93.扉のカギ
コナツと出会ったのは、モルモイの街中でだった。
太陽光を反射してきらきら眩く、輝くほどの金髪に、大きな桜色の瞳。
その愛らしい外見とはあまりに不釣り合いな、ボロボロの布きれのような服。
消えかけの隷属印を胸に刻まれた少女は、たすけて、とあどけない声で言って俺に縋りついてきた。
あの日出会ってから、もうそれなりの月日が経っているけれど、今も俺はコナツのことをよく知らない。
どうして奴隷になってしまったのか。
名前の表記に出てくる「???」の表示は何なのか。
彼女を「コナツ」と名づけたとき、何故か一瞬、表情が凍りついたワケも。
気になることはたくさんあった。でもその一つさえ、俺もユキノもコナツには向けなかった。
だけど今――俺は初めて、そんなコナツの謎へとひとつ踏み込んだのかもしれない。
「な、ナルミ? おまえ何言って……」
アサクラは信じられないものを見るような目で俺を見ている。
この状況下で、年端のいかない少女を頼り出す俺がおかしくなったとでも思っているのかもしれない。
ユキノは有り難いことに、この緊迫した状況でも固唾を呑んで俺たちを見守ってくれていた。
――コナツにはきっと、隠された何かがある。
俺は知らない、だがネムノキは知っている何かがあるんだ。
その秘密が何なのかは見当もつかない。実は隠された戦闘力があるとか、必殺技があるとか、陳腐な想像を張り巡らせはするが、結局、コナツに訊いてみないと分からないことだ。
だから俺は頭を下げる。
「俺たちを、助けてくれ。……頼む」
肩に置いた手には力が入らないよう、細心の注意を込めて。
同じ意味の言葉を口にして、項垂れるようにコナツに頭を下げた。
だからコナツがどんな顔をしているかは見えなかった。それが喜怒哀楽のどれに該当するかも、予想はしてみるが、やはり外れていたのかもしれない。
「………………うん」
体感では数分後。
現実では三秒や五秒、ほんのそれだけの時間の逡巡を経て、コナツはゆっくりと頷いたようだった。
「おにーちゃんがたすけてほしいなら、たすける」
俺は俯けていた顔を上げた。
コナツは口元に笑みを浮かべていた。
思っていた以上にさっぱりとした、何の曇りもない表情だ。
肩に置いたままの手をどけようとしたが、コナツが両手に抱きかかえたハルトラを見つめてもうひとしずくの涙を零したので、タイミングを逃してそのままにした。
「でもね。……でも、こなつ、かぎをもってないの」
「カギ?」
「うん。とびらのかぎ」
一瞬、言葉の意味が分からず首を傾げる。
先ほどとは一転して、悲しそうな、不安そうな面持ちでコナツが懸命に説明する。
「だからいいだせなかった。とびらはよべるとおもう、よびかたをきいたから。でも……かぎがないと、とびらをあけられない」
扉。
……扉のカギ。
カギがないと、扉は開かない――。
「……そういうことか」
「兄さま?」
目敏く俺の呟きを拾い上げたユキノに、俺は微笑みかける。
ようやく、全てが。
それはネムノキの描いていた絵の、ほんの一部分かもしれないけれど――それでも確かに、繋がった気がする。
「それなら心配ないよ。カギは俺が持ってる」
コナツが目をぱちくりとさせる。
「コナツも、船の中で見ただろ? 俺のスキル」
「あ……」
俺の言葉に、過去の出来事を思い返したのだろう。
それからコナツは、決意を込めた瞳で大きく頷いてくれた。
「――うん。それならこなつ……おにーちゃんをしんじる」
ありがとう、と俺は言った。
ここまでは全部、あの白髪の少年のお膳立てだ。
果たして、ネムノキはどこまで、先のことを読んでいたんだろうか?
