47 彼女の聖剣
城下から、大勢の敵の増援が駆け上がってくるのが見えた。闇夜に響く荒々しい声は賊を斬れと怒鳴り散らしている。
それを確認したオリバーが、やれやれと首を振った。でもそれは普段彼が王宮でエリノアに見せていたような、ただ面倒そうな、人を食ったような表情ではなかった。
ここまで彼らは陽動としてよく耐えた。だが、このままでは多勢に無勢。彼らが不利になることは明らかで。しかし当然それも分かっているのだろうクライノートの戦士たちは、既に死地に向かう覚悟はできているとでも言うような、晴れ晴れと闘志に燃える目をしていた。
──その目に、心が痛む。
(もうすぐ……もうすぐ……っ早く!)
聖剣テオティルから簡単なレクチャーを受けたエリノアは、城壁の上でジリジリと時を待っていた。地上からは距離があるが、それでも地上の殺気に満ちた空気はビリビリと伝わってくる。まるで耳のそばで心臓が鳴っているようだった。緊張で手が震えている。今から自分はあの中に飛び込み、聖剣を媒体に魔法を使わなければならないのだ。戦場など知らぬ侍女。そんな自分にこんな場面での一発勝負なんて、荷が重すぎる。だが──やらねば。エリノアは、喘ぐように、心の中で唱える。
(……騎士オリバーを懲らしめるのは私……私……!)
以前、聖剣を握った暁には、絶対彼に日頃の仕返ししてやろうと心に誓ったのだ。間違っても、誰とも知らぬ敵兵に、その機会を奪われるわけにはいくかと……エリノアは自分を励ましていた。こんな時でも、日常のことを思い出すと、少しは気持ちが落ち着く気がした。
──と、そこへテオティルの声が聞こえる。
『……エリノア様、増援も皆、能力の及ぶ範囲に入りました』
「っ、……やるっきゃない!」
その報せに、エリノアは、恐れも緊張も、すべてを振り払うように勢いよく立ち上がった。
城壁の上、黒髪が強風になびく。エリノアはごうごうという風の音を聞きながら、眼下の戦場を睨みつけた。
「──テオ! いくよ!」
叫ぶと、冷や汗を掻いた手に握った剣と、手の甲に刻まれた女神の印が応じるように輝く。
『──御心のままに』
嬉しそうな声が聞こえる、と同時に、一瞬エリノアの髪や服が風を纏ったようにそよいで──エリノアが一思いに聖剣を天に掲げた、その刹那。
──白雷が闇を裂いた。
「!?」
唐突に、天から下された闇夜と地を割るような激しい一撃。揺れた大地に幾人かが倒れ、雷鳴に人々が身をすくめたのが分かった。彼らの間を駆け抜けた輝きはあまりに強く、その場にいた者たちの目が眩む。
──その瞬間に……エリノアは戦場のど真ん中に転移していた。
手には聖剣が握りしめられている。──が、雷撃に怯み、眩さに目を奪われ、雷鳴に耳を貫かれた者たちが、即座にそこに現れた娘に気がつくことはなかった。
何もかもが順調。……かと思われた。
けれどもその時、エリノアにも思いがけない驚きが訪れる。
……いや、迂闊にも自分でやっておきながら雷に驚いた──なんてことではない。エリノアならやりそうだが、雷光対策はしてあった。
ただ、
(──な──んなの、これ……)
初めて、自分の意思で聖剣を振るったその感覚に、エリノアは驚いていた。
身体がこれまで感じたことのない満足感と高揚感に満たされている。心の中に湧き上がるのは、自分が確実にこれを操れるのだという自信。握りしめた聖剣が恐ろしく手に馴染む。まるで剣が、己のもう一本の指であるかのようにも感じられた。その重さは、重いようで──振ると実に爽快。魂が震えるような喜びを身の底から感じた。
エリノアは──ふっと、理解する。
──ああ……これは……──私の剣なんだわ……
「っ」
やっと、腑に落ちたという気持ちだった。だが、なんだかとても泣きたい気分だった。
しかし次の瞬間エリノアの肩がぎくりと揺れる。
「!?」
暗く狭かったはずの視界が急に明るく開けていた。
目の前に広がるのは真っ白な──真綿の園。
見渡す限りの温かく白い、柔らかな雲の原。驚いて見上げると、今はある事情で見えるはずのない空が頭上に広がっていて、優しい山吹色に輝いている。そこを流れる虹色の影を持つ雲に目を瞠って──唖然と視線を地に戻すと、その奥に、誰かが立っていた。
(え……)
エリノアの目が見開かれる。
周囲には、何かの綿毛のようなものがたくさん舞っている。その、向こう。
光の加減か顔はよく見えない。だが、足元までに流れる長い髪を揺らし、その人物がゆったりと振り返ってこちらを見た途端。エリノアは、信じられないくらいに心が揺さぶられた。
何故か、狂おしいほどに懐かしい。その思いに囚われて、思わず、涙がこぼれた。
(あ、れは……)
まさか──と思った時。その誰かは、こちらに向かって微笑んだように見えた。その誰か──彼女が──ゆっくり振った手に持っている花を、エリノアは知っていた。
──それは、己の手の印の中に刻まれている。
「! め──」
咄嗟に叫ぼうとして。……気がつくと、その光景は霞のように消えていた。
(ぁ──)
エリノアは聖剣を握りしめて呆然とする。──が、ハタハタと頬を撫でて落ちていく涙の感触で、エリノアはハッと現実を思い出した。
(──いけない……っ)
今は戦場の真っ只中。すぐ戦士たちを皆眠らせなければいけなかったのに。思いがけず現れた不思議な光景に一瞬心を奪われてしまったエリノアは──慌てて聖剣を握り直し、周りを見回した。──と──……
そんなエリノアの、狭い視界の端のほうで、誰かがポツリとつぶやく声が聞こえた。
「お、前……は………………」
「──ぃっ!?」
少し離れた場所に男が立っているのに気がついて。ハッと振り返ったエリノアは、その誰かを見て思わず一言だけ声を漏らしてしまう。
──静まり返った戦場のただなかで。オリバーが、エリノアを見ていた。




