番外編3.何でもないよ
戸坂直は、今年の三月から、訳あって祖母の家で二人暮らしをしている。
そもそも三月まで、彼女は戸坂直でさえなかった。母方の姓に変えたのは引っ越してからである。
両親からは時折、近況確認の電話が掛かってくることはあるがそれだけだ。今どこで二人が暮らしているかも知らないでいた。
今ではたまに遊びに行っていただけの知らない土地に住み、中学校に入り、暮らしている。
祖母は優しく、特に何か困り事があるというわけではない。都心から離れた場所での生活の不便さも、しばらく住んでいればそう大した障害もなく慣れてしまった。
ただ、漠然とした不安だけが毎日、毎日、彼女にのし掛かる。
誰かに、あのことを知られていないかどうか。
その秘密は中学一年生の彼女に、延々と恐怖心を与え続けていた。
「ねえねえ戸坂、数学の宿題やってきた? あたしら忘れてきちゃったんだけどさぁ」
朝礼前の喧騒。
月曜日の朝ともなると、いつも以上に教室は騒がしくなる。
そんな中で、一限目の教科書の準備をする戸坂に話しかけてきたのは、斜め前の席の穂上明日香だった。
クラスを牛耳る女王じみた存在で、彼女に逆らうと冗談ではなくクラス内で行き場を失うことになる。
その隣に立っているのは土屋佳南。
穂上と仲が良く、よく二人でつるんでいる。二人とも非常に派手派手しい外見で、たまに教師から注意を受けるが聞く耳持たない。
この穂上と土屋は、前野隼人と高山瑶太とも仲が良く、四人で親しげに話している姿もしょっちゅう見かける。
クラス内ヒエラルキーでは完全に頂点に君臨するタイプの人間たちだ。
こういう人種には近づくべきではないが、もし相手が不用意に接近してきた場合は、それが如何なる用事であっても適切な対応を取らなければならない。適切に、間違いのない対応をだ。
それを、中学に入学してからの三ヶ月間で戸坂は充分に理解していた。
「……良かったら、どうぞ」
戸坂はスクールバッグから、昨夜片づけたばかりの宿題のプリントを取り出して穂上に手渡した。
それをひったくるように受け取った穂上はにやりと片方の口端をつり上げて笑う。
彼女は根暗な戸坂を下に見ているので、その一環として浮かべた表情なのだろう。逆らいもせずに言う事を聞いた戸坂に、「ご苦労様」とでも思っているのだ。
「あは、わかってるぅ」
「さすが戸坂さん」
感謝の一言もなく、二人は椅子に座り込み宿題を写し始めた。
戸坂はお礼の言えない人間が苦手だ。苦手だがもちろん、この場でそんな言葉を突きつける意味はない。後々、自分が損をするだけだ。だから何も言わない。
それでも微少なストレスは溜まる。
穂上たちには聞こえないように小さく嘆息して、戸坂はぼぅっと何も書かれていない黒板を眺めて朝の時間をやり過ごす。
誰にも言えない秘密ができてから、まるで日常は灰色に閉ざされてしまったようだった。
+ + +
その日の三限目は体育の授業だった。
教室にジャージを忘れてきた戸坂は、体操服のまま体育館から教室へと足早に移動している。
季節でいえば夏だが、上着の着用は認められているので出来れば着ていたい。
なるべく、どんな時も、自分という存在を何かで覆い隠しておきたい。誰の目にも見られたくない。
そうしておかないと、いつも不安だった。だから途中で授業を抜け出すなんて目立つリスクを侵してでも、こうして来た道を逆戻りしているのだ。
通常通り教室で授業を行うクラスの横をすり抜けるのさえ、胸の鼓動はうるさくなる。
緊張に四肢を強張らせながら、どうにか戸坂は教室まで辿り着く。
「!」
だが入る直前、咄嗟に戸坂は教室の扉に隠れてしまった。
中に人がいたのだ。
教室に佇んでいるのは鳴海周だった。
彼自身はさほど有名でもないが、あの芸能人のような美貌を持つ鳴海雪姫乃の双子の兄ということで、入学時は一定の注目を浴びていた少年だ。
二人はあまり似ていない。
そうクラスメイトに指摘された雪姫乃はびくびくしながら「二卵性で……」と答えていたが、戸坂は何となく違和感を覚えていた。
彼らが育てていたという子猫がいじめっ子たちによって惨殺されてから、その違和感はより大きなものとなった。
それから、周は以前よりも静かになった。ほとんど表情も変えない。死人みたいだ、と嗤われて馬鹿にされていることもある。
雪姫乃は以前よりも明るくなった。誰にでも愛想良く振る舞うが、本音は一切見せない。そのせいで女子から嫉妬を買っているようだ。
そうだ。強いて言うなら、二人は姿形ではなく――在り方が似通っている。
