56.バケモノ
やだ。
やだやだやだ。
もうやだ。全身が痛い。千切れそう。熱い。痛い。熱いよ……何これ。
自分の身体がどうなってるか分からない。まだ目はついてるのかな。
鼻は? 耳は? 私はまだ、ちゃんと私で居るの?
どうしてこんなことになったんだろう。
全部、ちゃんと、言われた通りにやったのに。頑張ったのに。
くるみちゃんはあの洞窟でアッサリと捕まっちゃった。大石翼と、児玉徹平もそう。私はあいつらが捕まってる間に必死に逃げて生き延びた。
くるみちゃんは馬鹿で間抜け。それにオオイシもコダマも、私の体型のことを馬鹿にしてた。
あんな奴ら、真っ先に捕まって当然だよね。今頃は、お城で拷問でも受けてるのかな?
だとしたらちょっと笑える。とっとと死んじゃえ。
でも、私はあいつらみたいな不出来な人間とは違う。
私のリミテッドスキルは、だって優秀だった。
あらゆる魔法に毒特性を付与できるんだ。"合成毒塊"っていう能力。
能力名も何だか乙女チックな響きでかわいい。勉強は苦手で、意味はよく知らないけど。
そのおかげであのいじめられっこ兄妹の妹だって、射抜いて苦しめてやった。
でも、私の肉体は日に日に姿を変えていってしまった。
足にあった血蝶病の痣が、どんどん大きくなっていって……だんだんと、手足から、おぞましいバケモノの姿に変わり始めていった。
毎日、気が狂いそうだった。もう平静を保ってはいられなかった。
だからあの人の提案した通り、病気を治すっていう神父を攫ったりもしたし。
それでも悪い病気が治らないから、あの人の言う通りに船の中で待ち伏せして、全部の元凶のナルミシュウがノコノコやって来るのを待ち構えてた。
そうだよ。
私は何も悪いことをしていないのに、それなのに……。
『ひゅー、ひゅー、ひゅー、……ふぐっ』
息が苦しい。
手足がもつれる。ばたつく。十五本もあるからだ……。気持ち悪いな……。
時が経つごとに増していく痛みに耐えられなくなって、次第に意識が薄れていく。
もうたぶん、進めてもいない。足がうまく動かせないんだ。ここから進めない。
ああ――。
悪魔の足音が近づいてくる。
+ + +
俺とエリィは、ハルトラの広い背中にしがみついて走っていた。
ハルトラの感覚は敏感だ。魔物を追う騎士というよりは、先ほどまで交戦していた魔物の気配を察知し、追いかけている。
港の方とは異なり町中は人払いが完全には済んでない状況だ。
そのせいで、通りに入ると俺たちを目にして(正しくはハルトラを)驚く人も何人か居たが、大抵は子どもたちが「大きい猫だ!」と指差すに留まった。ハルトラの外見がかわいらしいのが幸いしたようだ。
俺の後ろに跨がるエリィはといえば、初めて魔物に乗ったらしく、ぎゅうと俺にしがみついたまま先ほどから何も言わない。スピードが速いので怖がっているのだろうか。
強いて言うなら最も自己主張が激しいのは、先ほどから俺の背中に当たる大きく柔らかな感触……なのだが、その件について呑気に考えるような状況でもないので、意識とは切り離すことにしていた。うん。
「……大丈夫?」
「え?」
「怖い顔、してるよ」
何てことを思っていたら、心配そうに眉を寄せているのは俺ではなくエリィのほうだった。
思わず片手で頬を掻く。俺よりもよほど、彼女の方が落ち着いているかもしれない。
「さっきの……魔物なんだけどさ」
「うん」
「俺の知り合いなんだ」
「え……」
だからだろうか。
そんなことをエリィに話そうと思ったのは。
「知り合い、って……魔物と?」
「正確には、あの魔物はもともと人間で――血蝶病を発症して、魔物に成り果てたんだと思う」
