番外編1.兄さま、金欠です! ~ver.2~
たった一人、真ん中のテーブルに陣取っている男性の前から、オトくんがしばらく動いていないのだ。
先ほどから俺の数倍の速度で働き尽くしだった彼にしては様子がおかしい。
どうしたんだろう、と気になって、俺は遠目から男を観察した。
その眼鏡の男性は、てらてらと脂ぎった顔をおしぼりでせっせと拭いていた。
恰幅はかなり良い。というより、だらしないくらいにお腹周りがボヨヨンとしている。
それに店内は涼しい温度が保たれているのに、なぜか何度も荒い呼吸を繰り返していた。
明らかに、今までの客層とはタイプが大きく異なっている。
そんな男が何かを、オトくんに向かって喋っている。
俺は余計なことかと思いつつも思わず耳を澄ませた。
「ハァ……ハァ……今日もかわいいねオトくん。ところで今日のパンツ何色?」
――っうわコレ明らかにヤバい変態だ!
「……ええ、っと……」
よくよく見れば、オトくんは手を握られて硬直していた。
振り払うわけにもいかず困っているようだ。すっかり青い顔に困惑の愛想笑いが滲んでいる。
慌てて振り返ってみるものの、タイミング悪くエンビさん含む他の執事さんたちは、みんな冒険者の接客に当たっている。
どうやら応援は見込めなさそうだが、誰かの手が空くのを待つ猶予はない。
一刻も早くオトくんを助けなければ!
俺は小走りにそのテーブルに駆け寄った。
「冒険者様、オトは具合が悪いようですので本日は私が代わりにご奉仕させて頂きます」
「! シュウ様……」
俺はオトくんの一歩前に出て、ぺこりと男に向かって頭を下げた。
オトくんは相当参っていたようで、俺のことを様付けで呼んでしまってハッと口を噤んでいる。
目線で「逃げて」と合図するものの、困った顔でその場に立ち尽くしている。責任感の強い彼は、俺に面倒を押しつけられないと思ったのかもしれない。
「何だと、おま――……お、新人さん? けっこうかわいいじゃん」
作戦通りに……というべきか。
男はオトくんから俺に興味を移してくれたようだ。
「お名前は何ていうのかな? ほら、ご主人様に教えてごらん?」
ねっとりとした言い回しに、ゾゾゾ、と背筋に鳥肌が立つ。
しかも生温かな両手が突然、俺の右手を包み込んできたのだから堪らない。
生理的な嫌悪感で吐き気まで催してくる。
でも……耐えろ耐えろ。ここで嘔吐でもしようものなら、ギルドの顔に泥を塗ることになってしまう。
「……チュウ・セイです」
俺は喉奥から声を絞り出して、何とかそれだけを言った。
「チュウくん? チュウくんって言うんだぁ。かぁいいね」
「……い、痛み入ります」
握られた手をすりすりと撫でられる。やばい、本当に気色が悪い。
でも相手がお客という立場である以上は、容赦なく蹴り上げることもできない。
接客業って経験したことないけど、本当に大変なんだろうなぁ……と意識を飛ばしつつ思いを馳せた直後、
「おい、それ以上、その執事相手に下卑た真似すんな」
第三者の声がその場に鋭く響いた。
振り向けば、いつの間にか。
隣のテーブルについた一人の男が、椅子の背もたれに寄り掛かって目を閉じている。
燃え上がるような赤毛に、細く開いた瞳は澄んだ翡翠色。
男らしく整った容貌がゆっくりと傾き、俺の後ろの男を見据えた。
「なっ……なんだと!? 誰が下卑た真似をしてるっていうんだ!」
「お前さん以外いねぇだろ、そりゃ」
軽く鼻で笑われ、太った男の顔が真っ赤に茹で上がる。
「な、なんだと!キサマ、このおれに向かって」
「いいからさっさとその手を離せ」
「~~~ッ!」
厳しく冷徹な声に気圧されたのか、男がようやく手を離す。
俺はそれでどうにか解放された。
シュウ様、とオトくんが小さく俺を呼ぶ。彼もこの事態に戸惑っているようだ。
男は立ち上がると、全身の脂肪を揺らしながらその人の元につかつか歩み寄った。
「お、おれはなぁ、ここらじゃ有名なんだぞ。フフン、驚くなよ? 音に聞こえる"轟音怪奇"のバーカスとは、このおれのこ――」
「レツさん!」
「そう、おれの……、うん……レツ……?」
俺がその人の名を呼ぶと、肥えた男がぴたりと立ち止まり眉を顰める。
「レツ……レツって、まさか……近衛騎士団副団長の……?! "烈風"――レツ・フォードか!?」
「その二つ名、ダジャレみたいで好きじゃねぇんだよな」
