89.黒髪のバケモノ
目を開ける。
定まらない視界の中で、白い光が、宙にぼんやりと浮かんでいた。
それにその周りを、燦燦と降り注ぐこれは――雨、だろうか。
「…………?」
いや。違う。
瞬きをして、再度、その光景の意味を確かめる。
これは……雨なんかじゃない。赤黒い血だ。
氷柱よりも鋭利に尖った数千の刃がホール全体を穿ち、壁を残らず貫通している。
その先端にかけて、大量の血液が滲んでいた。
いくつも、ぽたぽたと、そこかしこから赤黒い水が垂れ流されているのは、つまりそれが原因だった。
そんな光景を真下から眺める俺は、仰向けに倒れている。
背中が妙に冷たいのは、スケートリンクのように凍ったホールに、今も俺が居るからだろう。
僅かに溶けた氷と混じり合った血液が、俺の頬にも一滴、二滴とぶつかって弾けた。
その感覚は確かにある。何とか生きているようだった。
でも、なぜか両足が動かない。
力を込めてすぐに起き上がろうとした。
だがたったそれだけの動作で、太腿から爪先にかけてまでを焼けつくような激痛が走る。
「――ッ!」
声は何とか上げなかった。
声もなく痛みに悶える合間にも、両足から血が噴き出す。
――《絶対零度》。
意識を失う直前、そんな魔法名が聞こえた気がする。
回避しようと必死に動いたはずだった。それでもまともに喰らっていたのだ。
「…………《大回復》」
すぐ近くで、ほんの小さな詠唱がきこえた。
目だけを動かして見遣ると、俺の頭の横に膝立ちになり、ユキノがしゃがみ込んでいた。
……見える範囲では、怪我一つない様子だ。良かった。
だが、俺の顔を覗き込むユキノの瞳には涙が浮かんでいた。
彼女は何度も口を開けては、それを震えながら噛み締める動作を繰り返す。
真面目な妹のことなので、兄の負傷に責任でも感じてしまっているのだろうか。そんな必要ないのに。
そしてユキノの唱えた回復魔法によって、身体を苛んでいたひどい痛みが、波が引いていくように去って行く。
だが気を抜いていい状況ではなかった。まだ脅威は去っていない。
「なん、秒。……気を失ってた?」
「約六秒です」
まだ動くには身体の自由が利かない。
情報だけでも集めようと問うと、ユキノが間を置かず答える。
……六秒。戦場で意識を失うにはあまりに長すぎる時間だ。
それでも追撃を喰らわなかったのは、不幸中の幸いと言えるかもしれない。
「他のみんなは……?」
ユキノはゆっくりと、その白い手を動かして、ある方向を指差した。
その先に居たのはアサクラだった。俺たちから二メートルほど先の床に倒れ伏せている。
倒れる彼の両足は完全に、変な方向に折れ曲がってしまっている。
だが意識がないのか、無言のままぴくりとも動かない。あの怪我なら生きてはいるだろうが、確信は持てなかった。
でも――敵の大威力の魔法が発動するとき、アサクラはコナツとハルトラの傍に居たはずだ。
つまり俺からはかなり遠い位置に立っていたはず。
「ハルトラが、彼を口に銜えて投げ飛ばしたようです」
胸中の疑問を察してか、ユキノが答える。
ハルトラはコナツとアサクラ、それにアカイの近くに居た。
俺の指示をいつも通り忠実に守ってくれていたなら、ハルトラはきっとコナツ・アサクラの二人を助けようとしたはずだ。
アサクラが、骨折はしていても氷の刃にやられた様子がないのは、ハルトラがうまく放り投げたからだろう。
だが、アサクラ以外のメンバーは?
