80.無価値な謝罪
原健吾と俺との関係を一言で表すなら。
その関係は、いじめっ子といじめられっ子ということになる。
中一の頃から、俺はイシジマ・カワムラ・ハラの三人から執拗な嫌がらせや暴力を受けていた。
だからばったりハラに出くわしたところで、咄嗟に言葉が出てこない。
言おうと思えばきっと、「久しぶり」とか「元気だったか」とかいくらでも言えただろうけれど、それを進んで口にしようとは思えなかった。
何せ俺の姿を見止めてからのハラの有り様がひどかった。
ハラはまるで幽霊をみてしまったような顔をして、ぶるぶると全身を小刻みに震わせていた。
どっと噴き出た汗がその額を伝っている。ハラはそれを拭うこともなく、ただ俺のことを見つめて、何かを恐れるようにそうして震え続けていた。
ただでさえ長身の、しかも不安定なほど痩せ細った身体の男がそうしていると、俺の方が幽霊を目にしてしまったような異様な感覚を覚える。
もしかして、俺に今までの仕返しをされるとでも思ったんだろうか。
別にそんなつもりは毛頭ないが、否定でもしてやった方がいいのか?
迷っている内に、硬直したハラの後ろからものすごいスピードで近づいてくる人物があった。
次こそはその正体はアカイだった。……まさか俺を迎えに?
と一瞬有り得ない考えが浮かぶが、やはり違ったらしい。
「あら、久しぶり。裏切り者のハラくんじゃない」
「えっ……」
どうやらアカイはハラの姿を見かけて追いかけてきたようだった。
びくりと必要以上に飛び上がったハラの目の前にわざわざ回り込んでから、アカイは腰に手を当てて言い放つ。
「だってそうでしょ? ワラシナさんの占いが当たってたら襲撃は二日前だった。今さらになってノコノコ帰ってくるなんて何のつもり?」
「あ、いや、おれは……裏切り者なんかじゃ……」
「あなただけじゃない。ネムノキもそうよ。ほんと勝手なヤツばっかでうんざりする!」
アカイは強い口調で吐き捨てると、俺のことには見向きもせず通り越し、衛兵を蹴散らす勢いで塔の道を駆け上った。
そんな彼女がカーブの前で、振り向いてさらに言う。
「遅い!」
遅い……ということは、つまり早く来い、という意味なんだろう。
これでついていかなかったら、それはそれでますます怒りそうだ。
取り残された俺たちは苦笑しながら顔を見合わせ――るわけもなく、俺はハラの表情を確認しないまま歩き出したのだった。
+ + +
このフィアトム城に来たときと同じように、怒ったように大股で歩くアカイの後について俺は歩いていた。
速度は遅いが後ろからもう一人分の足音がついてくるので、ハラもアカイの言葉に従うことにしたらしい。
会話もなく隠し扉に向かってひたすら歩いている最中、ふとアカイが言った。
「あなたたちって、一年の最初の頃は仲良かったよね」
何となく、アカイはそれを口にしてみただけらしい。
三人の間に共通の話題がないので、そういえば、と適当に記憶を掘り起こしただけのようだ。
さっきは殺されちゃえばいいのに、などと叫んでいたくせに、どうにもアカイは気分の移り変わりが激しい。
俺はどう答えたものか迷う。もう二年前のことを覚えているアカイには驚かされたが、あまり愉快な話題でもないので早々に切り上げたい。
「一度キャッチボールをしただけだよ」
「キャッチボール? ナルミくん、野球得意だっけ」
「得意ではない。少し好きなだけ」
「フーン」
予定通り、アカイはそれきりこの話題に興味をなくしたようだ。
その間、後ろのハラは何も言わないままだった。
俺たちの会話が聞こえなかったのかもしれないし、あるいは、聞こえない振りをすることを選んだのかもしれない。どちらでもどうでも良かった。
