15 黒猫
「ちょっと待って下さいますか……」
娘は居間のテーブルに着席し、渋い顔で手を上げた。
その左右斜め前には、同じくまるい木製のテーブルを囲む白のヴォルフガングと、黒のグレンが座っている。
もちろんブラッドリーの部屋からは全力で追い出した。『乱れるの手伝います』だなんだと、浮かれていた黒豹には……ひとまず、そこでもっふりむっつりしているヴォルフガングを部屋から連れ出すのを手伝ってもらった……
本当は……この突然の訪問者には、家から立ち去って欲しかった。──が、それに関しては、グレンにも半笑いで拒否される。困ったことに、この二人……居座る気満々なのである。
困り果てたエリノアは、外に出て、近所に住むリードにでも助けを求めようかと思った。しかし……そうして眠るブラッドリーを置いて出て、その間に連れ去られでもしたら困ると思った。
──気がつけば、もう居間の時計の針は真夜中を指している。
エリノアはとりあえず、びくびくしながら二人の魔物に茶を出してみた。
事情を聞こうと思ったのだ。
そうすると、大きな身体のヴォルフガングは、もさもさの指で茶器をつかみ、鋭い牙の並ぶ口に器用に茶を運んでいる。彼が持つと普通サイズの茶器がとてもとても小さく見える。その隣では黒々した毛並みのグレンが、懸命に熱いお茶に息を吹きかけている。どうやら──猫舌だ。
エリノアは……ちょっと己の置かれた状況が分からなくなってきた。
──何故、私は今この二人と呑気に茶を飲んでいるんだろう……
そんな思いに駆られると、頭の中がぐるぐるとこんがらがっていくような気がした。
エリノアには、未だこの二人が、本当に“魔物”なのかもイマイチ信じきれていないところがあった。“魔物”という存在は、もう千年前に勇者が魔王を倒して以降、世からは遠い存在となっていた。千年も人がその姿を見なければ、それはもう幻の生き物と言っても間違いではない。少なくとも、エリノアにとってはそういう認識がある。
しかし、その幻の存在は、今なおエリノアの前でのんびりと茶を飲んでいるのだ。己が勧めたとは言え……この状況には疑問が募る。
と、呑気な声がした。
「あー、いっつも思うんですけど、何故皆熱い飲み物を好むんでしょうねぇ」
火傷したら舌がひりひりするのに皆マゾですねぇ、などというグレンの声に恐る恐る視線を上げると……やっと茶がぬるくなったのか、黒豹が舌ですくう様にして茶を飲んでいる。目が合うと、グレンは吊り目を細めてにっかり笑う。
「それで姉君……どこの御仁から攻めますか!?」
「……だから……」
「今からでも盛り場にでも行きますか? この時間でもまだやってるでしょう?」
「……あのね……」
こいつ本当に話聞いてないな、と思いながらエリノアがテーブルをペしっと叩く。
「待ってって言ってるでしょ!? いいから一回その、目指せモテ女! ……みたいな話やめてくれます!?」
「はぁ? 目指していただきたいのは淫乱ですけど?」
「なお悪いわ!!」
しれっと返してくる黒豹に、エリノアが目を剥く。
「おやぁ? ……さては……姉君ぃ……誘うより、誘われたい派ですか?」
「だ、から……っ」
きゅろん、とした猫目にエリノアがイラッとした時……傍で聞いていたヴォルフガングが「下らん」と、鼻を鳴らした。
「俺は反対だ。その様な小賢しい真似で陛下に不快な思いをさせるなど」
ヴォルフガングが言い捨てると、グレンがいやいやと笑う。
「しかし、目覚めたばかりの陛下の配下が三匹だけとは少なすぎるじゃないか。一刻も早く手勢を増やして差し上げなければ……そしてゆくゆくは城でも乗っ取って……」
「……あの、すみません……配下三匹って……もしやそれ私も入ってます……?」
エリノアが半眼で問うと、グレンがぱぁあああと顔色を明るくする。
「もちろんです! 王にとって、肉親は裏切らぬ都合のよい手ゴマの一つですよ! 是非、身を挺した盾……いやっ、生贄になるくらいの気持ちで陛下をお守りしていただきたい!」
「…………」
邪気無く物騒なことを言うグレンに、エリノアは一瞬押し黙り……こいつとは話にならないと、ヴォルフガングのほうに身体を向ける。愛想はないが、こちらのほうがまだ話は通じそうだった。
「……あの、それで先程の話の続きなんですが……つまり、私はブラッドリーの前で男性の話をしてはならないってことですよね……?」