上半身のみ起き上がって、俺は周囲を注意深く見回した。
驚くべきことに、視界の大半はそこら中に無造作に生えた氷のオブジェによって塞がれてしまっている。
壁にも、天井にも、そして床にも。大輪の花が咲き誇るかのように、ただし全身が棘でできた巨大な氷が溢れ出しているのだ。
その無数の凶器に吹っ飛ばされる形となったのか、俺と、俺が抱えていたユキノはホールの入口付近に居るというわけだった。
そして俺たちの位置からでは、ホール内にいるはずの味方の位置も、敵の位置もまるっきり把握できない。
これでは意識を失う前と後とで、まるで別の場所にやって来たかのようだ。
「兄さま、ひとつだけお伝えすべきことが」
ユキノが抑えた声で言い、そっとすぐ真下の床を指差した。
俺はその動作の意味がよく分からず、指差されるがままに、床を眺める。
遅れて気がついた。
「これ……」
ユキノが頷く。
固く張り詰めた氷の真下、注視しなければ分からないほどだが……ほんの僅かに、床全体が光り輝いているように見える。
ユキノの回復魔法――ではないだろう。彼女の魔法は俺以外の人間を対象に発動しない。
このように、床全体を照らし出すような魔法展開はできないはずだ。ということは、
「ほんの一瞬だけ……黄金色のエフェクトが見えました。おそらく下の階から、誰かが《全体回復》を放っています」
《全体回復》。
散らばる全員を包囲できるほどに優れたその使い手は、俺の知る限りただ一人だけだった。
それは、この城に来る直前に別れた。
白髪に赤い目をした、痩せた少年――。
「わたくし、ワラシナさんのことを見くびっておりました」
一度、思考を中断する。
反響していて分かりにくいが、おそらくホールの中央付近からその声は響いていた。
考えるまでもなく、カンロジだ。
「頭はお粗末で能力もイマイチでしたが、盾としては非常にご立派です。わたくしもハラくんもまとめて救ってくださるなんて、彼女は天が遣わせた御子であったのかもしれませんわね」
巨大な氷の影に身を隠しながら、ユキノと共に声のする方に視線を向ける。
その姿は確認できない。だが、何度も目線を動かしていると、やがて一つ、壁際に生えた氷の断面に、カンロジの後ろ姿が反射しているのに気づく。
「救ってくださる――といえば、彼女の《保護陣》がなければ、そもそもとうの昔にわたくしの正体はナルミくんに看破されていましたもの。それを思うとわたくし、感謝の思いでいっぱいです」
白々しく言いながらもカンロジは、両腕に抱えた何かを容赦なく取りこぼした。
ドシャ、と大きな音を立てて、地に落ちる。
俺はそれを、氷を通して目にした。
……頭が。
それに眼球が。
鼻が。唇が。喉が。鎖骨が。髪の毛が。乳房が。手足が。踵が。
ただ満遍なく貫かれ、崩れ、溢れている。
大量の、酸素に触れて黒く染まった血液に、よくわからない液体に、溢れたそれは、女の子であったはずだ。
穴だらけになったその死体には、ほんの僅かに面影がある。
だが、とてもまじまじと見つめていられなかった。
目を逸らすと同時、「うぷッ……」と誰かが嘔吐いた。
それがハラのものだろうことは、予想がついたが、だからといってどうしようもない。
盾にしたのだ。あの二人は。
縛られ、身動きの取れないワラシナを盾にして、全方位を無差別に攻撃する氷の魔法からそうして難を逃れた。
熱いマグマのようなものが、腹の底から湧き上がる。
これは後悔か。あるいは……怒りなのだろうか。
先ほどのカンロジの言葉は、間違いなく身を隠す俺への挑発でもある。
俺が城に滞在する彼女たちと協力しようなんて考えず、ただそのスキルを暴こうと暴力的に振る舞っていたなら、もっと早くヤガサキの正体に気づけていたはずだ。
そうすれば、少なくともワラシナは死なずに済んでいたかもしれない。
