76.またですかプロテクション
夢を視ている。
これが夢だ、というのは、その光景を目にした途端にすぐに理解できていた。
もう死んだはずの人間と、夢の中の俺は手を繋いで歩いていたからだ。
一面が真っ赤に染まった夕焼け空の下、二人分の影がどこまでも伸びている。
俺はその影の、頭のてっぺんを目で追いかけていたから、足元が少し疎かになっている。
でも大丈夫だった。
母が転ばないよう注意深く、手を握っていてくれたから。
「シュウ」
労るように穏やかで。
そして何より慈しむように静かに、その人は俺の名を呼ぶ。
「学校は楽しい?」
俺は少し考えてから、こう答える。
「うん。楽しいよ」
嘘だった。
俺は学校で貧乏人の子どもとして虐められている。
水をかけられたり、叩かれたり、殴られたり蹴られたり、そういうのは日常茶飯事で、でもそれを、俺はいつからか、母に積極的に話そうとは思わなくなっていた。
話してもどうにもならないし、話すと母は必ず悲しそうな顔をしたからだ。
俺は本当に、心の奥底から、その人だけは悲しませたくなかったのだ。
だから本当のことは話さないよう、細心の注意を払って毎日をやり過ごすようにしていた。
「そう。それなら良かった」
母は安堵したように微笑んで、それでも何か堪えきれない衝動が溢れ出たみたいに、ぎゅうと強く俺の手を握りしめた。
力任せに握り潰された左手はひどく痛んだ。
家に着いた頃には赤く腫れているかもしれない。
でも俺はそれも、絶対に、口にしたりはしない。
場面が移り変わる。
俺は見覚えのある公園に居る。
誰かと一緒だ。母ではない。
誰だっけ、と目を凝らして見つめてみる。
けれどその誰かの顔は、水彩絵の具をぶちまけたみたいにぼやけていて、何なのかわからない。
たぶん小学校低学年くらい。彼と共にいる俺の背格好もちょうど同じくらいだった。きっと少年なのだろう、とは思う。
何となく、顔は見えなくてもそんな気がしたのだ。
そして年の近い俺たちは砂場で遊んでいるわけでも、遊具で戯れているわけでもなかった。
ただ、疲れた老人みたいにベンチに並んで座っている。青い塗装が剥がれかけた古びたベンチは、俺たちが座っただけでも少し傾いて、グラグラ揺れるのが少しだけ怖ろしかったけれど。
俺はその場から動こうとは思っていなかった。
隣の誰かは一所懸命に、何かを俺に説明していたからだ。
「雲の流れや、かたちを見てあそぶんだよ」
彼は空を指差していた真っ白い手を、それから地面に向けて伸ばす。
「あとね。地面を見るときは、草やアリや、あと転がっている石の大きさなんかもね。じぃっと見てるよ。よくスケッチなんかもする。
それと花よりはなびらが好き。地面に落ちるまでついて歩くとね、つぎに顔を上げたときには、知らないところにいるんだよ。なんだか小さな旅行みたいでしょ?」
俺は早口でまくし立てるように喋る少年の言葉を、耳を澄ましてきいていた。
それは聞いたことのない遊びの方法だった。クラスでは誰もが、こんなゲームが売ってるとか、今流行ってるアレが面白いとか、振り回されるように様々な話題を囃し立てていたから。
だから、まず興味が湧いた。少年の言葉は魅力的だった。
雲の形をゆっくり眺めたり、石や植物を見つめるなんてことは、今までやってみたことがない。
いつも俯いていたはずなのに、それらに気づかなかった自分が不思議だったし、ちょっと恥ずかしかった。
でもまだ間に合う、とも思ったのだ。
「それ、いっしょにやってみてもいい?」
「…………」
少年は沈黙した。
俺は断られるのかと内心どきどきしていたのだが、
「こうやって話すと、いつもかわいそうって言われるんだけど」
と、ぽつりとその子が言ったので、ああ彼は驚いていたのかと、遅れて気がついた。
「だれが言うの?」
「クラスの知らないやつら。あと親」
自分のことのはずなのに、他人のことみたいに少年は言葉少なに説明した。
「でもぼくは言わないよ」
そんな彼に、ただ事実のみを伝える。
だってそれは玩具やで売っているゲームのように楽しくはないかもしれないけど、きっと心を彩る時間になるだろうと思う。
授業より、食事より、ずっと落ち着く、素敵な一日になるだろう。
隣に誰かが――彼がいるなら尚さら、そんな風になると思った。
少年は何度か、何か言うのを躊躇った様子を見せて、それからようやく言った。
「やさしいって、よく言われるでしょ?」
「言われるよ」
「うれしい?」
少し考えてから、答える。
「うれしくないけど、お母さんは喜ぶ」
「……お母さんのために、やさしいの?」
次は考えずに頷いた。
「うん」
よく見えないはずなのに。
水彩絵の具をうまくどけて、少年の口元が見える。
ゆっくりと微笑んだ彼は、確かこう言ったのだ。
「なら、キミは――」
………………
次に目を開いたときには、見馴れない天井があって。
「にゃむにゃむ。だから、はるとらはおかずじゃなくってぇ……」
『ニャア……(主食……)』
寝惚けた一人と一匹に抱きつかれていて、けっこう怠くて。
俺は夢の終わりを悟ると同時に、思う。
……どうしてこんなに大切なことを、ずっと忘れていたんだろう?
