42 退屈グレンの再始動
つまらないなぁ、とその猫は主君の寝台の上でため息をつく。
柔らかな布団に四肢を伸ばしながら、彼は横目で眠りにつくブラッドリーの顔を見た。
寝台の下の床には忠犬さながらに、ヴォルフガングが寝そべっている。
その白い身体の下には、床で眠る彼のためにエリノアが『あげる』と言って渡してきた柔らかそうな暖色の毛布が敷かれている。それを満更でもなさそうに……と、いうかお気に入り感はなはだしい様子の犬は、すやすやと平穏極まりない顔で寝っている。
それを白い目で見るグレン。は、……そう言えば、と視線を上げる。
この家の家長エリノアは、最近彼らがブラッドリーの部屋で一緒に寝るのを嫌がらなくなった。最初の頃はあんなに嫌がっていたのに。どうにも、いろいろあり過ぎてうっかり許容されている気もしないでもない。
鬱陶しくないのはいいし、相変わらずのうっかり屋も愉快だが。エリノアが嫌がって騒がないのはなんとなくつまらないなとグレンは思った。
黒猫は立ち上がって寝台の端に行き、床の上でスピスピ鼻を鳴らして寝ている同族を見下ろした。
……魔物というより、もはや幸せな飼い犬そのものにしか見えない。グレンは馬鹿にしたような顔でつぶやく。
「……すっかり平和ボケしてる……あーあ、やっぱりこいつよりもっと邪悪で野心がある陛下の配下が欲しいな……」
ヴォルフガングも、そして母コーネリアグレースも、邪心よりも忠心が高すぎるのだ。
主君に仕えるのはいいが、こうも平々凡々と暮らすのはグレンの性には合っていない。
前だったらエリノアで楽しく遊べたのだが、最近は聖剣なんてものが家にやって来たものだから鬱陶しくて敵わない。あの聖剣はぽやぽやしているようで、案外グレンには厳しい。おそらく、グレンが一番エリノアに危害を加えそうだと分かっているのだ。
「…………なんとかまた姉上を刺激できないかなぁ……うーん……」
そうしてうまくブラッドリーを怒らせれば再び魔界に道が通じて新たな魔物を呼び寄せることが出来るのだが。
最近はブラッドリーの精神が少し落ち着いて来ていてその機会になかなか恵まれない。
「どうしよっかなぁ……」
グレンの目はひたりと悪巧みに染まっている。
※ ※ ※
——所変わって宮廷。
しんとしたその部屋の中には、時折紙をめくるひそやかな音だけが響いていた。
荘厳なしつらえの室内は、民家が数件立ちそうなほど広い。
壁を覆う書棚にはびっしりと書が収められていて、暗がりにそれを見ると威圧的なほどだった。
そんな中、灯りは部屋の主の執務机の上に一つだけ。暗闇に浮かぶような机についたブレアは、一人、本日彼のもとに上がって来た報告書を一つ一つ静かに読んでいた。
報告書の数は今日一日だけでもおびただしい数にのぼる。
ほうぼうに飛ばした聖剣捜索の報告書、協力体制にある貴族たちからの報告書。神官たちからは、聖殿所有の資料解析や、聖剣の行方についての考察も日々上がってくる。
こうした資料たちは、まず全てをブレアとその部下が検分し、要約後、重要なものだけを国王と王太子に報告することになっていた。この膨大な量の報告を王国の統治に忙しい父と兄にいちいち上げてはいられない。
……そんなことを彼が言うと、オリバーたちには『ブレア様にだって他の執務もあるのに』とぶつぶつ文句を言われるが……
それを黙殺する他ないのが現状だった。
ふとブレアが卓上の時計に目をやると時刻は深夜。もうとっくに日を跨いでいる。
配下や官は既に下がらせた後で、室内には他には誰もいない。
オリバーたちは本日も去り際にジロリとブレアを見て……
『……ブレア様の自己管理能力を信じていますよ……? 今夜こそは……徹夜とかして、疲労を蓄積するとかいう真似はなさらないと……信じてますからね……?』
……と、どう見ても全然信じてなさそうな、疑り深い目でじっとり彼を睨みながら隊舎に帰って行った。
オリバーに続く騎士たち……特にトマス・ケルルの訴えるような涙目のジメジメしていたことといったらない。ごつい岩のような肉体の彼らにメソメソ嘆かれると、どうにもこうにも……
彼らが自分の身を案じてくれているということは分かっていてるのだが、ついついうんざりしてしまうのだった。
