81.命がけの鬼ごっこ
どう、とアカイがその場に倒れた。
見る見るうちに夥しい量の赤い血液が、敷かれた淡い色の絨毯の上に広がっていく。
むわりと、噎せ返るような鉄の臭いが鼻腔を支配する。
その真ん中で、
「あ……あ……、」
アカイは目を見開いたままピクピクと、僅かに身体を痙攣させている。
微かにだが、まだ息はあった。
でも――明らかに致命傷だ。
出血がひどすぎる。俺には彼女を助ける術はない……。
「――――ナルミィ」
あまりにおぞましい。
耳元を這うような声に、全身の産毛が逆立つ。
その声を俺はよく知っている。振り向かないまま、俺はその名を口にした。
「……マエノ」
最悪だった。
理由はわからない。だがハラはあろうことか、"塵芥黒箱"を使って血蝶病者を城の中に招き入れたのだ。
俺とアカイは気づけなかった。留守から帰ったハラの目的を、見抜くことができなかった。
その結果、アカイは一撃で死にかけ、俺は絶体絶命の危機に立たされている。
多分、いや確実に。
あの黒い箱の中に居るのは、マエノだけではない……。
マエノは俺の戦慄に気づかず、あるいは気づいた上でなのか、ぺらぺらと声だけを響かせ続ける。
「ようやく、お前を殺せる時が来たんだな。いやー、長かったよ。辛抱強くチャンスを待った甲斐があったな」
妙にのんびりと、棒読みで続けるマエノの声に、俺は振り向かなかった。
それがこちらの油断を誘うための手だと気づいたからだ。
「ッく……!」
だからこそ、ほとんど直感だった。
片方の膝を折り曲げて頭身を引き下ろす。
次の瞬間、先ほどまで俺の頭があった空間を、鋭い白刃が抉る。
「おー! スッゲェ、よく避けたな」
攻撃を放った張本人だろうマエノがはしゃいだ声を上げた。やはり姿は見えないままだ。
改めて確認すると、それはただの槍ではなかった。
先端に折れた刀の切っ先のようなものをつけているが、何よりの特徴として、その棒には三つの関節部分があり、鎖によってそれぞれが連結されていた。
形状と仕組みは、いわゆる三節棍と呼ばれる武器に似ている。
間合いから遠ざかるより先にそれを連結して伸ばしたから、アカイは逃げ切ることができず捕らえられてしまったのか。
物理法則をねじ曲げて、小さな箱からニョキッと飛び出した何者かの腕が、その三節棍を再び繰り出す。
「ッ!」
不意打ちでなければどうにか対処できる。
俺は一撃目は腰をひねって避け、その隙を突くように繰り出された二撃目を短剣の柄で弾いた。
そしてそのまま勢いをつけて身を翻し――アカイの死体を飛び越えて、全速力で走り出す。
「あはは、追いかけっこかァ。いいぜ、精一杯逃げてくれよ……」
ケタケタ笑いながら、マエノの声が背後から追ってくる。
立ち止まる道理があるわけもない。俺はとにかく必死に足を動かしながら、混乱する頭をも動かした。
敵は何人居る?
どんな武器や魔法を使う?
部隊はいくつに分かれている?
ハラも血蝶病なのか?
彼女という言葉は誰を指している?
ユキノは無事なのか?
考えようとしたはずなのに、浮かんでくるのは疑問だけだった。
突破口がない状況なのに、まともに何かを考えられるだけの情報さえ揃っていないのだ。
「……いや」
何も分からないがとにかく今は、ヤガサキたちに敵の侵入を知らせなければ。
一分一秒でもはやく合流して、こちらも対抗策を講じなければ勝ち目がない。
俺がここで立ち止まっていたら、敵の思う壺なのは間違いない。
そこで俺はようやく――頬から流れる何かの存在に気がついた。
アドレナリンが出ていたからか。
それともやはり俺自身も突然のことにひどく動揺していたからか。
頬からぼたぼたと大量の血が垂れている。マエノの攻撃が掠めたときに負ったものだろう。
絶望的な思いで振り返れば点々と、俺が走ってきた道にはいくつもの小さな血溜まりができていた。
今さらのように、ついてくるハラのものだろう足音がやけに大きく聞こえる。
「……くそっ!」
悪態突いて頬を拭うものの、流れる血は止まる様子も見せない。
俺は服の袖を切り裂いて、その布を頬に当てながら走るのを再開した。
こんなことで苛立っている場合じゃない。
それにヤガサキの話によれば、元々はハラもこの城に滞在していたはずだ。
となると、このすぐ下の階を《来訪者》たちが陣取っているのもハラは知っているだろう。
つまり遅かれ早かれ、奴らは俺に続いて階段までやって来る。
血の跡があろうとなかろうと、きっとそれは変わらないのだ。だったら必要以上に気にしなくていい……
「――ナルミィ、捕まえたァ」
ねっとりと。
今まで感じたことのない感覚が、耳元を襲った。
「…………ッ?」
――舐め……られた?