「血蝶病……そっか、騎士様と話してたのは……」
合点がいったという風にエリィが頷く。
「シュウくんは、それでこの町に来たんだ」
彼女は何もかもを察した様子だった。
「お父さんの事件を……調べに来たわけじゃ、なかったんだね」
「…………ごめん」
「謝らないで。謝るようなことじゃ、ない。……でもひとつだけ聞かせて」
エリィは少しの間黙ってから、固い声で問うてきた。
「シュウくんが、血蝶病のひとを追うのは、その人を――助けるため?」
「違う」
俺は今の今までエリィを騙してきた。
家族を心配する彼女の気持ちを利用して、連れ回し、危険な戦闘にまで彼女の力を借りた。
そんな相手を今さら、聞こえの良い嘘や偽りで欺こうとは思えなかったのだ。
「俺は、あいつを殺すために来たんだ」
「……そう」
腰に回された両腕の力が、少しだけ強くなる。
それきり、風を受けるだけで、しばらく無言の時間が続いた。
「ンミャッ」
しばらく経ってからだ。
甲高く鳴いたハルトラの声に、俺とエリィは顔を大きく上げた。
ふさふさの猫毛の向こう側に、立ち尽くす騎士二人の背中が見えてくる。
辿り着いたのはシュトルの町外れだ。人気は全くといっていいほど無い。
石畳の民家が二つ並ぶ、その間のごくごく小さな通路とも呼べない空間の前に二人は立っていた。
そもそも行き止まりなのでかなり目につきにくい。こんなところにタケシタは身を隠しているのか?
「お、ナルミ」
俺に気づいた騎士の一人が振り返る。
俺はエリィがハルトラから降りるのを手伝ってから、彼らの所に駆け寄った。
「もう虫の息なんだ」
当初、俺は彼が何を言っているのか理解し損ねた。
「あ……」
しかし通路奥をおずおずと覗いたエリィがびくりと肩を震わせたので、自ずとそれで答えは知れる。
よく目を凝らさないと見えないほど暗くジメジメとした空間の中。
ここで食事をしていたのか、菓子の包み紙や果物のヘタなどが地面に乱雑に転がっている。
そしてさらに奥――緩慢と煙を立ち上らせながら、時折動いている。
しかしどう見ても再び立ち上がって動くほどの気力がない。
それはタケシタルカ――もとい、死にかけた一匹の魔物の姿だった。
「シュウくん……。わたし、今になって思い出したんだけど」
「うん?」
「わたしが見た、あの長い髪……この、魔物の触手だったのかも、って」
「……ああ」
なるほど。
暗がりだから長髪の人物だ、と勘違いしたということか。
そしてタケシタが触手を使ってガモン神父を運んだなら、あの場に血痕が残っていなかったのにも納得がいく。
あの超密度の触手で運び込めば、負傷した人間の血液さえ一滴も残さずに攫うことができるだろう。
「さっき付近の住民に確認したんだけどな。この家、右は王都旅行中で出払ってて、左は耳の悪いばあさんが一人で住んでるらしい。魔物にとっては都合の良い隠れ家だったってわけだ」
「なるほど……」
それは確かにお誂え向きだ。
それなりの気配や異臭がしても、誰にも気づかれることはなかっただろう。
どこか別の場所に身を隠しているのかと思いきや、存外近くに潜んでいたのだ。
「そうだ――お父さんは……!?」
「危ない!」
エリィが通路の中に身を滑り込ませようとしたので、慌てて食い止める。
いくら死にかけていようとも、相手は血蝶病の魔物だ。何をしてくるか分かったものじゃない。
しかし焦げ臭く、それに磯のような強烈な臭いを放つ魔物は、俺たちの声に気づいてしまったらしい。
千切れた触手の先端がうねりながら、ゆっくりと地を這ってきた。
「ッ!」
俺と、それに後ろの騎士二人が武器を構える。