そう、そこに座っているのはレツさんだった。
しかし彼は俺たち三人の注目を一身に受けながらも気にする様子もなく、頭の後ろで組んだ腕に後頭部を載せてのびのびとさえしている。
「それはともかく、何だっけ。バカでカス?」
「バーカス!」
「そうそう、バーカス。さすがにこれ以上、騒ぎは起こさないほうが得策だと思うぜ」
それは一体どういう意味なのか。
確認するより先に、大きな変化が起こった。
男の肩を、革手袋に包まれた手がトントン、と柔らかく叩く。
振り向く男の背後に立っていたのは――受付業務を担当する、二名のベテラン執事たちだった。
「冒険者様、お待たせしましたこちらにどうぞ」
「ただいま、当ギルドおすすめの新たなクエストが公開されました。是非チャレンジして頂きたく」
にこにこと営業スマイルを浮かべたイケメンたちが、クエストの貼り紙を男の前に掲げる。
男はそれにチラリと目をやってから、辟易とした顔をする。
「い、いや。おれは今日はオトくんやチュウくんと話に来ただけで、特にクエストは」
「まあまあそう言わず。こちらのクエスト、何と報酬として三万コールが支払われるのです」
「で、でも。北の山脈に出没するドラゴン退治って、これクエスト難易度がヤバすぎて誰も帰ってこれないって有名な」
「何を仰いますか、"轟音怪奇"のバカデカス様なら、きっとお一人でもご立派にクリアできますよ」
あ、もうバカでカスって言っちゃってる。
オトくんが不意に噴き出して、それから慌てて口を覆った。
「い、いいです。本当にいいんだって。いや、あの、た、たすけ……」
すっかり蒼白な顔色になった男は、執事二人にカウンターに向かってずるずると連行されていった。
こうなっては単なる自業自得だ。同情する余地もなかった。
俺はふぅ、と溜息を吐いてから、その見知った騎士へと改めて呼びかけた。
「レツさん、助かりました。でもどうしてここに?」
「いんや、ちょっと用事で受付の方に居たんだが。そしたら聞き覚えのある声がしたからつい、な」
口出ししちまった、と爽やかな笑みを浮かべるレツさん。
ちょっと格好良すぎるぞこの人。もしこの場に女性冒険者たちが居たなら、きっと一瞬で取り囲まれていたに違いない。
「シュウ様、この度はとんだご迷惑を」
接客に一段落ついたのか、エンビさんも駆けつけてくる。
そうは言っても、先ほど執事たちを派遣してくれたのもエンビさんの気遣いだろう。
特に俺が謝られる理由はないのだが、レツさんは厳しい目つきでそんなエンビさんを睨んでいる。
「エンビ、あんな冒険者ギルドに入れんなよ」
「彼、ああ見えてCランクの冒険者なんですよ。技量はあるんです。しかしオイタが過ぎるようなら、出禁にしてしまった方が良いですね」
「いえ、そんな。僕がうまく対応できないのが悪いんですし」
オトくんは話の雲行きを感じ取ってか、だいぶ萎縮してしまっているようだ。
自分のせいで顧客が一人減る、と心配しているのだろう。こればっかりは、俺が口出しできる問題じゃない。
「違いますよオト。常識外の行動を取る冒険者など、この国に必要ありませんから」
しかしエンビさんはバッサリだった。
そこまであっさり言い切られると、オトくんも「ですかね……」と頬を掻くに留まる。
良かった、この件は近いうちに解決しそうだ。
話が一段落ついたところで、俺は先程から気になっていたことを訊いてみた。
「エンビさんとレツさんって知り合いなんですか?」
タイプはかなり違うが、妙に気心が知れた仲に見えるのだ。それに俺の見たところ、歳も近いのだと思う。
俺の問い掛けに、ふたりは顔を見合わせた。
「シュウ様、前にお話した、冒険者ランクの件は覚えてらっしゃいますか?」
急にエンビさんが話を変えた。
俺は不思議に思いつつ一応頷きを返したのだが、エンビさんはそんな俺に悪戯っ子のような微笑を浮かべる。
「彼――レツ・フォードは、元Sランクの冒険者なんですよ」
「……えっ!? そうなんですか?」
「おい、言うなよ。そんな昔の話」
レツさんはげんなりとした顔つきだ。あまりその話はされたくないように見えた。
でも確かエンビさんの話だと、今はハルバニア国内にSランクの冒険者は一人も居なくてAランクが最上級だったはずだ。
その居なくなったSランクの冒険者の一人が、レツさん?
