92.傷つけられた仲間たち
ホレイさんと黒髪のバケモノが向かった方向とは真逆。
右側の通路へと、カンロジとハラは消えていった。
廊下の先にある階段を使って下の階に降りるつもりだろう。
俺は氷に背中を預けたまま、数秒間だけカンロジの言葉の意味を考えていた。
わたくしは誰でしょう、とカンロジは俺に向けてクイズを出した。
その答えは、当たり前に考えるならばやはり一つだ。それ以外では有り得ない。
本来ならば、正解は「甘露寺ゆゆ」であるはずだ。
……でも、もしも。
俺の認識が誤りでないのだとしたら。
こんな馬鹿げたことが有り得るとするなら。
あれは、あの少女は、もしかしたら――。
「ナルミ」
俺は思考を中断した。
敵の動きを警戒しているのか何なのか、アサクラが匍匐前進しつつ寄ってきたからだ。
「どうする、これから?」
「……とにかく味方の状況を早く確認しよう。いつ敵が戻ってくるかわからない」
敵、というのは、この場合、ホレイさんとあのバケモノのことを指している。アサクラも頷いた。
カンロジとハラは戻ってこないだろう、と何となく思う。
この戦力差で、俺たちが安心してノコノコ出てきたところを一網打尽、などとわざわざ回りくどいことをする意味はないのだ。
あの黒髪のバケモノが魔法を連発でもしていれば、ネムノキの回復魔法も間に合わず俺たちは全員死んでいた。それに気づかないカンロジではないだろう。
俺がその場に立ち上がると、アサクラもおっかなびっくりと腰を上げた。
「いてて……」
顔を歪めつつ、足をずるずると引きずって、アサクラは俺の後についてきた。
未だ爛々と咲き乱れる氷の華の棘を避けながら、ホールの中央付近を目指して移動する。
その途中でワラシナの死体が転がっていた。アサクラが上着を脱いで、上に掛けてやっている。
俺はそれを目にして少なからず驚いた。この局面で他人を気遣う行動が取れるアサクラのことを、単純にすごいと思ったのだ。
俺にはとてもそんな余裕はなかった。
「……ワラシナは、信じてたのにな」
アサクラは溜息のような声で言う。
おそらくカンロジとのことを言っているんだろう。
時折、その信頼が揺らぐこともあったようだが、基本的にワラシナは友人であるヤガサキのことを優先し、その意見を尊重しているように見えた。
それなのに最後は、実はヤガサキは既に死んでいたと明かされ、ヤガサキの振りをしていたカンロジによって結果的に殺されてしまった。
カンロジの行いはあまりに残酷だ。ワラシナは死ぬ直前まで弄ばれて、恨み言のひとつも漏らせずその命を奪われてしまった。
「こんなの死んでも死にきれないよな」
アサクラの声も表情も、沈鬱なまでに苦しげだった。
もしかしたら、魔物に追われて死んでしまったという彼の友人――アラタコウスケのことも、思い返しているのかもしれない。
そこに、急に背後からカツン、と氷を叩くような音が聞こえて、俺は驚いて慌てて振り返った。
「ミズヤウチ……」
背後に佇んでいたのはミズヤウチだった。
思わず意味もなく名前を呼ぶと、こく、と平坦に首だけを動かして応じる。バラバラになる前とまったく代わり映えのしない表情だった。
ステータスからしても、スピードに自信がありそうなミズヤウチならあの絶大な氷魔法さえ避けきるのではないか、と俺は思っていた。
その予感は的中したのか、あるいは怪我はネムノキの回復魔法で治った後なのか。
クールなミズヤウチの様子からはどちらなのかは判断できなかったが、ひとまず、味方と呼べる人間のひとりが無事であったことに俺は内心安堵する。
「他の人がどこにいるかは、分かる?」
「…………」
相も変わらず無言で、ミズヤウチが頷く。
それからさっさとホールの奥側に歩き出してしまった。
俺とアサクラは顔を見合わせる。……この場合は、ついてこいという意味で取っていいのだろうか。
揃って恐る恐るとついていく。
ミズヤウチは背後の俺たちを気にかける様子もなく、わりと早足で進んでいき、そしてホール奥の壁際まで来ると足を止めた。
壁に沿うような形で横に向かって広がった氷のオブジェがそこにはある。
俺はミズヤウチを通り越すと、その中を注意深く覗き込んだ。
そこに隠れていたのは二人と一匹だった。
ユキノはコナツを抱きしめていた。
