86.癒えない傷
いける。
そう確信する。
マエノはまだ気づいてすらいない。ミズヤウチの攻撃は必ず、この男の喉元を切り裂く――
その、直前だった。
「――やめてぇっ!」
「!」
斜めに振り下ろされかけた大鎌が、寸前でピタリと止まる。
命を刈り取る形をした刃は、まさにその役目を果たそうとした瞬間、ひとりの少女によって食い止められていた。
いや……違う。
ホガミはただ、マエノが切られる直前に庇おうと、ふたりの間に夢中で割って入っただけだ。
そのまま気にせず、いっそ無防備に両手を広げるホガミごと切りつけても良かった。そのはずなのに。
「……うわあああッ!」
「!」
マエノが目を剥いて反撃してくる。その命の危機を前にした猛攻に、俺は致し方なく距離を取る。
ミズヤウチも同様に後方に高くジャンプして引き下がった。
しかし明らかに、先ほどまでの彼女とは様子が違う。
「ミズヤウチ……お前……」
マエノ、ホガミを間に挟んで、俺はミズヤウチの名を呼ぶ。
ミズヤウチは答えない。
その呼気が、妙に荒い。ふう、ふう、と肩で息をしている。
白い額をだらだらと伝う大量の汗を、この距離でも認識できるほどだ。
何だろう。
マエノを追い詰める直前まで、ミズヤウチの動きには一挙手一投足に至るまで無駄がなかった。
ヤガサキたちから聞いていた彼女の活躍ぶりを見せつけるような、一切の躊躇もない動きだったのだ。
でも、先ほどのミズヤウチは――ホガミを斬ることを恐れたように見えた。
理由は見当もつかない。そして今このシチュエーションで、それについてのんびり思考している時間もなかった。
「ホガミ! よくオレを守ったな! さっきのミスはこれで帳消しにしてやる、嬉しいだろ」
「…………」
調子づくマエノに対し、ホガミは無言だ。
もうこれで不意打ちはきかなくなった。こう離れていてはミズヤウチと作戦の共有もできない。
迷う俺の前で、思いがけず、マエノが再度口を開く。
「ミズヤウチ、お前さぁ……」
マエノが話しかけた相手は俺ではなく、ミズヤウチだった。
首は俺の方に向けたまま、ホガミを挟んで自身の後ろに立つミズヤウチに向かって、マエノは一方的に言葉をぶつける。
「さてはあのときのことが、トラウマになってんだろ?」
「…………っ!」
目に見えてミズヤウチの顔色が変わった。
真っ青というより、白紙のように劇的に白く。
薄い唇が恐怖に戦慄く。
彼女は唇を僅かに開き、確かになにか、マエノに対してか、言おうとしているようだった。
しかしまともな言葉の形にはならない。短く、断続的な呼気だけがその口から漏れ出ている。
俺はそれでようやく気づく。
ミズヤウチは、喋らないのではない。おそらくは――喋れないのだ。
きっとその事実は、マエノの言う「トラウマ」と無関係ではないのだろう。だからミズヤウチはあんなにも苦しげにしている。
「あらら、お仲間のナルミくんはもしかして知らないのか。じゃあオレが教えてやるよ」
俺の表情に気がついたマエノがわざとらしく肩を竦める。
背後に向けて顎をしゃくったマエノが、にやりといやらしく笑った。
「このミズヤウチ……死神女はな。オレらの仲間を、二人まとめて斬り殺したんだ」
まさか、と思う。
無情にも、マエノの叫び声に近い告発はホール内に響き渡った。
「望月雄大と、モチヅキを庇った深谷凛ごとな!」
「――――」
ミズヤウチの細腕から、大鎌がこぼれ落ちる。
大理石の床に、その先端が突き刺さり、床に僅かな亀裂が走る。
しかしそれにすら気づかないように、そのまま彼女は膝から崩れ落ちてしまう。
「ミズヤウチ!」
俺は咄嗟に名前を呼んだ。
敵と相対する状況で戦意を喪失するのはほとんど死に等しい。
そして彼女を失えば、この拮抗する戦況をひっくり返す手は確実にひとつ減ってしまう。
どうにかミズヤウチの意識を呼び戻したかった。
しかしそんな風に俺の感情も、知らず誘導されていたらしい。
呼んだその瞬間に合わせ、前にさりげなく踏み出していたマエノの右手が――俺の眼前にかざされていた。
唐突に視界が薄闇に覆われる。
思考がたった一瞬だけ停滞した、直後だった。
「炎よ、《火炎球》!」
「――ッ!」
その手の平に湧き上がった炎の塊を、零距離で喰らう。
俺は背後にはじき飛ばされる。
というより攻撃をモロに喰らう直前に、わざと自分で後ろ足に跳んでいた。
「兄さま!」
ユキノが悲鳴を上げる。
傍目からは俺の顔面が爆発したように映ったのかもしれない。
俺はそのまま蹲り、しばしそのままの姿勢を維持する。
マエノの性格からして、弱った様子の獲物に追撃はしてこないだろうと踏んだのだ。
俺がすぐには起き上がれないほどのダメージを負った、と思い込めば、マエノはしばらく俺を観察する時間を楽しむ。
その予想は当たり、数秒が経ってもさらに魔法が飛んでくることもなかった。
――そうか、油断した。
異世界に召喚されたばかりの頃、レツさんによって生徒たちにリブカードが配布されたとき。
あのとき、「炎の魔法が使える」と豪語していたのはマエノだ。
ミズヤウチに対しても攻撃魔法を使ったのは、ホガミではなくマエノだったのだろう。
ユキノは回復魔法を使うためか、蹲るままの俺に近づいてこようとしたが、俺はその動きを手で制した。
それを強がりとでも受け取ったのか、「アハハハッ!」とマエノが高笑いをする。
「ほうら。お前、やっぱり……ハハ。攻撃魔法が効かないなんて嘘だろ? 嘘だと思ったんだ、オレはな」
ケタケタと耳障りな声でマエノが嘲笑う。楽しくてたまらない、といった様子だった。
「あのときはどんなカラクリを使ったんだ? それともオレたちが手を抜きすぎたのかな?」
洞窟での一件は、相当マエノの胸にしこりを残しているらしい。
しかしそんなことはどうでもいい。
そんな昔のことをいつまでも引きずるほど、俺はマエノのように脳天気ではなかった。
膝を使ってゆっくりと立ち上がる。
その間もマエノは、痛めつけられた弱者の顔はどんなものか、とワクワクしているような、にやけたツラをしていた。
俺は、ごく僅かに煤けているかもしれない顔でマエノを見遣る。
マエノの期待には添えず、申し訳ないことだったが、実は大した痛みはない。
表面を一瞬だけ高熱で炙られたような、不快な感触が残っているがそれだけだ。
詠唱破棄の代償か。それともマエノ自身の魔法の威力が最初から大したことがないのか。
……何はともあれ、だ。
俺は攻撃を喰らった自分の顔を、思いっきり平手で叩いてみせた。
「…………あ?」
その雑でぞんざいな動作に、マエノが唖然と目と口を開く。
俺にとっては痛くも痒くもない。少しは伝わっただろうか。
そして俺は無表情で顔の煤を払いつつ、間抜け面をぶら下げる男に向けて言い放った。
「あんなの嘘に決まってるだろ。今さら気づくなんてどこまで馬鹿でお気楽なんだ?」
ビキリ。
マエノのこめかみに青い血管が浮かんだ。




