終わる。記憶が正しければ、その未知なるものは、魔王であり──エリノアの弟なのだから。
(……エリノア、)
今はただ、彼女が苦しんでいないかが心配だった。
(……早く追い付かねば……)
お読みいただき有難うございます。