「シュウ様にも見せて差し上げたかったですね。当時のレツは、そりゃもう苛烈も苛烈、とんでもなく荒れた若者で」
「だーかーらやめろって! シュウに余計な話を吹き込むんじゃねぇ!」
レツさんの武勇伝は聞きたい気もしたが、本人が本気で嫌がっている様子なのでそう素直に言うこともできない。
いつか、レツさんの居ないときにでもエンビさんからこっそり聞こう……と俺は思った。レツさんには怒られてしまいそうだけど。
そのまま二人が口喧嘩を始める勢いだったので、俺はごほんと咳払いした。
「レツさん。えっと……お礼と言っては何ですが、チェキでも撮ります?」
レツさんは俺の言葉に目を丸くする。
「チェキ? ハハ、撮る撮る」
引かれるかと少し心配したが、陽気にノってきてくれたので安心する。
ちなみにここで働く執事の大半が《必写撃》という魔法を覚えている。略してチェキ。
それは、魔法発動時に見ていた光景をそのまま、紙に投影するという――ようは現代でいう、ポラロイドカメラのような特殊な魔法なのだ。
光魔法の一種とのことで、ユキノも覚えようと宿屋でよく特訓をしているのだが、未だ習得には至っていないようだ。
「では、撮りますね。もう少し近づいてください」
もちろんオトくんもその魔法を習得している。
主にギルドで流通しているという高級な羊皮紙を手にしたオトくんが、一メートルほど距離を置いてまっすぐ俺たちの前に立つ。
彼の見た光景がそのまま投影されるので、直線距離に立つ必要があるのだ。
カメラマンにそう言われ、言い出しっぺの俺はどうしたものか迷ったが、レツさんは椅子から立ち上がると俺の肩をがしりと掴んだ。その力強さに驚く。
こう近づくと、筋肉の厚みや量が俺のとは比べものにならないし。ちょっと落ち込む……。
「これくらいで大丈夫か?」
「はい、問題ありません。ではお二方とも、シツ・ジー!」
えっ、何その掛け声。
文化の違いに翻弄されている間にオトくんは「光よ、投影せよ。《必写撃》!」とささやかな詠唱まで終えている。
あれよあれよという間に撮影会は終わってしまっていた。
「あ、良かった。きれいに出てきました」
「おー、スゲェな。ガキの頃に家族で撮ったヤツより鮮明だ」
「最近のチェキは進化していますからね」
オトくんの手にしていた紙にありのまま現実が写し出される。
その完成度を確認してから、オトくんは笑顔で紙をレツさんに手渡した。俺も横から覗いてみる。
「シュウ、顔が固いな。オレばっか笑顔」
「あんまり写真……えっと、チェキに慣れてなくて」
「そうか。せっかくだし、部屋にある家族チェキの横に飾っとくぜ」
それはかなり恥ずかしい。
でも助けて貰った手前、「やめてください!」とは言えない。レツさんの顔に嫌がらせの意味が欠片もなく、それどころか晴れやかな笑みが浮かんでいれば尚更だ。
レツさんが帰っていった後、オトくんが俺に向かって丁寧にお辞儀をした。
「シュウ様、先ほどは助けてくださってありがとうございました」
言葉の意味を反芻し、慌てて首を振る。
「いや、俺は何もしてないよ。レツさんが仲裁してくれなかったらどうなってたか」
「いいえ。どうしたらいいか分からなくて怖いときに、シュウ様が当然みたいに声を掛けてくださって、ボクはすごく……嬉しかったですから」
「オトくん……」
それなら良かった。少しでも力になれたなら。
――が、ゆっくり顔を上げたオトくんの顔には凄みのある笑顔が貼りついていた。こ、怖い。
「ボクの忠告を無視して、片手剣からすぐ短剣に乗り換えたのは正直まだ許してないですけど」
「あ、やっぱり?」
その件を報告した後、しばらく喋ってもらえなかったのでそうかなと思っていた。そうですよね。
「でも、ありがとうございます。ではボクは、テーブルの片づけに戻りますね。
もうすぐアルバイト時間も終わりますから、注文があるまで休んでもらって大丈夫ですよ」
