62.空からの襲撃者
ネムノキのスキルの実証実験も問題なく終えた直後。
錨を上げ、客船は王都に向かって出発した。
最初の一日は何事もなく過ぎていった。
予想外にユキノがひどく酔ってしまったのでしばらく介抱に追われたが、症状がマシになってからはコナツと共に船内を体験したり、デッキから鳥に餌を投げてやったりした。
日本でいう、遊覧船でのエサやり体験に似たようなものだろうか。クルーから買ったパンの切れ端を空中に思いきり投げると、大小様々な鳥たちがそれを必死に追う。
ときには、見事に空中でキャッチしてみせる鳥も居て、俺もわりと歓声を上げてしまったと思う。コナツもかなり楽しかったようで、その日はすぐに寝入ってしまっていた。
そして今日はクルーズ二日目。
明日の午前中には王都フィアトムに到着予定だ。
朝一番、コナツが「かくれんぼする!」とハルトラを連れて客室を飛び出していき、調子をだいぶ取り戻したユキノがそれを追っていってしまった。
部屋に置いて行かれた俺はどうしようか迷ったのだが、結局海の上ではやることも特にない。鍛治や装飾のスキルでも覚えていれば、まだ少しは暇の潰しようもあったかもしれないが。
昼を回ったところで、退屈に疲れた俺はふらふらと部屋を出た。
何人かとすれ違いながらデッキに出てみると、見知った人物がそこに居た。
ネムノキだ。
小さめのキャンバスを前にして簡易的な椅子に座り、一心不乱に絵を描いている。
何の絵だろうか、遠目に見てもよく分からない。深い青色が使われているので、海の絵かと単純に思う。
見回してみると、他にデッキに出ている乗客もちらほら居る。
が、作り物めいた美貌の少年に近づきがたいものを感じているのか、遠巻きに彼の姿を眺めているようだ。
強い海風を受けながら近づいていってみると、
「あ、シュウちゃんだぁ」
俺に気がついたネムノキが振り返り、嬉しそうに笑った。
その右手には筆、左手にはパレットが握られていた。
水彩画を描いているらしい。改めて目をやっても、様々な色の溶けて混ざり合ったその絵が何を描いたものなのか俺にはさっぱりわからなかった。
「こっちに来てからも……絵、描いてるんだな」
「たまにだけどねぇ。日課みたいなものだから」
筆を走らせながら、何気ない口調でネムノキが答える。
俺には芸術を解する心はない。ネムノキの絵の価値も、正直に言って見出せはしない。
それでも、日本に居た頃の習慣を、彼はこの世界でも続けていたという。
精神を安定させるためか、それとも安定していたからこそ続けることができていたのか。
ネムノキの言葉からはそこまで推し量ることはできなかったが、純粋に尊敬の感情を覚えていた。
が、
「シュウちゃんは野球、続けてないの?」
「――――、」
お返しの如く投げかけられた問いに、俺はすぐには答えなかった。
正確には、答えられなかった。驚愕していたからだ。
何故なら、俺が野球をしていたのは小学三年生まで……母が死ぬその日までだったのだから。
それもクラブチームに入るような本格的なものじゃなく、たまに土手で投球の練習をするようなちっぽけなものだったけど。
その後、親の再婚と同時に引っ越しし、木渡中学校に入ってネムノキに出会った。
だから、中学で知り合ったネムノキが――俺が野球をやっていたことなんて知るはずがない。
そのはずなのに、当然のように彼はそれを口にした。
俺は戸惑ったまま、白い後頭部を見下ろす。
考えられるのは一つだけだった。
「ネムノキ、おまえもしかして……俺と、小さい頃に会ったことがあるのか?」
心当たりがないので訊いてみるしかなかったが、ネムノキは苦笑を返してきた。
「ネムノキじゃなくて、ソラだよぉ」
おきまりの文句を口にするその横顔は、なぜか悲しげにさえ見える。
その顔を目にした瞬間……妙に、心臓の音がうるさくなった。
合歓木空。
ネムノキ・ソラ? いや、知らない。知らなかったはずだ。幼い俺に、そんな珍しい名前の知り合いは居ない――。
髪の毛や瞳の色だって、ネムノキは常人とは違う。こんな目立つ存在を簡単に忘れたりするだろうか。
でも……ソラ……ソラ、という名前の誰かを。
確かに俺は知っていた気がする。
早鐘が騒ぎ立てる。思い出せ、と警鐘を鳴らす。
『よくあつの、けもの』
「う……」
「シュウちゃん?」
頭痛がして、思わずその場に膝をつく。
ネムノキが反対に、心配そうに立ち上がった。
脂汗が流れる。握り拳が震える。ぎゅうと閉じた目蓋の裏側で、何かがチカチカ断続的に瞬く。
