90.久しぶり、おじさん
「――――はあァ、さすがにド派手だねぇ」
廊下から足音と、それに何者かの声が近づいてきた。
既に手がつけられない状況だというのに、ここに来て更なる敵の増援だろうか。
俺は咄嗟にユキノを抱き寄せた。
新手の気配は意外なまでに近い。氷の影に身体を縮めておかないと、バレるかもしれない。
音を立てないように慎重に身じろぎし、ちょうど氷の結晶にできた凹凸の窪みにユキノをそっと押し込む。
あくまで結果的になのだが、俺は彼女をほとんど押し倒すような格好になってしまった。本当に、結果的になのだが。
「……っ」
腕の中で一度だけ、ユキノの身体が小さく震えた。
それから何を思ったのか――やがてユキノは、背中に当たった氷のオブジェにではなく、押し倒す俺に向かって、そっともたれかかってきた。
手を伸ばしてくるわけでも、しがみついてくるわけでもない。
ただ、何かの拍子に身体の位置がずれてしまったと理由づけても主張が通るような、それは何気ない接近だった。
俺の角度からでは、ユキノの表情は見えない。
ただ、甘い香りが鼻腔をくすぐる。
俺は彼女の黒髪に鼻先を埋もれさせながら、ただその温度を受け止めた。
ほとんど重さを感じないほど、触れた身体は軽い。
俺の腕の中にいるのは少しでも雑に扱えば壊れてしまいそうなほどに、柔らかくて繊細な女の子だった。
ずっと知っていたはずの当たり前の事実が、今は全身にのしかかってくる。
俺はユキノを――たったひとりきりの妹を、この手で守りきれるのだろうか?
「…………」
俺とユキノは密着したまま、示し合わせたわけでもなく同時に呼吸さえ止めた。
惑う合間にも足音は一度近づき、また遠ざかっていた。……何とかやり過ごせたようだ。
ゆっくりと、ユキノから腕を離す。なぜかうまく顔は見られなかった。
また氷の反射を利用して状況を窺おうと振り向いた俺はそこで、ある人物とバッチリ目が合った。
「………………」
アサクラである。
先ほどまで両足をめちゃくちゃに骨折していた彼だったが、床下の《全体回復》のおかげでほぼ完治したらしい。
巨大な氷の華と華の間に身を滑り込ませて、ジッと息を潜めている。彼もどうにか無事に敵の探知をやり過ごせたようだ。
そしてカンロジへと接近していく、その人物は――俺の知っている人のものだった。
近衛騎士団団長。
確か名前は、ホレイ・アルスターと言っただろうか。
近衛騎士団の副団長を務めるレツさんの直属の上司。
それにユキノに戦い方を指南し、俺にはシュトルでの戦いにおいて厳しい言葉を浴びせた人だ。
「貴方の方は下の魔物は片づけられたんですか?」
「当たり前だろ。誰にモノ言ってんだ」
カンロジとホレイさんは親しげに会話を交わしている。
とても、フィアトム城を陥落した犯人と、それを捕まえに来た騎士のようには見えない。
つまり――この異世界において重要な役職を獲得しているホレイさんまでもが、カンロジに味方しているということになる。
その光景は俺にとって少なからず衝撃的だった。
カンロジは一体どうやって、ホレイさんを味方につけたんだ。
そもそもカンロジの目的とは一体、何なのか……。
「お久しぶりです、ホレイショーおじさん」
――息の根が止まりそうだった。
見れば、先ほどまですぐ傍に蹲っていたはずのユキノの姿が忽然と消えている。
カンロジとホレイさんに向かって、ユキノは颯爽と氷の影から姿を現していた。
何の物怖じもない。ただ街中で知人を見かけて声を掛けてみたような気軽さで、美しい少女は一歩を踏み出している。
……理由なんて、考えるまでもない。
ユキノ自身だって、ここにホレイさんが現れたことには驚いているだろう。
それでも俺たちの回復する時間を、作戦を練る時間を少しでも稼ぐために、わざと彼女は前に出た。
いつもそうだ。
俺が自分の能力を疑って自信をなくす間にも、ユキノはこうして動けてしまう。
守っているつもりなのに、これではその逆だった。
俺と違ってユキノは、俺を守るのにはいつだって一片の躊躇もしない。
「うわぁ、ホレイショーって。貴方、そんな風に呼ばれてるんですか?」
「……まぁね。ちょっとした戯れさ」
嘲るように鼻で笑うカンロジの隣に並び立ち、ホレイさんが肩を竦める。
眉を下げて笑ったせいか、少しだけ、それは悲しそうな表情に見えた。
『ギ、ギ、ギ……』
堂々と姿を見せたユキノに真っ先に反応したのは、白い手足を生やした黒髪のバケモノだった。
長い髪を床に引きずりながら、バケモノはユキノに向かって進もうとする。
しかしその動きを、ホレイさんが片手で食い止めた。
「やめろ。あの子は狙うな」
『ギ……』
「再定義。動く敵、音を立てた敵を積極的に狙え。ただしナルミユキノを条件から除外。再構築」
『ギィ……』
ほとんどまともな意志など感じられないバケモノが、ホレイさんの言葉を聞いて立ち止まる。
うじゃうじゃと黒髪は波打ち、その命令に反抗するように葛藤している様子だったが――また何もかも忘れたように、次はその場でクルクルと不気味に回転し始めた。
意志があるのかないのかも、釈然としない。ただ人の言葉自体は、どうやら通じるものらしい。