オトくんは繰り返しお礼を口にしつつ、また業務に戻っていった。
「あのぉ、そこの執事さぁん」
「はい?」
教育係の言葉通りにちょっとだけ休もうとしたら、さっそく声を掛けられてしまった。
俺を呼び止めたのは店の奥側、隅のテーブルについた客だ。
どことなく先ほどの変態男と語尾の感じが似ていたので少し警戒する。
その人物の外見はといえば、サングラスとマスク、それに帽子で顔を覆い隠し、裾の長い黒い服で肌もほとんどが隠れてしまっている。
これでは素顔どころか性別も分からない。が、それでも滲み出る何となくの雰囲気や、所々の整った身体のラインを見る限り、かなり綺麗な人なんだろうということは自ずと察しがついた。
夕方直前の微妙な時間帯だが、食事の注文だろうか。
しかし俺が「何でしょうか」と話しかける前に、その客は再度、高くも低くもない声で話しかけてくる。
「ボクとチェキ撮ってもらってもいいかなぁ?」
その申し出は意外だった。
他の女性客からの注文は、エンビさんやオトくんとのツーショットを頼むものが多かった。
でもこの人は今日会ったばかりの会話も交わしていない俺と、自分とのツーショットを所望だという。
よっぽど俺のことを気に入ってくれたのか。さすがにその理由を本人に訊くわけにはいかないが。
「あ、はい。五百コールです」
「はぁい」
戸惑いつつ値段を伝えると、彼(彼女?)は俺の手に光る五百コールを載せた。
そこにオトくんがてってと寄ってくる。チェキの撮影員としてだ。
「わぁ、すごい」
撮影会を終え、羊皮紙を受け取った客の声には喜びが滲んでいた。
なんだろう、どこかで聞いたことがあるような声なのだが……うーん。気のせいかな、やっぱり。
それと、撮影の際にもこの人は重装備の一つも取ろうとはしなかった。
もしかしたら、顔に火傷を負っているとかそういう込み入った理由があるのかもしれない。そう思ったのだろう、オトくんも特に何も言うことなく撮影を終えて持ち場に戻っていった。
「ありがとぉ~家宝にするねぇ~」
「あはは……そんな大袈裟な」
「あとぉ、握手会の予定はあるのぉ? あるなら整理券の確保もしておきたいんだけど」
「い、いえすみません。そういう予定は特に」
「そっかぁ……残念……」
こんなに喜んでもらえるなら、まぁ、悪くはないかもしれない。
ちょっとした事件もあったりはしたが、総じてそれなりに楽しいアルバイトだった。俺はそんな風に今日一日を締め括ることにした。
――のだが、最後にプチハプニングも待ち構えていた。
「兄さま……」
「ゆ、ユキノ!」
アルバイトを終える直前、ちょうど気を抜いていたときに、ユキノが突然ギルドに姿を現したのだ。
何だろう、一日中着ていたので慣れたと思ったのに、この格好を身内に見られたとなると気恥ずかしい気持ちになる。
ユキノは手にしていた荷物も取りこぼしてしまい、しかしそれに気づくこともなく呆然と俺の姿を見つめている。
どうしたんだろう。コスプレ気分かよと呆れられたんだろうか。
そわそわする俺に向かって、ユキノは聞き取るのが困難なほど震える声で囁いた。
「……執事服は、きっと」
「……き、きっと?」
なんだろう。次の言葉が予想できなさすぎる。
この妹に限ってはいつものことなんだけど。
「兄さまに……着てもらうために生まれた服装なんですね……っ!」
…………うーん、相変わらず何言ってるんだろうこの妹。
ユキノはほろほろと大粒の涙を零し、そのままワッと顔を覆ってしゃがみ込んでしまった。
美少女がやって来るなり急に泣き出してしまったので、ギルドはそれだけでちょっとした騒ぎに陥っている。何だろう、何故か俺が泣かせたみたいな流れになってるぞ。
それはさすがに持ち上げすぎですよユキノさん、と俺は泣く彼女を懸命に慰めたのであった。




