109 王妃の上級サテン生地
「母上……」
呆れのにじむ声がする。と、その声に呼ばれた人物は、長椅子に座ったまま、あら、と顔を上げる。
「ブレア、来たのね」
嬉しそうな王妃は息子を呼びよせようとして……己の両手が塞がっていたことに気が付いた。彼女は再び、あら、という顔をして、コロコロと笑う。
しかし彼女の次男は──そんな母の両手を塞ぐものを見て、赤い顔で呻いていた。
王妃の腕に広げられている——美しい純白の布。
しかしこちらはシーツなどではない。厚手で上品な光沢のある真っ白なドレスサテン──それがどういう意図でここに持ちこまれたのかを理解しているブレアは途端に激しいめまいに襲われる。
一級品らしいドレス用の布地たち。それは王妃が手にしている以外にも、所狭しと部屋に持ちこまれていて。サテンにレースに見本らしいいくつものドレス、何枚ものデザイン画、飾り用のビジューなどなど……
さらにそれらを持ちこんでくる王室御用達の仕立て屋や侍女が右往左往して。王妃の部屋は大変な騒ぎだった。
そんな──ドレス作成に関するあらゆるものが持ちこまれ、フルで乙女チックと化した王妃の部屋の中央。ローテーブルに厳選したらしいドレス用生地を並べてにこやかに王妃と語り合っているのは──母をなだめることを頼んだはずの兄、王太子リステアード。二人は実に楽しげにドレスのデザインについて──揉めている。
「あらいやだ、王太子ったら。うふふ、エリノアさんにはこっちのサテンのほうが似合うわよ」
「いえいえ母上、そちらは少し光沢が強すぎませんか? こちらの少し柔らかい白のほうが……」
「何を言ってるの、誰よりも輝かねばならぬ時に着るものだもの。これくらい当然──」
「いえしかしですね……派手すぎるとエリノア嬢の愛らしさがですね──」
「でも──」
「…………」
二人のウェディングドレス談義は延々続きそうである。ブレアは呆れ果てて言葉もない。
味方だったはずの兄は、この空間に馴染みまくっている。
「…………兄上……」
げっそりした顔で呼ばれた王太子は苦笑する。
「おや、すまないブレア。つい楽しくてね……母上とエリノア嬢にどんなドレスが似合うか考えていると止まらなくなってしまった」
「そうよね、すっごく楽しいわよね」
「…………」
うふふふ……と、品よく微笑み合う親子のまわりにはウキウキと花が舞っている。
「ほらご覧なさいよブレア、いい生地でしょう? エリノア嬢は華奢だからやっぱり可愛らしいデザインがいいと思うのよね。仕立て屋もお針子も選り抜きの者を手配するわね」と、表情を輝かせる母を、ブレアは食い気味に「結構です」と切り捨てた。
「それよりも母上……! 今すぐ宮内に散っている母上の侍女たちを呼び戻して下さい!」
ブレアは厳しい口調で言ったが、王妃はのんびりと応じる。ブレアの切って捨てるような物言いも気にした様子はない。
「侍女たち? ああ……エリノア嬢の採寸に行った者たちのこと?」
「母上、エリノアの迷惑になるようなことはお控えください。このようなものを王妃に突きつけられては彼女が萎縮してしまいます」
「あら……迷惑かしら?」
「迷惑でしょう」
キョトンと首を傾げる王妃に、ブレアは言い切る。その必死な顔に、兄が笑う。
「まあ確かにいきなりウェディングドレスは……ちょっとなかったかも知れませんねぇ、ふふ」
「そう思っておられるなら母上を止めて下さい兄上!」
「ごめんごめん、ふふ」
苦笑する長兄の横で、王妃が不満そうに口を尖らせた。
「だって……昨日市場でかなり親密そうだったって報告が来たのよ? トマス・ケルルが『もういつ結婚してもおかしくない!』って断言したわ」
…………トマス……ッ!!
母の言葉に、ブレアは心の中で思い切り叫んだ。赤い顔で拳を握って苦悶の表情を浮かべる息子に、王妃はそれにと続ける。
「それにほら、こんな時でしょう? 話が決まったらすぐにでも式をしないと何かあって時期が伸びてしまうとか不測の事態もありうるから……だから先んじてなんでも用意しておいた方がいいかしらって。でも、リステアードが止めるから新居を建てるのは延期にしたのよ。だからせめてドレスとスケジュールを押さえるくらいはしておきたくて。国王陛下にも式の日程を女神神殿と相談するようにって──」
「母上!」
楽しそうに言う母に、ブレアがついに特大の雷を落とした。
「…………だって……」
息子にひどく叱られた王妃は、いかにも不平のありそうな顔でムスッとして。ブレアに命じられ、そそくさと帰っていく仕立て屋たちを名残惜しげに見つめている。
「だって! お前がいつまでも妃候補を決めないから悪いのではなくて!? 私が側室妃に毎度毎度どれだけ嘲笑われているか知らないでしょう! まったく! この朴念仁!」
王妃は憤慨して手に持っていた美麗な扇をブレアに力一杯放ったが、それは“朴念仁”の息子に無言のままにスッと受け止められる。ブレアはそのまま何食わぬ顔で扇を傍に控えていた侍女に渡し、息子の無駄のない動きを見た王妃は、余計恨めしそうに歯噛みした。
「そのような身のこなしだけ上手くなって! この鉄仮面! ばか! 私のドレスサテン〜……」
「まあまあ母上」
王太子が王妃をなだめているが、王妃は身体を震わせて憤っている。