その手は間違いなくコナツの首の後ろに回されていて、小さな少女を守るようにして包み込んでいる。
ただ、コナツはユキノを抱きしめ返してはいない。その小さな両腕の上には、小さくなったハルトラが力なく横たわっていたからだ。
その光景を前に、一瞬、俺は何と言っていいものか分からなくなる。
俺の角度からでは二人の顔までは見えないが、それでも、ユキノとコナツがどんな表情をしているのか想像に難くなかったのだ。
それでも黙って見守ってはいられなかった。いつ敵が戻ってくるか分からないからだ。
「……ユキノ」
致し方ないような気持ちで小さく名前を呼べば、ユキノの肩がぴくりと震え、おずおずと振り返る。
「……兄さま」
声は震えていたが、瞳には生気があった。
ユキノはコナツの様子を確認しながら、首の後ろに回していた手をやんわりと外していく。
ユキノが隠れ直した先にコナツたちが居たのは偶然だったようだ。
再会の幸運に驚いたのも束の間、ユキノはコナツが泣いているのに気がついて抱きしめたのだという。カンロジたちが遠ざかるまで、一切身動ぎすることなくそうしていた。
ユキノに連れられて、壁と氷の間から出てきたコナツは、俺の顔を見て開口一番に言った。
「はるとらの、お、おててが、こなつをまもってくれたから……ちぎれちゃって」
ぽろぽろと、真っ赤になった目から絶えず透明な涙を零しながら、コナツが必死に言い募る。
吐く息は白かった。見れば氷に直に触れていたのか、両手の甲も、それに膝小僧も真っ赤になっている。
「ゆか、ぴかぴかしてて、それでなんとか、つながって……こ、こなつも、まほうかけてあげたかったけど、こえだせないから、できなく……て」
その理由にはすぐに気がついた。
負傷したハルトラを直接、氷上に置けず、かといって離しすぎたらネムノキの回復魔法の恩恵を受けられない。
だからコナツは自分の手の平にハルトラの身体を載せていたのだ。おそらくは、数十分の間はずっと。
それで凍傷寸前にまでなってしまった。いくら床全体に回復魔法が掛けられていようと、延々と傷を更新し続けていた以上、コナツのその怪我にはうまく作用もしなかったはずだ。
――この世界における回復魔法は、決して万能ではない。
例えば、ユキノが使ってくれる《自動回復》という魔法がある。
あれはダメージを負った傍から自動で修復していく魔法だが、その性能故に、「痛み」という感覚そのものにはほとんど作用しない。
回復魔法を使うと、痛みのフィードバックが、よりはっきりと明確になるのだ。
治る過程が省略されるからこそ、治ったという事実そのものさえ呼び水となり、傷跡が疼く。肉体が本来あるべき痛みを忘れられない。
傷が塞がっても、記憶や感覚が。敗北した、傷つけられたという意識が――痛みのイメージが、呼応してしまう。
逆に言うなら、敗北やショックの実感が伴わない傷であれば回復魔法を使ってもほとんど痛むことはない。
かすり傷とか、事故とか、そもそも怪我を感知してなかったとか、そういう類のものであればきっと。
でも今回の場合、俺たちは圧倒的に敵の実力を見せつけられ、一方的にいたぶられただけだ。
だから、ネムノキとユキノに回復魔法を使ってもらったにも関わらず、俺も両足にまだ僅かに違和感がある。
アサクラもそうだ。骨折していた事実があるから、足を引きずるようにして歩いている。
きっとハルトラも同じなのだ、と俺は、コナツの両腕に大切に抱えられた子猫を目にして思う。
窮屈そうに両目は閉じていて、口は半開きになっている。
傷はあらかた治っているようだ。静かだが呼吸もしていて、お腹は小さく動いている。
それでも千切れてしまったという前足はたぶん、まだ、繋がったように見えるだけだ。
想像を絶する痛みを味わっただろうハルトラは、しばらくは起き上がることも難しいだろう。
そうしていると、どうしてもあの日――イシジマたちによって頭を割られ、必死の形相のまま息絶えていたあの可哀想な猫のことを思い出す。
恐ろしかった。何か、一つでも違っていたなら、目の前のハルトラだってその命を失っていたのかもしれない。
その様をずっと間近で見ていたのだろうコナツは、か弱く何度もしゃくり上げては「ごめんなさい」と繰り返した。