周が静かにしているのも、雪姫乃が華やかに微笑むのも、結局理由は同じなのだ。他者に対して心を閉ざしている。ほとんど密閉状態で。
だからこそというべきなのか。二人は誰にも気づかれないように密かに目線を交わす。近づいて話すことなどほとんどしないのに、まるで綿密に組み立てた作戦を実行するかのように、二人だけの合図を経て辻褄の合った、統制の取れた動きをする。
その秘やかな交流は、兄妹というよりも――
「……あ」
思考を垂れ流しにしていた戸坂はようやく自分の本来の目的を思い出す。
ジャージを早く取りに行かねば体育館に戻れないのだ。このまま教室の外で呆けているわけにはいかない。
だが相変わらず周は出てこない。自分の席の前に立ったまま動いてもいないようだ。
何をしているんだろう、とさすがに気になり始め、戸坂は教室の中をそっと覗き込んだ。
そこでようやく、周が未だ制服を着ているのに気づく。彼も体育の授業中のはずなのに。
そしてその手元に目線を動かして……どうして周が固まったままなのか、その理由を知る。
――体操服を切り裂かれたんだ。
ぎゅっ、と息が詰まるような思いがした。
周の手には無残にも引き裂かれた彼の体操服が握られていたのだ。
陰湿な虐めだ。誰がやったのだろう。
普段、石島たちは周をからかって虐めているが、手口としては彼らしくない気はする。でも、わからない。実行犯が誰だとしても、許されることじゃない。
もしかして周は泣いているのだろうか。
だとしたら、戸坂はどうしたらいいのだろう。どうするのが正解なのだろう。
もちろん、人としての行動ならば、泣く彼の元に駆けつけて話を聞き、相談に乗り、教師に訴えに行くとかが正解だ。正義に溢れていて、大体の場合は正しいと言える。
でも――戸坂にはそれが出来ない。
するべきだと思う。以前の自分なら出来たかもしれない、と大それたことだって考えるくらいには。
だけど、今は出来ない。秘密を抱えた自分はあまりに弱くて脆くて、ボロボロのつぎはぎみたいな存在なのだ。
誰かの手助けができるほどの余裕も、優しさも、今の戸坂には無い……。
「うーん、どうしよう」
戸坂はびくりと肩を震わせた。
喋ったのは教室に立つ周だった。
戸坂の右隣の席で彼は、うーんうーんと頭を悩ませている様子だった。
戸坂に話しかけたわけではないらしい。安心したのも束の間、淡々とした独り言が続いた。
「これ、たぶんカッターで裂かれてるよな。でも買い換える余裕はないし、そんなこと言ったらまた殴られそうだし……。ていうか授業もどうしよう。保健室でお願いすれば体操服って借りられるんだっけ」
戸坂は目を見開いて、ただ愕然とその言葉を聞いていた。
違った。ぜんぜん、違った。
彼は泣いていたわけでも、怒りに打ち震えていたわけでもない。
さてボロボロの体操服をどうしようか、と純粋に考えて、悩んでいただけだったのだ……。
その事実を認識したとき。
怖い、と。戸坂はシンプルにそう思った。
そもそも、あの少年は、いじめっ子たちを相手にしていない。
自分がいじめられているという事実さえも、まるで気にしていない。
体操服が切り裂かれた現実そのものではなく、切り裂かれた体操服では授業に出られないから困っているだけ。
誰それがやったとか、それで嫌とか辛いとか悲しいとか、そんな当たり前のはずの情動が起こっていない。
それは人間として有り得ないことのように戸坂は思う。
誰だって、誰かに虐げられたくはない。できるだけコミュニティの輪に入り、はじき出されないよう自分の居場所を必死に守ろうとするものだ。たとえば誰かを蹴落としてでも。
特に学校社会という閉鎖された空間内では、その原理がより強く働くものだと戸坂は考えている。
だから戸坂だって、なるべく他人に気を遣う。神経を磨り減らして、敵を作らないよう細心の注意を払って、それでどうにか教室の片隅に存在していられる。
それなのに――鳴海周は、何だかどうでも良さそうだ。
自分のことを、意識していない。
自分のことなのに、何だか、他人事みたいに捉えている。
それを理解した瞬間。
戸坂の胸は、先ほどの非ではないくらいにぎゅうと絞まり、苦痛に全身がひどく痺れた。
でも、何でだろう。それと同時に。
その歪んだ在り方から、目の離せない自分が居たのだ。
+ + +
しばらく、周のことを考える日が続いた。
といっても、中学生らしい淡い恋心――などではない。決して違う。
今まで出会ったことのない特異な人間を前にして彼女が行うことといえば、「観察」一択である。