抑圧の獣……。そうだ、中二の頃、美術の授業で俺を指してネムノキはそう言ったんだっけ。
いや――だけど――違う。
それだけじゃない。
『まるでよくあつの、けものだ。格好いいね』
もっと前に、俺は誰かにそう言われた経験がある。
あの声はもっと幼かった。幼い少年のものだ。
それなのに顔が思い出せない。必死に思い出そうとするのに、鈍く頭が痛んで、その小さなシルエットを霞の中にぼかしていってしまう。
手を伸ばしても届かない。
「俺……おれ、は……?」
まだ母さんが生きていた頃。
やさしい人になりなさい、と母が繰り返し言う。俺の頭を抱きしめて必死に、言い聞かせるように。
それってどんな人だろう。俺は問うた。考えた。わからなかった。
母の力が強くて、痛かったんだ。呼吸がうまくできなくて懸命にもがくのに抜け出せない。
やさしい人になってね、お願いだから、と頭上から涙声が響く。お願いよ――。
頷くことも、身体を動かすこともできない俺に母さんが何度も何度も何度もそう言った。
獣。抑圧された獣。ソラ。
抑圧の獣。それは俺だった。
何に抑圧されていたんだっけ。
誰が、俺を――
「シュウちゃん、危ない!」
視界に影が差す。
押し倒され、俺は思いきり床面を転がった。
そのすぐ上を、何かが通り過ぎる。
黒い影だ。それも、大きい。
見開いた目の先、俺めがけて降ってきたそれは――鳥だった。
正しくは、トンビくらいの大きさをした魔物だ。ギエギエとけたたましく鳴いては、赤い眼を鋭く光らせている。
その数、ざっと数えて三十ほど。船の頭上を覆い尽くすような勢いで、鳥型の魔物が羽ばたいている。
「ごめんごめん、頭打っちゃった?」
「あ、いや……」
俺を押し倒していたネムノキがむくりと起き上がり、手を貸してくれる。
俺は助けを借りて起き上がりながらも、それくらいしか答えられなかった。まだ脳が状況に追いついていないのだ。
俺を狙って低空飛行で仕掛けてきた魔物から、どうやらネムノキが助けてくれたらしい。お礼もまともに言えなかった。
「何かヤバいねぇ、これ」
語彙の伸びた口調には危機感らしきものは全くなかったが、いつもの緩い微笑は表情には一切浮かんでいない。
「ソラ、この状況を切り抜けるレベルの攻撃魔法とか覚えてるか?」
言わずもがなだが、俺の習得している魔法は対集団戦には向かない。
ましてやこちらが圧倒的に不利となる海上ではなおさらだ。
弓の使い方自体はレツさんたちに教わっているが、俺自身は残念ながら飛び道具を持ち合わせていないし。
首を持ち上げ、短剣を構えたままじっと考える。
そうなると偶然ながら一緒に居る冒険者、ネムノキを頼る他はないのだが、
「ううん。ていうかボク、回復支援魔法は得意だけど、他の魔法は全然覚えてないよぉ」
なんて答えが返ってきたので、俺は思わず「マジか」と呟きそうになった。
ユキノと似たタイプだ。そうなると、戦いは基本的に俺が担当するしかない。
でもこの数を相手にして? ちょっと、というかかなり、絶望的な旗色ではある。
「あとは《解放》くらいだねぇ。ま、いま使っても意味ないけど」
「俺にリミテッドスキルを取られた後でも《解放》は覚えたままなのか?」
そんなことを話している場合ではないのだが、好奇心のまま思わず訊いてしまった。
「覚えてるよぉ。リミテッドスキルはない状態だから、ただの《解放》としてしか使えないけどねぇ」
「へぇ……」
知らなかった。てっきり関連する魔法自体も自動で消去されてしまうのかと思っていたのだ。
「……あ、嫌な感じにモブが動いてる」
ネムノキの暴言にツッコむ時間はなかった。
他の乗客がパニック状態になり、デッキの出入り口に殺到していたのだ。
その明らかなるチャンスを魔物は逃さなかった。
『ギエエエエッ』
一斉に耳をつんざく鳴き声を放ちながら、鳥の群れが降下してくる。
その内の三羽が俺をロックオンしているようだ。
「っ!」
さすがに一撃も浴びせられない。避けるだけになってしまう。
「っっりゃ!」
その勇ましい声に反射的に振り向き、俺はぎょっとした。
ネムノキが空から勢いよく降下してきた一羽の鳥を、持ち上げたキャンバスで力任せにブン殴っていたのだ。
あんなに集中して描いてたのに!? と驚くが、本人は汚れた絵のことなどさして気にしていない様子だ。
キャンバスを両手にしたまま、「あれ!」と上を向いてネムノキが叫ぶ。
俺はその目線の先を追い――大きく目を見開いた。
「…………!?」
鳥たちの群れの奥、一際大きな。
超巨大な羽音を響かせながら、赤い巨鳥がその姿を俺たちの前に現しつつあった。