その後もまた沈黙の時間が続いた。
少しずつ頂上に向けて歩を進めるごとに、次第に周囲には深い霧が立ち籠めてきて、前を行くアカイの姿はほとんど視認できなくなってくる。
そう広い道幅ではないので、塔に片手をつきながら登りつつ、試しに後ろを振り返ってみる。
すると長身のハラの姿さえほとんどぼやけて見えなくなっていた。霧というよりやはり、いっそ煙と呼ぶほうが近い気がする。
地上に出ればそうでもないのだが、毎日のようにこの深い霧が発生してフィアトム城の全貌を何かから隠すようにして覆っているのだ。
王城というよりは、どこか魔女が住んでいる、怪しい洋館というほうがよっぽどイメージには近いかもしれない……。
やがて、息が僅かに切れ始めた頃。
ようやく俺たちは最上階に続く隠し扉の前に辿り着いた。
「あー、もうホンット疲れた。足痛い。なんなのこの塔」
アカイはそう疲れたわけでもなさそうだが、ブツブツと文句を言っている。
なら急斜面の塔の道ではなく、城内の階段を使えばまだマシなのに。
とは思ったものの、それをそのまま口にすればアカイはまたブチ切れるだろう。
俺は「そうだね」と相槌を打ち、アカイに続いて少し屈むと、回転扉を動かして身体を滑り込ませた。
ハラもそれに続いて城内に入る。最上階のホールには誰の姿もなかった。
さて、これからアカイはどうするつもりなのか。このぷんすかした様子から予測するなら、全員を一度呼び出してハラに土下座でもさせそうな勢いだが……。
「………………今まで、悪かった」
俺は思わず後ろを振り向いた。
聞き間違いかとまず疑う。しかしそうではなかった。
ハラが、俺に向かって頭を下げていた。
「……それは何のことを言ってるんだ?」
自分でも思った以上に、平静な、いっそ冷たいほどの声が出た。
頭を深く下げたまま、ハラの身体が震え出す。
声は無理やり絞り出すように掠れていた。
「あのときお前は、おれを助けてくれたのに……おれは……」
「あ、やっぱりそうだったんだ」
しばらく俺たちの様子を胡乱げに見ていたアカイがぱんと手を叩き、場違いに明るい声音で言う。
「中一の頃、最初に虐められてたのってハラくんだったもんね。気がついたらイシジマたちと一緒になって、ナルミくんのこと虐めてたけど」
「……そうだよ……おれ……」
「虐めから庇ったら次はいじめっ子にも裏切られて標的になる、みたいな話、たまに漫画とかで見るけど本当にあるんだ。へえ~」
アカイはひたすら感心しているような口調で言う。
いわゆる対岸の火事で、当事者意識の欠片もない。
だからこそその言葉にはハラを責める意志もなかっただろうが、それを聞いたハラは一際強く身体を震わせ、やがて小さな声で言った。
「……なぁ、タカはどうなったんだ」
タカ。
ハラがそう呼ぶのは、河村隆弘のことだ。
卑怯な手でユキノを攫い、挙げ句の果てに彼女を苦しめ、最期はハルトラによって喰われて死んだ男の名だ。忘れるはずはない。
「あの後、イシさんと一緒に小屋の前まで戻ったけど……見つからなかった。大量の血痕だけがあって……タカが捕まえたお前の妹は、今、どこにいるんだ……?」
俺はカワムラの最期を知っていたが、それを素直にハラに話してやる義理はなかった。
今後は血蝶病者に対抗するために、このハラとも場合によっては協力する必要がある。
余計な火種はハラだけでなく、ヤガサキやアカイたち相手にも混乱と誤解を生むだろう。不必要な争いは避けるべきだった。
「どうしてそれを俺に訊く?」
問い返すと、ハラは数秒の沈黙を挟んでからこう答えた。
「……安心、したいんだ。おれはきっと」
「安心?」
意味がわからず訊き返すと、ハラはボソボソと何事かを囁く。