「私がこの子のことをいったい何年気を揉んでいると思ってるの? 本当に……息子というものは、夜も眠れない母の気持ちをちっとも理解しないんだから!」
「そんなに心配なさらずとも……順調に仲良くしているようではありませんか。何をそんなに案じておられるですか?」
母に向けられた兄の問いに、ブレアが険しい顔で密かに奥歯を噛み締めている。──怒っているのではない。どうやら『順調に仲良く』という言葉が恥ずかしかったらしい……
そんな次男の様子をよそに、王妃は両手を握りしめて嘆いている。
「気になることは山とあるのよ! エリノア嬢はブレアのこと好いていてくれるのかしら、それはどのくらい? まさか自国の王子を相手に弄んでるなんてことはないでしょうけど……でもブレアは女性相手に慣れているとは言い難いから、ちょっとロマンスを楽しむにはいいけど伴侶には向かないとか思われていたらどうしたらいいの? 仕事の鬼だから、結婚後が寂しそうだから嫌だとか思われていたら? 私がいくらでも構ってあげると今すぐ伝えに行きたいわ! でも……ブレアは私が彼女に会いに行くのは断固として止めるし……!」
と、打ち震えるように訴える母に、王太子が笑う。
「ははは、つまり……そろそろ母上は我慢の限界なのですね」
「そうよ!」
「…………」※ブレア。呆れ。
王妃の猛りは止まらない。要は、余計なことは控えてくれと息子に言われ続けて来たために、痺れを切らしてしまったということらしかった。
彼女は、呆れと羞恥の狭間で頭痛を堪えるような顔をしている次男を振り返り、悲壮な顔でにじり寄る。
「ねえブレア、心配なのよ……」
「は、母上?」
「ちゃんと努力はしてるの? 市場での逢瀬の件は聞いたけど……あなた絶対愛情表現が苦手なタイプでしょう!? どうなの!? 毎日ちゃんと王宮で顔は合わせている? 忙しいとか言って贈り物もろくにしていないんじゃない!? 毎日ちゃんと言葉にして愛を乞うてるの!?」
「あっ!?」
母の言葉に、ブレアが、あい⁉︎ と、真っ赤になって目を剥いた。
言えているわけがないし、母の異様な圧に、ブレアはまったくついて行けてもいない。
慣れない話題を怒涛のように押し付けられてゴリゴリ気力を削られているらしい。羞恥と胃痛のせめぎ合いでブレアが血の気の引いた顔をしている。
「ま、毎日……愛を、こ、乞う……?」
ブレアは助けを求めるように兄を見た。が……残念なことに、ハリエットに呼吸をするかの如く愛を囁くことに慣れきっている兄リステアードでは、ブレアの心痛を分かってやれなかった。
「? ブレア?」
どうしたの? キョトンと美形な顔を傾けて不思議そうな王太子。
「私もきちんと言葉にしたほうがいいと思うよ?」と、笑顔でこともなげに言われ──ブレアには……兄の姿が光り輝いているように思えた。そして思い知った。恋愛という部門において、兄と自分とでは、まったく別の人種であるということを……
当然、ブレアの気性でそれが出来れば苦労はしない。
「ぐ……」
ブレアは苦悩して……ジリジリした顔で自分を睨んでくる母と、柔和な顔で不思議そうな兄に……辛うじて……言った。
「あの……何度も申し上げますが……本当に……そのような段階ではないのです……」
「ではどの段階なのよ」
すぐさま、言ってご覧なさいと母に返されて、ブレアが怯む。
「ど、どの……?」
そんなことを言われても。ブレアは未だエリノアには想いも打ち明けることはできていない。
共に過ごすことは何度かあった。だが、核心に触れるようなことは何も言えていない気がする。
「世間的な言葉で言えば……」
「言えば?」
「か──……片思いと……言う、ものでは、ないか、と……」
いい歳をして、なぜこんなことを母親に打ち明けねばならぬのだと思いつつ──辛うじてそう声を絞り出す。と……
「片、思い……?」
その言葉に王妃はとても落胆した顔をした。──しかし反対に、兄リステアードは、ほわわっ……と目尻を下げて妙に嬉しそうだ。どうやら王太子は弟が恥じらっているのが可愛くて仕方がないらしい。可愛すぎて、同時にセットでエリノアまで愛しく感じてしまう兄リステアードは──菩薩のような微笑を浮かべてブレアを見ている。
……だがしかし。彼が微笑ましそうにウキウキしている横で、王妃はガックリ肩を落として項垂れている。
「片思い……なんだか先が長そうな響きね……いえ……でも……そんなことは、ないはずよ!」
だってケルルの報告では、二人はもう結婚する五秒前だと言っていたもの! と、王妃。あの脳内お花畑の騎士の言うことを鵜呑みにするのはどうかと思うが、気を持ち直した王妃(強い)は「いいわ!」と、拳を握る。
「この朴念仁に乙女の気持ちなんか汲み取れるわけがないもの。そうよ! きっとエリノア嬢だってきっと……! ウェディングドレスはまた今度よリステアード! 今から母はエリノア嬢に本心を聞き出しに行って来ます!」
「は!?」
高らかに猛々しい母に──ブレアがギョッとする。
「や──やめて下さい!」
「いやよ! お前に任せておいたら百年先まで待たされてしまうわ!」
「は、母上!」
ドレスの裾をつかみ、今にも走り出しそうな王妃をブレアは慌てて制止する。
……もしかしたら。
側室妃より、クラウスより。誰より厄介なのは……このお人かもしれなかった。
……少なくとも、ブレアにとっては。間違いない。




