99 夕刻の誘い
『今日は他に患者もいないから』と待合の部屋を貸してくれた老医師が奥の部屋にひっこんでしまうと、そこはブレアとエリノア二人きりの空間になった。
待合には来所者用の椅子が数個置いてあって、一番出口に近い位置にある長椅子にはエリノア。ブレアはその向かいの席に座っていた。
エリノアはとにかく恥ずかしいやら疲れるやらで……椅子にぐったりもたれるようにしていたのだが、そんな彼女にブレアは深々と頭を下げた。
「……すまなかった」
潔く下げられた金髪が微かな音を立てた気がして、ハッと気がついたエリノアが慌てる。
「え、で、殿下……?」
「もっと冷静に状態を見極めるべきだった……」
ソルに“急病人”と抱えられたエリノアの(げっそりした)青い顔を見た瞬間、ブレアの脳裏には、昨日目の前で倒れたエリノアの青白い顔が蘇った。同時に──その時感じた不安を思い出したブレアは、矢も盾もたまらずここまでエリノアを運んできてしまったのだが……己が必要以上に動揺してしまったことを悔やんでいる。
「無様にも騒々しく騒いで迷惑をかけた。すまない」
表情が見えずともブレアの苦悩は手に取るように伝わって。エリノアは「そんな」と、困り顔で両手を大きく左右に振った。
「無様って……こちらこそ、心配をお掛けして……ブレア様、お願いですから頭をお下げにならないでください……!」
確かにやり方はいささか冷静さに欠けていたが……ブレアにも、そしてソルにも、心配してもらったことには違いない。ついつい責めるような言葉を言ってしまったことを後悔しながらエリノアが下がり眉でオロオロしていると……それを見ていたブレアが、ふっと肩から力を抜いた。
よほど心配していたのか、いつもと変わらない娘の様子を見て、今やっと安心したようだ。
ブレアはもう一度「本当にすまなかった」と言って。ほっと暖かい眼差しをエリノアに向けた。
その主君の顔を見て、エリノアも安堵する。
ブレアのつらそうな顔を見るのは、やはりつらい。が、反対に、こうして穏やかな顔を見ていると自然エリノアの頬も緩んできて。ブレアにつられたエリノアがホヘッと微笑む、と…………
その瞬間に、頰同様、身体の緊張も緩んだらしかった。
静かな待合いの中に──大きな音が響き渡った。
ぐぅぅううう……と……
「ぎゃ!」
途端エリノアの手が慌てて己の腹を抱えこむように抱きしめる。ほぐれかかっていたエリノアの顔が一気に真っ赤になって、聞かれただろうかという焦りに満ちた目がブレアを見上げる。と、青年は瞳をパチパチさせながら問うた。
「……腹が減っているのか?」
「ぅ……そ、その……」
誤魔化しようのない盛大な音を轟かせてしまったエリノアは、恥ずかしそうにカックリと頭を落とす。
「申し訳ありません……今日はなぜかものすごく忙しかったので……」
エリノアは消え入りそうな声で、ほとんど食事をする暇がなかったのだとブレアに言った。
子猫たちの騒動にはじまり、女豹婦人に与えられたミッションやら。ソルが届けてくれたハリエットの菓子も、結局はまだ食べられていない。
その説明の間にも腹の音は鳴り響き、その度エリノアが悲壮な顔で腹を押える力を強める。
よりによってとエリノア。ブレアにこんな音を聞かれてしまうなんて。空腹だと泣き叫ぶ腹の音など、想い人に聞かせたい乙女などいるだろうか……
(ぅう……何故……最後の最後で……)
時刻はもう夕刻。散々駆けずり回った今日という日の締めくくりがこれだとしたら、あまりにも報われない。
そもそも城下にブレアの姿があること自体が稀なのに、どうしてこんなにも間と運が悪いのだろう。
エリノアは一向に鳴り止まない腹の音にうちひしがれた。
「…………」
さて、こちらはブレア。
無言の男は、目の前で己の腹を抱えプルプルしている娘をじっと見下ろしていた。
娘の腹から絞り出される悲鳴のような音。
真っ赤な顔はとても可愛らしいが……ふむとブレア。この朴訥な男にも、流石にこのままではエリノアがかわいそうだということが分かった。騒いで診療所まで連れて来た詫びもしたい。どうにかしてやれないかと彼は考えて。灰褐色の瞳がチラリと診療所の窓の外へと視線を送る。
「…………」
「……え?」
不意に動いた男の気配に、エリノアがキョトンと顔を上げた。
……すると、立ち上がったブレアが自分を見ている。その手が……しっかりと腹を押さえこんでいた彼女の手を労わるように解き、そっと握る。
「……っ」
大きな手にふわりと包まれた自分の手を見た途端、ぽかんとしていたエリノアの頭がボフンッと破裂しそうに赤くなる。その間にブレアはエリノアを椅子から引っ張り上げた。
「え? え? ……ブレア様?」
立ち上がらされた娘は戸惑ったように君主の顔を仰ぎ見る。と、
「……したことがなくてな」
真顔のブレアが言った。
「え? ぁ……」
エリノアがキョトンとする。と、ブレアはそんなエリノアの手を取ったまま歩き出し、診療所の扉を押し開いてエリノアを外へ導いた。(※この瞬間に診療所まわりにいた騎士たちは、ソルを羽交い締めにして恐ろしく機敏な動きで身を隠した)
エリノアは赤い顔のまま、どうしていいのか分からないという顔でその後に続く。
「……ブレア様?」
「私は城下で買い食いというものをした経験がない」
言いながら振り返ったブレアはエリノアに穏やかに微笑み、つき合ってくれると有難いのだが、とさり気ない言葉をつけ加えた。
「──…………」
その瞬間エリノアは息を止める。
薄い夕日に照らされたブレアの精悍な顔が、あたたかく慈しみに満ちた表情に変化した瞬間を目撃したエリノアは……思わず思考が停止していた。
彼の言葉が、空腹な自分のためのものであるとは、もちろんエリノアにもよく分かった。
──途端、エリノアは己の中でブレアに対する気持ちが大きく膨れ上がるのを感じた。
“好き”という感情が膨張し、それが喉を突き破り、今にも口から飛び出して行きそうだ。
(ぅ……ブ、ブレア様……)
好き……ヤバイ……と悶絶する娘。動悸も激しく脈打って……しかし……そうすると……
エリノアの身体は再び緊張を取り戻したらしい。
あれほどグルグルグーグーとうるさく鳴っていたエリノアの腹の音が、ピタリと不自然に止まり、それにブレアがおやという顔をして……
「ひっ!?」
王子の不思議そうな顔に気がついたエリノアは、慌てて腹を押さえて、身を折った。
(な、なんで急に止まるのよぉ!)
ブレアにときめいた途端に鳴くのを止めた腹。……それはそれで……己の好意を周囲に知らしめているようで死ぬほど恥ずかしいエリノアである。
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