「あのー、身贔屓はやめていただけます? わたくしの立つ瀬がないのですが」
「いいだろ、これくらい。減るもんじゃあるまい」
カンロジはホレイさんの判断が不服な様子で、唇を尖らせている。
しかしホレイさんはそんな文句を適当に躱して、改めてユキノの方を見る。
「久しぶりだね、ユキノちゃん。できればこんな形で再会したくはなかったんだが」
「私はそもそも再会したくなかったです」
「こりゃー手厳しいな」
ホレイさんは声を上げて笑った。
でもユキノは表情を動かさなかったようだ。一人分の笑い声はあちこちに咲いた氷のオブジェに吸収されて、空間に響き渡ることもなかった。
ホレイさんはしばらく笑ってから、ぽつりと、ひどく小さな声で言った。
何となく、自信がなさそうな声音だった。
「……ユキノちゃん、オレたちと一緒に来ないか。オレはキミのことは買って」
「お断りします」
「だはー、相変わらずの即答……」
ホレイさんが顔を覆って天を仰ぐ。
しかしそれから彼は、もう一度、ひどく切羽詰まったような顔で――再度、ユキノを見つめ直した。
「オレは冗談で言ってるわけじゃあ、ないんだ。そのままその男と一緒に居れば、キミは――確実に死ぬぞ」
「構いません」
「冗談じゃないと言っている」
「私も冗談なんて一つも言っていませんよ」
即答を繰り返し、その末にユキノが微笑む。
神の手ずから生み出した造形と思わざるを得ないほど――整った容貌の少女がその表情を浮かべるだけで、なにか、圧倒されるほどの凄味があった。
「兄さまと一緒に居られない私は、そもそも死んでいるも同然です。そんな私が兄さまと一緒に居て死ねるなら、それは本当に幸福なことなんですから」
その言葉を聞いて、胸が痛んだような気がした。
錯覚かもしれないが、本当にそんな気持ちだった。
もしかしたらホレイさんも俺と似た感情を覚えたのかもしれない。
俯いた彼の顔はほとんど見えなくなっていたが、口元だけは、やるせないような笑みを浮かべていたから。
「……キミはさ、ほんとに……」
「無駄ですわ、ホレイショー」
何かを言いかけたホレイさんの言葉尻を、カンロジが容赦なく裂く。
二人が遣り取りを交わす間も、カンロジはずっとつまらなそうに自分の髪先をいじっていた。
今も呆れたような顔つきをして、右手の爪の調子を確かめながら口を開いている。
「彼女が本当にナルミユキノなら、貴方の言葉に頷く道理はありません。貴方自身が、よくお分かりなのでは?」
「……分かってても、割り切れないことだってあるだろ」
「割り切りなさい。そういう感情、不要ですわ。今さらまともぶったところで、貴方の本質は変わりはしない」
次はカンロジとホレイさんの論争にシフトチェンジしたらしい。
ユキノは俺に背を向けたまま、そんな二人を見つめている。
その場を決して動こうとはしなかった。そのまま敵の前に姿を現したままでいるつもりらしい。
でもユキノだって、自分がその場で例えば懸命に説得したからといって、それで相手が引くなどとは微塵も思っていないだろう。
彼女が会話を試みたのは考えるまでもなく、時間稼ぎのために他ならない。
今もユキノは、物陰に隠れる俺がどうにかするはずだと信じてくれている。
この絶体絶命の危機を、俺なら――何とかするはずだと。
「どうにも分かりませんね。おじさんはどうして、カンロジさんに手を貸すのですか?」
(…………アサクラ)
俺は無声音で、その名を呼んだ。
アサクラは気づいている。
だが呼吸音が洩れるのさえ恐れてか、両手で自身の口を固く覆ったまま、目線だけを俺に合わせていた。
両足はすっかり治ったようだ。今も《全体回復》の光は、強固な氷の床を通して、ほんの僅かに俺たちの足元を照らし続けている。
「そんなことが気になる?」
「ええ、気になりますね。無精髭のおじさんがいたいけな少女に手を出したとしたら、犯罪ですから」
「うふ。だいたい当たっています」
「こらさりげなく嘘を吐くな。あと無精髭はどうでもいいだろ」
カンロジも、ホレイさんも、それに会話に混ざれない様子のハラも、ユキノに気を取られている。
あの黒髪の得体の知れない生き物も、バグったように同じ動きを繰り返すだけだ。
――今しかチャンスはなかった。
俺は声を出さず、大きくはっきりと口だけを、意味のある言葉の形に動かした。
「なんちゃって。実はそれよりもずっと、気になっていることがあります」
(……おまえの力を、貸してほしい)
「ホレイおじさんは、どうしてホレイショーなのですか?」
「ああロミオ、あなたはどうしてロミオなの……ってか?」
「真剣に、疑問なんです。ホレイショーが居るということは、そこにはハムレットが居るということでしょう? そうでなければ戯曲は成り立ちませんから」
アサクラは俺の顔を凝視したまま、動かなかった。
しかし彼は恐怖に凍りついたままでいるわけではない。
その目は思っていた以上に爛々と輝いている。
何をすればいいのか、と問うように。
「あなたにとってのハムレットは、カンロジさんなんですか?」
俺は作戦を伝える。
決して、勝利するためではない。
強いて言うならこれは、敗走するための策だった。