戸坂は熱心に、周を観察し続けていた。
それも、穂上などに揶揄されたら堪らないので非常に控えめな、それこそ誰かが戸坂のことを熱心に見つめでもしなければその気配の一端さえ掴めないであろう熱烈で密かな視線である。
もしかすると雪姫乃あたりはうっすらと気づいていたかもしれない。しかし彼女は戸坂には何も言ってこなかったので、自粛する気もなかった。
周の行動原理を少しでも理解できたら、そのときが引き際だろう。
……あ。
そんなことを思っていたら、鳴海周が消しゴムを床に落とした。
ある日の古文の時間だった。
老教師が長々と、聞き取りにくい発音で解説をしている。
それを絶え間なく遮るクラスメイトの話し声もしていて、落ちた音は誰にも聞こえなかったようだ。
でも、位置が悪い。彼の前席の、穂上の椅子の足近くなのだ。
周もそれを察したのか、しばらくジッと落ちた消しゴムを見ていたが、不意に視線を外してしまった。拾うのを諦めたのだろう。
戸坂はきょろきょろと目のみを動かし、周囲を見回す。
たぶん、誰も見ていなかった……と思う。百パーセントではないけど、恐らくは大丈夫。
弱い自分には、そんなことにも勇気が必要で。
戸坂はそうっと椅子から立ち上がると、ゆっくりと自分の机の前に回って、落ちていた消しゴムに手を伸ばした。
気配に気づいた穂上は僅かに振り向いてきたが、もぞもぞ動いたのが戸坂と分かるとすぐに興味なさそうに首の角度を正面に戻した。
身体を強張らせながらも、どうにか席まで戻ってくる。右手に握りしめた消しゴムの感触だけは確かだ。
恐る恐ると手の平を開くと、使いかけで角の丸まった消しゴムが、ちょこんと収まっている。
ゆっくり隣を見ると、周もこちらを目を見開いて見ていた。
陸奥の……しのぶもぢずり……誰ゆゑに……乱れそめにし……われならなくに……
老教師が蕩蕩と詠み上げながら、黒板に文字を書き記していく。
どういう意味だっけ。うまく頭が回らなくて、よく考えられない。
はい、とか。
どうぞ、とか。
適当に、何か言おうと思ったのに、喉が乾燥しきっていてうまく言葉が出なかった。
結局、無言のまま周の机に消しゴムを置いて、それきり戸坂は可愛げなくそっぽを向く。
周はどう思っただろう。無愛想なヤツだと思われたんじゃないだろうか。
別にそれでもいいんだけど。何も、困らないし。話しかけにくいヤツだな、って認識がより深まれば、波風立てたくない戸坂としては有り難いくらいなんだし。
いろいろと心の中で言い訳やら、負け惜しみやら、よくわからない感情がぐるぐると渦巻いて吐きそうになってくる。
でもそれは次の瞬間、ぴたりと止まった。
「ありがとう」
きこえた。
戸坂が横に顔を向けると、周は見たことのない、気弱そうな微笑を浮かべていた。
――それから、学校からの帰り道も。
やっぱり戸坂は未だに周のことを考えて、てくてくと一人で歩いている。
もしも、彼に。
鳴海周にあのことを話したら、いったい彼はどんな顔をするだろう。
戸坂は真剣に悩んで、考えてみる。
時間だけはたっぷりあるから、好き放題に思考していられる。
といっても、周のことを特別よく知っているわけじゃない。言葉を交わしたのも事務連絡のみの数回だけだ。
それと今日の「ありがとう」の一幕。
彼はお礼を言える人間なのだ、と戸坂は少なからず衝撃を受けた。
ならば、よっぽど、穂上や土屋よりも――彼は人間だった。少なくとも戸坂にとっては。
そんな鳴海周と、また、どこかで長話をする機会でもあって。
そんなとき、何かの弾みで戸坂が、あの話をしたとして。
彼はきっと、驚きはするだろうと思う。
でも、たぶん、今まで戸坂の身の回りに居た人たちのように、嫌悪はしない。差別も。一方的な批判も。
それこそ戸坂の、身勝手極まりない希望的観測かもしれないけれど。
そんな日が来るわけがないのに、何だか胸にひとつの小さな灯りが灯ったみたいだ。
「あら、直ちゃんお帰りなさい」
「うん。ただいま」
靴を脱いで丁寧に揃え、戸坂は家の玄関を上がる。
台所に居たらしい祖母はぱたぱたスリッパを慣らしてやって来て、笑顔を作りかけたが――その途中でまぁまぁ、と不思議そうに目を丸くした。
「今日は直ちゃん、ちょっとご機嫌に見えるわねぇ。どうしたの?」
思いがけない言葉だった。
それでいて何となく、そう祖母に指摘されたら嬉しいとも思っていたのだ。
戸坂は微かに笑って、こう答えた。
「何でもないよ」
読んでくださりありがとうございます。
次回から本編第4章開始予定です。引き続きよろしくお願いいたします。