生温かく、気持ちの悪い感触はすぐに耳を離れる。
反射的に俺は腕を振り上げたが、空振りだった。
マエノは人間離れした俊敏な動作で後ろに下がると、三節棍を構えてニタリと口の端を持ち上げた。
洞窟で身につけていたあの黒フードはなく、マエノは元の世界で着ていた学生服をそのまま身に纏っていた。
そして、右目の下に小さく浮かんでいたあの蝶の痣は、今や比類を見ない大きさに育っていた。
――痣自体が、顔面全体を覆っているのだ。
肌の色も不自然に赤黒い。額から頬にかけてを大きく血管が浮かび上がり、ドクドクと、それぞれが一個の生き物のように脈動している。
まるでマエノから養分を吸収した蝶が、空に羽ばたこうとしているかのように見えた。
それにマエノだけではなかった。
続いて廊下の角から姿を現したのは、ホガミ――穂上明日香だった。
「…………」
あれほど派手で華々しい外見をしていた彼女は、今はひどく鬱屈そうに眉を顰めて俺を見ている。
毎日のようにセットされていた垢抜けた茶髪は、パーマの名残はあるものの手入れもせず伸ばしていたのか、だらんと力無く彼女の首元に垂れている。
マエノと異なりホガミは黒いマントを靡かせているが、視認する限りは蝶の形の痣は見当たらない。
俺は短剣を左手に構え、マエノとホガミの間で注意深く視線を行き来させた。
ホガミに続いてハラや他の血蝶病者まで現れたら打つ手無しだったが、後続はない。
否――現時点で、マエノのスピードを上回る方法がない。
何とか目では動きが追えている。だが俺自身の肉体がそれについてこれない。
ユキノの《速度特化》があれば……
しかし目の前の敵が、俺が万全の状態になるのを待ってくれるわけもない。
「オラァッ!」
マエノの手にする凶器が閃く。
ガチッ、と音を立てながら連結された三節棍が、瞬きよりも素早く俺に向かって伸びてくる。
避けようとした直後だった。
突然降ってきた誰かのシルエットが、俺たちの間に割って入った。
そして何と、刃の装着されたその先端を思いきり跳ね飛ばした!
「ミズヤウチッ!?」
「…………っ!」
まるで物語で語り継がれる死神が持つような。
彼女の身長の二倍はあるだろう大鎌を振るい、マエノの攻撃を防いでみせたのはミズヤウチだった。
「…………」
どこからともなく現れた彼女は、無言のまま。
ブンッ、と空気を切る爽快な音を鳴らし、大鎌の矛先をマエノに向ける。
よく見ると、ミズヤウチはウルフカットの毛先と口元とを巻き込むようにして首元に白いマフラーを巻いている。
今まで城で見かけたときは、一度も目にしたことはなかった。防具の類にしては中途半端な印象だ。
マエノはそんなミズヤウチの様子に、挑発されたと感じたのか。
両目をぎらつかせると、力任せに踏み込んできた。
「邪魔するなァッ!!」
「……!」
あらゆる角度から攻撃してくる三節棍に怯むことなく、ミズヤウチはそのことごとくを大鎌の巨大な刃で受け流す。
背後に守られた俺からしても、ミズヤウチの対処は迅速で、鉄壁だった。
何せあの鋭い刃の一つも、俺の元には飛んでこない。
彼女は有り得ないほどの集中でもって、襲いくる凶器を捌いては、それを受け流している……。
「チッ」
マエノは一度攻撃の手を止めると、露骨に舌打ちをして背後のホガミに呼びかけた。
「ホガミ、詠唱だ。まず二人でコイツから殺す」
「……わかった」
その遣り取りの隙に、ミズヤウチが目線だけで俺を振り返る。
目つきの悪さゆえに、まるで挑むような厳しい視線だったが――それでも彼女が俺に伝えようとしていることは理解できる。
その判断が正しいのかは、今は分かるはずもなかったが。
それでもせっかくミズヤウチが作り出してくれたチャンスを、みすみす捨てることはできなかった。
「――助かった! すぐ戻る!」
俺はその場をミズヤウチに任せ、再び螺旋階段に向かって駆け出した。