「そうだ。それに限らず、お前は陛下にご心労をかけぬことを心がけろ。男に色目も使うなよ」
「え……それはこのうら若きお年頃のわたくしめに、恋もするなというお達しですか……?」
ぎょっとして問い返すと、険しい顔のヴォルフガングは真顔で頷く。と、それを聞いたグレンが口を挟んでくる。
「ええ~、何言ってんですか、ばんばん青春を謳歌しましょうよ!」
「お前ちょっと黙ってろ!」
ヴォルフガングが睨むと、グレンは頬を膨らませて口をつぐんだ。
「あの病に蝕まれた肉体を見れば分かるだろう……陛下は今生では大変なご苦労をなさっている。陛下がお望みにならぬかぎり、手勢も城も必要ない。お守りすることが第一だ」
きっぱりした物言いにエリノアが驚いて瞳を瞬かせる。
魔物の主従関係というものがどういうものかをエリノアは知らないが……どうやら──彼のブラッドリーに対する気持ちは本物のようだ。……グレンのほうはかなり怪しいが。
「あの、」とエリノア。
「さっき……ブラッドリーの身体には魔の加護があるから……喘息にはならないって言いましたよね? あれ、本当ですか……?」
恐る恐る問うと、白い頭が縦に動く。
「もともと魔の属性にある陛下がこちら側に生を受けて肉体と魂のバランスが悪いのは仕方がないことだ。が、お力を取り戻されたこれよりは、生命力も向上していかれることだろう」
「……身体も強くなっていく……?」
エリノアの問いに、ヴォルフガングは「おそらくは」と頷いた。
途端、エリノアが細いため息をついた。ほっとして力が抜けたのか、どこかに表情を転がり落としてしまったかのような顔をしている。
「良かった……」
未だに彼らの言っていることが真実なのかは分からない。だがエリノアは、それは信じたいと思った。どんな形であれ、ずっと病に苦しんできたブラッドリーの毎日が安らかなものになるのというのなら。
「まあ、本当なら魔界にご帰還いただくのが一番なのだが」
「あ、それは結構です」
ヴォルフガングの言葉にエリノアは全力で拒絶の意思を示した。
──ところで──と、エリノアは話を変える。
「何やら堂々と居座る気満々のところ申し訳ないのですが……御二方がここに住むのはなしですよ」
「何?」
途端にヴォルフガングの眉間に深いシワが入る。
「貴様……我らから主を奪うつもりか!? お傍から離れる気はないと言っただろう!?」
「いや……前世からの主従か何か知りませんが、居座られては困ります! この小さな家に四人も住めるわけないじゃないですか!」
エリノアとブラッドリーの住むこの家は、寝室が二つと、居間が一つ。そして台所やその他の水周りと狭い納戸がある程度の小さな家だ。
とてもではないが、こんな巨体の生物と暮すことはできない。
しかも、家にこんな姿をした彼らが出入りしていることが近所に知られたら……大パニックになることは目に見えていた。
千年ぶりに魔物が出たなどと発覚すれば、国は討伐隊を組むだろうし、ましてや……その彼らが弟を“魔王”などと呼んでいることが分かればどうなるだろうか。
エリノアは、ぞっとして、それを彼らに訴えた。
と、二人は揃って、ふむ、という顔で何事かを考えている様子である。
「……確かに騒がれるのはまずいな……」
「ほらー、やっぱり手勢が必要ですよ。文句言う奴がいたら叩きのめせば楽じゃないですか。さっさと国を乗っ取っちゃえばいいんですよぉ」
「やめろ」※エリノア
エリノアの目を剥いた真顔の突っこみに、ヴォルフガングが同調する。
「そうだ、やめろグレン。何よりも陛下の身の安全が第一だ。陛下が国を手に入れたいとお望みなら従うが……先程の陛下は記憶を取り戻されたにもかかわらず、何よりこの間抜けの身を案じておられただろう? まずは、その御意思に従うべきだ。騒ぎを起こすべきではない」
「ちぇー」
そう窘められたグレンは再び納得いかなそうなふくれっ面を作る。
「……仕方ないですねぇ、じゃあこうすればいいんでしょ」
グレンは一度ひょいっと肩を竦めると、ぴょんっと椅子から飛びあがった。──と──……
「え」
次の瞬間テーブルの上に、すとんと黒い猫が現れた。
突然のことに面食らっているエリノアに、黒い猫はくるりとその尾をくねらせる。
「ね、これなら陛下の傍においてくれますよね?」
その媚を売るような眼差しは──紛れもなく、たった今までそこに座っていた黒豹の、それそのものだった……