アカイも重傷を負って、使いたくなかったという自身のスキルを使わずに今も無事でいたかもしれない。
しかし俺たちにとっての絶望は、それでも、まだそこで終わりではなかった。
「――ほうら、もう一仕事お願いしますね」
最初、カンロジが呼びかけた相手はハラだろうと俺は思った。
が、
『ギ、ギ、ギ……』
カンロジに答えたのは、違う声だ。
否、それは――機械の駆動音と呼ぶ方が近いのか。
この耳で確かに聞いているはずなのに、どう例えるのが正解なのかすら見当がつかない。
女の声だ。それなのに、機械が何かの間違いで喋っているようにも聞こえてしまうから惑わされる。
ノイズ混じりのそれは、一音ずつを耳にするたび、妙に胸が騒いだ。
「定義。動く敵、音を立てた敵を積極的に排除なさい。ただし識別コード“0”は除外。ハラくんもついでに除外」
「ついでって……」
『ギィ……』
這い出てくる。その音の主が、この場に。
再び、氷に反射するそれを見て、俺は今度こそ絶句した。
ハラの手にした黒い箱から、はみ出ている。
水に濡れたように長く、黒い髪の毛だ。
その毛先がズルズルッと音を立てて蠢き、まるで意志を持つ手足のようにホールの床を踏みしめたのだ。
「…………ッ」
身の毛のよだつ光景だったが、それで済むはずもない。
鳴きながら、髪の毛の先の――本体とも呼ぶべきモノが、のっそりと姿を現す。
『ギギギ……』
それは、一言で言ってしまえば、バケモノと呼称するに相応しい生き物だった。
黒い髪の毛の塊には、顔がなかったのだ。
髪の塊から直接、人間の肩から手指までと、膝から爪先までが冗談のように生えている。
ちょうどブリッジしているように、反転した格好で飛び出してきたその生き物が、元気にじたばたと床を這い回っている。
その手足の細さや張りだけを見たなら、子どもが外を楽しく駆け回っているような、そんな微笑ましい光景のはずなのだ。
だがそのたびにウゾウゾと髪の毛が蠢き、骨張った手足は変な方向にねじ曲がっては元に戻る。
『ウギギッ』とはしゃいだような声か、音だけが、耳の奥を這い回る。
何もかもワケがわからなかった。
今まで旅をしてきた中で、あんな奇妙な魔物を見たことは一度もない。
強いて言うなら、血蝶病に罹っていたタケシタは、人間と魔物が融合したような奇形になりはてていたが――それでもあれほどまでに、奇妙で異常だったわけではなかった。
ただ隠れて見ているだけだというのに。
その生き物を視界に入れるだけで全身の産毛がぶわりと逆立ち、震えが止まらなくなる。
少しでも油断すれば歯の根が噛み合わず、カチカチ、と音を立ててしまいそうだった。
俺は耐えられずに目を閉じた。これ以上あんなものを見ていたら、頭がおかしくなる。吐きそうだった。
だが、そのときだった。
ぎゅう……、と強く、だがやろうと思えばふりほどけるくらいの力で、誰かが俺の手を握った。
俺は全身にいやな冷や汗を掻きながら、どうにかして薄目を開く。
それから首だけを動かしてその相手を確認した。
――ユキノ。
俺の手を握っていたのはユキノだった。
そんな彼女の手は、小刻みに震え続けている。それだけで音が出るのではと不安になるほど、ずっとだ。
だが、恐怖心に震えながらも、ユキノは目を見開いていた。
汗が目に滲んでも、決して、俺のように目を閉じたりはしていない。ひたすら愚直なまでに、辛抱強く、観察を続けている。
その姿を見て、何も思わないわけがない。
深呼吸をする。
俺も、俺こそ、目を逸らしていてはいけなかった。
カンロジは油断している。今は少しでも多く、情報は拾っておくべきだ。
俺たちは身を寄せ合って、同じものを見つめる。
「…………」
目を見開いて、もう一度。
もう一度、よく、観察する。
そして気がついた。
その白い手は――先ほど超威力の魔法を放った女の手、そのものだった。