「自分が何をしても……悪党じゃないって……おれは……、間違ってないって……」
声が小さすぎてよく聞き取れない。
そう思った直後、ハラはゆっくりと顔を上げた。
「――――」
その表情を目にした瞬間、アカイが「ひっ」と短い悲鳴を上げる。
俺も悲鳴こそ上げなかったが、ほとんど同じような気持ちだった。
そこに佇んでいたのは紛れもなく亡霊だった。
血の気が引いて、真っ青を通り越し真っ白にすら見える顔面に、やけに大きい眼球だけが二つ浮かび上がっている。
ギョロ、ギョロ、と爬虫類のそれのように、眼窩から飛び出しそうな勢いで動き回ったソレは、ただそのまま、動き続けていた。
視点が定まっていないのだ。血走った眼球は、迷子のように白目の海を無我夢中で泳いでいる。
「なぁナルミ……お前はあのとき、おれを助けてくれたけど……でもおれはどうしても、お前を信じられなかったんだ……だけど……彼女なら……おれの価値を、認めてくれた……彼女だけは……おれは……きっと、……そうなんだ……」
ハラは異様に長い両手で自身の胸を激しく掻き毟った。
服の繊維が千切れ飛ぶほどの、苛烈な挙動だった。おぞましい自傷だった。
「ねぇ、コイツどうしちゃったの? なんなの?」
アカイがほとんど泣きながら俺に縋ってくる。
俺は困惑しながら必死に頭を回転させた。
とにかくこのまま、圧倒されたまま呆けていてはまずい。
早鐘を鳴らす心臓がそれだけは鋭敏に訴えている。
「…………アカイ。一つだけ教えてくれ」
「な、なに」
怯えるアカイを気遣う余裕はなかった。
何故ならハラが、俺たちに向かって至極緩慢な動作で一歩を踏み出してきたからだ。
どっと冷や汗が出てくる。
俺とアカイはほとんど同時に、後ろに一歩下がった。しかしハラもまた一歩進む。
俺たちはまた下がる。今すぐに背を向けてここから逃げ出したい。
しかし背中を見せたらきっと、それが最後だ。ギリギリの部分で踏み止まる。
「君はハラのスキルは知ってるか」
「え? し、知ってるけど」
「どんなスキルだ」
「ハァ?」
「いいから!」
前にアカイが、再会したばかりの頃に何気なく話していたことがある。
「他の人間に化けられる人を知っている」。
つまりそんなリミテッドスキルがこの世界には存在している。
もしそのスキルの持ち主が、目の前のこの人物だとしたら――
しかしアカイの返答は、俺の想像を優に超えて最悪のものだった。
「か、カンロジさんの指示で、みんなで一斉に逃げたときにザウハク洞窟で使ってた。黒い小さな箱に何でも仕舞って、持ち運べるって。たしか"塵芥黒箱"とか言ってた、……と思う」
「その箱には人間も入るのか?」
「……? うん、だってあたしも前に入っ、」
俺の言いたいことに途中で気がついたのか。
アカイの喉が中途半端に、ひゅっ、と嫌な音を立てて凍りつく。
目の前で。
ゆっくりと、ハラが、黒い小箱を取り出していたからだ。
目にしただけでも感じる禍々しいオーラに、息が詰まる。
それを両手に大切そうに抱えたハラは、正方形の箱の蓋部分に片手を添えた。
「え……? あ……うそ……?」
唇を戦慄かせ、アカイがまた一歩後ろに下がる。
俺の服をずっと引っ張っていた感触がなくなった。
それとほぼ同時に。
「あ。い、――ぃやあああああッッ!」
耐えきれず恐怖が爆発したのか。
パニックに陥ったアカイが、背を向けて走り出した。
足を縺れさせながら、もんどり打つような勢いで駆け出す。
「アカ――」
だが、名前を言い切る暇もなかった。
見切ることも。
その黒い箱から鋭く飛び出した凶器の切っ先が、音もなく俺の頬を掠めた。
「――――ッ!」
そして白刃は尚も伸び続け。
逃げるアカイの首筋の肉を、容赦なく抉り取った。