おまけにこういう事態が続くと……彼らは最終手段を使う。
最終手段とは——つまり、彼の母への告げ口、王妃への通報である……
それを受けた心配性の王妃は必ず直々に執務室に乗り込んで来る。……悪い時は王太子もついて来る。
「…………」
——それを思い出したブレアは、深い深いため息をついた。
「……仕方ない……今夜はこれくらいにするか……」
徹夜でもしようものなら、警備の衛兵からオリバーたちに筒抜けなのだ。
王妃に通報されないにしても、明日の朝のオリバーの恨みがましい顔と配下たちの湿り気が余計酷いことになるのは目に見えていて。
この忙しい時にイライラメソメソされては、彼は耐えられても、ここで共に仕事をしなければならない官たちはきっと堪らないことだろう。
仕事量を思えばまだまだ起きていたいところだが……やれやれと頭を振ったブレアは立ち上がり、机の上に積み上がっていた書類の一番上に、手に持っていた報告書を乗せた。
執務室の奥、つまり執務机の背後には続きの間への扉があって、その奥には仮眠室がある。今宵もブレアはそこで休むつもりだ。
と、思わず二度目のため息が溢れる。
いったい、いつまでこれが続くのだろう。
忙しいのは苦痛ではないが、聖剣の不在は正直不安だ。
それに本当は彼も王宮の住まいに戻りたいのだ。
(……見たい時に、見たい顔が見られぬということは、こうもつらいものなのだな……)
思い浮かんだ黒髪の娘の姿に、三度目のため息と共に肩が落ちそうになって——
いやいやとブレアは苦悩を浮かべた顔を慌てて振った。
今日は、というかもう既に昨日だが——昼間に少しだったが顔は見れたではないかと。
そう思うと、自分がひどく堪え性のない生き物になってしまったようで気恥ずかしかった。
「……これは……どうしたらいいんだ……?」
生真面目な顔でぎりりと奥歯を噛みながら呻くブレア。
……ただ、ここでいつまでも呻いていても仕方のないことだということだけは彼にも分かった。
それにオリバーたちが言う通り、徹夜ばかりしていられないのも事実だ。己が倒れてしまっては上にも下にも迷惑をかけてしまう。
ブレアは苦悩を振り払うように頭を振ると、椅子の背にかかっていた己の上着だけを手にして仮眠室への扉を押した。
——と——……
「……ん?」
戸が開いた一瞬——
どこからかキャハハと高い子供のような笑い声が聞こえた気がしてブレアは立ち止まる。
「……声?」
しかし、それだけだった。
扉の奥の細い廊下はしんと静まり返っていて特に異変はない。背後の執務室の中も同様だ。
彼が耳を澄ましてみても、あとは何も聞こえない。
——もしかして、廊下かどこかで若い衛兵たちがふざけて騒ぎでもしていたのか。
「やれやれ……」
ブレアはそれきり興味を失ったようだった。
そうして何事もなかったように足を踏み出して扉をくぐり——…………
「……——ん?」
——瞬間、ブレアの動きがもう一度止まった。
後ろ手に扉を閉めようとした姿勢のまま、彼は異変を感じてその場に縫い止められる。
続きの間までの短い暗い廊下には、明かりなどは何もない。
夜ともなるとそこは真っ暗で。そこを数歩数進むと仮眠室の扉だった。その廊下を全て長年の勘だけで進み、中に置いてあるランプに火を灯し寝支度をするのが毎度のことなのだが……
「…………」
ブレアの瞳が……ぎこちなく瞬く。
視界は薄暗く……そこにはある筈のない月明かりを感じて——ブレアの身は硬直した。
視線を動かすまでもなく全体を捉えられる狭い空間には、正面に——見慣れない……
窓が。
そこに下がるカーテンはあまり厚みがないのか、薄ぼんやりと月光を通し……合わせ目の隙間からも細く月光が漏れている。
その光の下に照らされる、こんもりと盛り上がる簡素な布団と、その端に流れる黒髪に……
「……っ!?」
ブレアは、驚きすぎて息を吞んだきり微動だにできない。
——室内は…………
恋しかった香りで満たされていた。
お読みいただきありがとうございます。
当家のいたずらっ子が再び動きはじめました。
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