だが触手の手は通路の先までは届かない。毒を吐く気もないようだった。
『オトウ、サン』
何かが決定的に狂ってしまったような。
野太く、それでいて機械的でもある異様な音声がその場に響き渡り、俺の全身に冷や汗が伝う。
だがエリィは怯まなかった。彼女は気丈にも触手に向き合い、懸命に声を絞り出したのだ。
「そう、よ。私の……お父さんはどこ?」
『………………』
「知ってるんでしょ。早く、帰して!」
『…………アハァ』
十本ほどに減った触手の。
その先端すべてに、不細工な唇が宿り、そのどれもがニヤァと口端をつり上げていやらしく笑った。
『タベチャッタ』
「…………は?」
エリィはどんな顔をして、それを聞いたのか。
後ろに居た俺には見えなかった。
目の前に転がる魔物は、見た故にか、ますます愉悦に唇を歪ませた。
『タベチャッタ、ヨォ。アハァ! アノヒト、イッタカラ。ナオルッテ。シンプクウト、ビョウキヨクナルッテイッタ。デモナオラナクテ……ユルセナイ……コロス……』
「…………嘘、でしょ」
『ワタシウソイワナイモォン! アタマカラタベタカラ、ノコッタノ……ジュウジカダェケ、モラッチャッタ。ンヒュフ!』
けたけたと醜くバケモノが笑う。
人間の行為じゃなかった。少なくとも、俺は目の前で笑い続けるそれを、かつてのクラスメイトとはとても思えなかった。
その残虐で汚らしい声も、もう、聞くに堪えない。
エリィにこんなものを聞かせておくことはできなかった。
「……エリィ、下がってくれ。俺が――」
くるり、と彼女が右手の人差し指を回す。
銀色の指輪が変質し――気がつけば、透明な水で形作られた銃が、その手に握られていた。
魔法銃だ。
エリィは無言のまま、その引き金に指を置いた。
「…………水よ」
始まりは、恐ろしいほど静かな詠唱だった。
そして音もなく引き金が引かれる。
「切り裂け、《氷刃》」
『ンッヒュ――、……フ?』
氷の刃がずらりと出現した。
それらは一斉に触手の元に飛ぶと、その触手一本一本をバラバラになるまで根こそぎ切り刻んだ。
もちろん本体も含めて、だ。
人間だったはずの、既に原型を留めていないタコのような生き物の頭部が、顔面が、手足と共に裂かれていく。
ゾッとするほど真っ赤な鮮血が噴き上げ、通路を染め上げた。
『ナァニコレェ…………?』
タケシタの――その魔物の最期の言葉は、それだった。
それきり、触手の魔物は動かなくなる。あとに残ったのは夥しい血の海だけだった。
騎士の二人がその場を無言で離れる。おそらくレツさんへの報告に向かったのだろう。
俺とエリィ、それにハルトラはその場に残された。
誰も、何も言わない。身動きひとつさえも。
やがて、小さくぽつりと、
「……お父さん、コイツに喰われて死んだんだ。こんな、ヤツに」
一粒。
エリィの片目から、涙が零れ落ちる。
きれいな雫は地面に吸い込まれる。そこにさらに、もう一粒が降っていく。
黒い点々は地面に散っては消えていった。次いで魔法銃さえも力なく地面に落としてしまう。
エリィはそれらには目をやることもなく、しゃくり上げながら懸命に言い募る。
「いつも、町の人のこと考えて……誤解されることも、あったけど、……みんなの幸せを願って……がんばってた、人だったの」
「うん」
「だから……わたし……お父さんに」
生きててほしかった。
それは、もう、言葉の形を結ぶことさえできなかった。
小さな身体にしがみつかれる。振りほどくことはしなかった。
するとエリィは数瞬も経たないうちに声を上げて泣き始めた。
俺はただ、震える小さな彼女を、そのまま泣かせることしかできなかった。