+ + +
「ではさっそく血蝶病対策会議を始めよう」
少しずつ深まってきた秋空の下。
俺たちは柔らかな風に吹かれながら、だいたい横一列に並び、正面に立つヤガサキの顔を見つめていた。
「それはいいけど、なんで屋外?」
ツッコむアカイに、ヤガサキはにこやかに応じる。
「涼しいからかな」
「そう……」
アカイはどうでも良さそうに頷いた。ヤガサキに対してはこんな感じで、態度の悪い彼女もちょっと控えめなのである。
血蝶病者の襲撃を二日後に控えた朝。
朝食を終えた俺たちは、王城の真横に備えられた兵士用の広々とした訓練場を借り、ヤガサキ曰くの対策会議を始めようとしていた。
ただ、メンバーは昨日から一人欠けている。体調が優れないとかでミズヤウチが欠席しているのだ。
それはともかく、ハルバニア城に比べてもこのフィアトム城はかなり設備が整っていた。
昨日のワラシナの案内では、訓練場のみならず遊戯室や大浴場、目の前を通っただけだが地下のワインセラーなんかもあったし、何というか非常に裕福な王族の暮らしっぷりが窺えるラインナップだった。
それでも、城中を歩き回ったのに何度かメイドさんや兵士とすれ違うだけだったのは、それだけこのフィアトムが血蝶病の脅威に晒されているということなのかもしれない。
ちなみに城の普段の警備に関しては常駐の近衛騎士団が務めているということで、特に俺たちは任されていないらしい。
そのためこうして訓練場を借りたいと王の側近に申し出ても、特に反発にも合わなかったようだ。むしろ血蝶病者から城を守ってくれるなら是非とも、という感じだったとか。
「あのね……」
ヤガサキがアサクラに話しかけている間に、俺もこっそりと傍らのユキノに囁いた。
「ユキノ、試しに誰かに《分析眼》を使おうと思うんだけどさ」
本来なら、特に話しかける必要性はない場面だ。
でもそのときは何となく、そうしたいような気がしていた。昨夜の気まずさを何となく、引きずったままだったからだ。
ユキノとの関係において、わざわざ話題を探して話しかけるなんてこれが初めてのことだったが。
「といいますと、ミズヤウチさんに使われるのですか?」
ユキノはいつも通りの態度で言葉を返してくれる。
俺は安堵したのを気づかれないよう留意しつつ、そんな妹に答えた。
「いや。ヤガサキにやってみようと思って」
「ヤガサキさんにですか?」
ユキノは心なしか目を丸くする。人選が意外だったようだ。
確かに、二人もの血蝶病者を殺した実績がある以上はミズヤウチを優先すべきかもしれない。
だがそれよりも俺は、ヤガサキの落ち着き払った振る舞いのほうが要注意な気がしてならなかったのだ。
ヤガサキにはこの場に居る誰より、余裕がある。
対策会議なんてものを主催しておきながら、果たして彼女は本当に襲撃を恐れているのかさえ疑わしいほどに。
「それは……いえ。でも兄さまの仰ることなら、間違いないと思います」
「ありがとう」
短くお礼を伝えて、俺は再びヤガサキに目を向ける。
何度も使い込んだおかげで、数秒間見つめずともその魔法は問題なく発動できた。
「《分析眼》」
意識を集中させ、こっそりと無声音で囁く。
が――
「うわ……」
思わず声が洩れた。
魔法の発動と同時に、バキン! と何かが壊れるような音が耳の奥で鳴ったからだ。
その音には非常に聞き覚えがある。しかも決して、良い思い出ではない……。
「な、ナルミくん」
横合いから、ずいっと伸びてきた指が俺の顔を指差した。
ワラシナだ。まるで犯人を指名した探偵のような得意げな口調で、彼女は続ける。
「いまチサに向かって使ったでしょう。魔法を」
浮き足だったワラシナの声に、当のヤガサキは「そうなの?」という顔をした。
それからわざわざ俺に目を向け、
「そうなのナルミくん?」
と笑顔で訊いてきた。
だいぶ人が悪い質問に、俺はぎこちなく苦笑を返す。
――《保護陣》か……。
またか。またコレですか。思わず項垂れてしまう。
俺にとって、モルモイでエンビさんに魔法を弾かれたという苦い出来事は未だに記憶に新しい。
「――二度あることが三度あるなら、もちろん、一度あることは二度あるのですよシュウ様」
なんかエンビさんの声による幻聴まで聞こえてきたし。
幻聴さえやかましいな、この人。
「ごめん。ヤガサキの落ち着きっぷりの理由を知りたくて、つい」
「特に精神系のスキルとかは覚えてないよ?」
ヤガサキは肩を竦める。
アカイは俺をギロリと一睨みしてきたが、魔法を向けられたヤガサキ自身が何でもなさそうな顔をしているので、特に何も言えない様子だ。
先ほどの言葉からも明らかだが、間違いなく、ヤガサキに《保護陣》を掛けていたのはワラシナだろう。
そういえば《保護陣》は光魔法だし、回復魔法が得意らしいワラシナなら使えるとしてもおかしくはなかった。もっと警戒すべきだったか。
「それじゃあ話を戻すね。まずは一人ずつ自分の戦い方から……」
説明を再開するヤガサキの声をどこか遠くで聞きながら、俺はコッソリと溜息を吐く。
残念だがこれ以上の探りは断念すべきだろう。
懲りずに魔法を使って、アカイたちから反感を買うのは俺の望むところではない。
もちろん必要性のある場面ならば気にせず使うべきだろうが、少なくとも今はそのときではなかった。
「――またもや弾かれるかもしれませんしね!」
ウワ本当にメチャクチャやかましいな、この執事(幻聴ver)!