状況が許さないせいで声も上げられず、か細く呼吸するハルトラと共に居て、コナツはどれほど心細かったのだろう。
間近で見ていたアサクラさえ涙ぐんでいる。彼もハルトラによって救われた一人だった。
「よく頑張った、コナツ。偉かったな」
俺は涙を流し続けるコナツの小さな頭を、ぽんぽんと軽く撫でてやった。
コナツは謝るが、責める気など毛頭なかった。
責められるとしたらむしろ俺だ。俺の忠告がもう少し早ければ、ハルトラはもっと素早く動けていたかもしれないのに。
コナツはほんの数秒、驚いたように目を見開いたが――やがてふるふる、と弱々しく首を振った。
「……はるとらのほうが、ずっとがんばったよ」
「……うん。そうだな」
その言葉も、コナツがそう言う以上は真実なのだろう。
俺はその両手に抱えられた小さな猫に、そっと呼びかける。
「ハルトラ、コナツとアサクラを助けてくれてありがとう」
注視していなければ分からないほどごく僅かに、ハルトラが薄目を開く。
俺の言葉に答えようとしたのか、それから少しだけ口が開いたが、俺はやんわり首を振った。
「大丈夫だ。今は休んでくれ」
安心したように、再びハルトラの目が閉じていった。
「……マエノとホガミは、出てこないな。それに……アカイも」
アサクラなりに空気を読んだのだろう、躊躇いがちに現状を報告してくる声に俺は頷いた。
「一人逃げた、とカンロジさんたちは話してましたね」
ユキノが続けて言う。確かに、カンロジとホレイさんはそのような会話をしていた。
だが、それにしても計算が合わない。三人の内の誰かが、どんな方法かは不明だがここから離脱したとして、あと二人は同じ空間に残っているはずだ。
俺とコナツが話している間にも、ミズヤウチは近場の様子を確認してくれていたようだ。
しかし彼女も眉を下げて首を左右に振るだけだった。血蝶病者であるマエノとホガミはともかくとして、アカイの状況はどうにか知りたいところではあったが……この状況下では、生存は絶望的かもしれない。
「このメンバーだけで脱出のことは考えよう」
敢えて、はっきりと口に出して宣言すると、ユキノとミズヤウチは数秒と置かず頷いた。
アサクラは分かりやすく口ごもっている。それもそうだろう、とも思う。そもそもアサクラがホールまでついてきたのは、友人のアカイを救い出すためだったのだ。
でも今は、アサクラの感情だけに配慮することはできなかった。
俺にはすぐにでも実行したいことがあったからだ。
室内の階段をカンロジたちが使い、塔への隠し扉に繋がる道にホレイさんたちが向かった。
現状、俺たちは完全に敵によって退路を阻まれている。ふつうに考えるなら、もうその時点でゲームオーバーだ。
だけど――たったひとつ、可能性がある。
ひどく不確かで、判然としない可能性だ。
それでも残された希望は、俺にとってはそのひとつしかなかった。
「……コナツ」
目の前の肩に手を置く。
細くて小さくて、少し力を込めればすぐに壊れそうなほど柔い身体だ。
コナツは涙目で、何度も鼻を啜りながらも、俺の顔を黙って見ている。
その表情を見つめながら思い出す。
フィアトム城に来る直前、別れ際にネムノキはコナツを指差してこう言った。
――『この先、本当に本当に、困ったことがあったら……あの子に、助けてって言うといいよ』
「そしたらきっと何とかしてくれるからさ」とも続けていたはずだ。あの飄々とした笑顔で、さも当然のように。
俺は今、どうしようもなく迷っている。
それを俺が何となく確かめたくて問いかけたとき、コナツは気が向いたら助ける、と笑っていた。
俺も、こんな小さな女の子にそんな力があるわけがないと、あのときは自分の言葉がおかしくなったものだった。
だが今まさに、ネムノキが言うような、本当に本当に困った、絶体絶命の危機にあって。
明らかに弱った、傷ついた様子のコナツを前にして、そんな言葉を果たして口にしていいのか――。
勝手に縋りつくことは、よりコナツを苦しめることになるんじゃないか。責任を押しつけることになるんじゃないか。
そんな葛藤があった。他の道を考えるべきじゃないかと、その純粋な瞳を見ていると余計に、頭が重くなってくる。
……それでも最終的に。
俺の口はその言葉を吐き出していた。
「――コナツ、助けてくれ」