次に会えたときは、今度こそあの細い首根っこを掴んで問い質してやろうと思う。
だからこの場では、絶対に、死ぬわけにはいかなかった。
コナツは大事に抱えていたハルトラをユキノに預けると、俺の元に再び駆け寄ってきた。
「……おにーちゃん、てぇにぎっててくれる?」
おずおずと伸ばされてきた左手を断る理由はなかった。
「うん。いいよ」
俺が右手を差し出すと、コナツは安心したようにその手を掴む。
握ったコナツの手はほんの僅かに震えている。それに冷たかった。
「じゃあ……やってみるね」
コナツがもう片方の、空いた右手を大きく前方に伸ばした直後だった。
変化が起こった。
「うわ……っ!?」
アサクラがひっくり返った悲鳴を上げる。
窓もない室内に、どこからか一斉に突風が巻き起こったのだ。
それは驚くほど鋭い風の奔流だった。まともに目も開けていられないほどに。
床を支配していた氷のオブジェの、その破片も宙を舞う。
氷柱のように固いそれらは風に砕かれ、白いきらきらとした粉雪のように室内に散った。
その様は、まるで雪吹雪のようだった。
人の命を奪った魔法の産物とは思えないほどに、きれいな光景だったのだ。
俺はそんな吹雪の中、左手の二の腕あたりを顔に当てて風を凌ぎながら、どうにかして片目だけを開いていた。
突風によって、コナツの羊の毛じみた、もこもこの金髪も風に舞い上げられている。
「…………っ!」
そして俺は見た。
露わになった彼女の耳が、人間のそれの形から、徐々に尖った形状に変わっていくのを。
桜色の瞳が、この世のものではないように、俄に赤く輝きだして鮮やかに発光していくのを。
「――つなぎのとびら、いまこそひらけ――」
俺の視線に気がつくこともなく、コナツは目を閉じながら熱心に言霊を練っている。
眉間にぎゅっと皺を寄せて詠唱する姿は、まるで苦心しているようでもあった。
そうする内に握った手が徐々に、しかしおそろしいほどのスピードで熱くなっていく。
コナツ自身が発熱しているのだ。頭から爪先までを赤く鮮烈な光が覆い、小さな少女を力尽くで押し潰そうとするようにオーバーヒートしていく。
もはや湯気が立ち上り、握った手から俺までもが焼け焦げる感触に、苦痛の声を洩らしそうになる。
それでも歯を食い縛った。手は離さなかった。たぶんコナツの苦痛は、俺の何十倍もひどいものだから。
額から脂汗が滲む。
室内の冷気と過熱がごちゃごちゃに掻き混ぜられていて、息苦しい。まともに呼吸ができない。
そんな苦しさの中にあって……ふと、ハルバンでアンナさんが語ってくれた物語が、胸の内に呼び起こされた。
彼らは気高い金色の髪と、尖った耳を持つ。
森の奥深くに住み、決して人前に姿を現すことはない。
永く、永く、永劫の時間を静かに送る、美しき幻想世界の住人――。
「森人」
俺はその種族の名を呼ぶ。
この吹き荒れる風の中にあって、コナツに呟きが届くことはなかっただろうが、まるでその言葉に応じるように詠唱は続いた。
「――わがなは、リセイラ=カルターマ=■■■■――」
謎めいたなにかの、一種の合い言葉じみたものを最後に囁く。
そして、その言霊を呼び水として。
ズズッ――と、風の中からふっと湧いたように、それは現れた。
俺はその偉容を見上げ、息を呑む。
「……!」
巨大な鉄製の扉だ。
それもかなり古びている。あちこちに蔦が巻きついていて、錆びたような部位もあった。
長年誰にも使われなかったのだろうか、と何となく思う。
その扉には表面にいくつもの、見馴れない言語が刻まれていたが、特に目立つのは扉の中央部に大きく描かれた丸い紋様の中身だった。
大きな丸い図形の中に、長い髪の老賢者の姿が描かれているのだ。杖を手に持つその人物の両耳は、やはりその先端が細く尖っている。言葉にできないほどの神秘と歴史が、その扉には称えられているようだった。
――なんて見惚れていたというのに。
あまりに唐突に、宙に浮いていたそれが降ってきた。
大きすぎる影が差した。……俺とコナツの真上に。
「ひっ……!?」
慌ててコナツを抱えて退避する。
直後、ズガアアアンッッ! と凄まじい爆音が撒き散らされた。
厚い氷の床をブチ抜き、周囲のそれらも吹っ飛ばし――ほとんど床に突き刺さるような形で、扉はようやくその勢いを止めたようだ。
その振動だけで俺たちの身体までもが跳ねた。残った氷のオブジェがいくつか割れ、床に砕け散っていく。
……その場に留まっていたら確実にぺちゃんこだった。
想像だけで顔が青くなる。
これ、目を開けてなかったらお陀仏コースだったんじゃなかろうか。
「…………すごい」
「何だコレ……」
ユキノが感嘆の吐息を洩らし、アサクラは間の抜けた声を出してまじまじとそれを見つめている。
気づけばいつしか、風は止んでいた。
抱えていたコナツの身体から力が抜け、倒れ込みそうになったが……それでも何とか彼女はその場に踏み止まって、自分の両足で立ってみせた。
乱れた前髪を梳かしてやると、汗ばんだ小さな顔が仄かに微笑む。
「……できた。できたよ、おにーちゃん。ちょっと、しっぱいしたけど……」
もしかしてと思っていたが、やっぱりちょっと失敗したらしい。
が、文句のつけようはない。
コナツは宣言通りに「扉」というのを喚んでくれたのだから、それで十全だ。
「うん。見てたよ、コナツ」
だから、あとは俺の仕事だ。
俺は最後にコナツの肩を柔らかく叩いて、背後の扉へと向き合った。
物言わぬ重厚な扉には用意された鍵穴がある。
本来、カギがなければ扉は開けられない。当たり前だ。
だからといってピッキングなんかでも太刀打ちできそうにないし、そもそも俺はそんな技術は持ち合わせていない。
でも例外があるとするならば、そのただ一つの方法を、この場に立つ俺は手にしている。
唱えるべき魔法は決まっていた。
その鍵穴に手をかざし、俺は譲り受けた魔法名を口にする。
「――《解放》!」




