54.新たなる力
本当は俺も、きっとユキノだって理解している。
この世界で出会った、猫の姿をした魔物は――俺たちが出会った、ハルトラそのものではない。
それどころか、何の縁故もない。ただ不思議なほどに外見がよく似通っているだけで、そこに何か意味を見出したり、同じ名前をつけるのだって、単なるエゴに過ぎないのだ。
ハルトラは元の世界で、残虐に頭を割られて死んだのだ。
苦しんで、のたうち回って、何故自分がこんな目に遭わされるかもわからないままあの猫は死んでしまった。その事実はいつまでも変わらない。
それでも……それだからこそ、というべきか。
次こそは、失いたくない。
ただ共に在りたい。
その思いさえも、たぶん、俺たちは同じだったのだ。
「光よ――――彼の者らを、どうか悪しき者から守りたまえ」
初めて耳にした詠唱の、その意味を正しく理解できたのは、その場では俺だけだっただろう。
ユキノの所有するリミテッドスキル"兄超偏愛" は、並みの術者とは一線を画す圧倒的な効果を発揮する代わりに、俺のみを回復支援するという大きすぎる弊害を持つ。
でも、この詠唱は……違う。
ユキノの唇は、確かに「彼の者らを」と言葉を紡いだ。
つまりこの術の対象は、俺だけではない。
彼女は同時に、俺が覆い被さっているハルトラを……
「《保護陣》!」
俺たちの大切な家族を、守ろうとしたのだ!
「…………っ」
俺は毒の雨にも怯まず、目を見開いて頭上を見上げた。
突如として現れたのは、無色透明の大きな楕円型のドームだった。
俺を中心に広がったドーム状の魔法は、容赦なく降り注ぐ毒の雨粒から俺たちを守る盾となる。
その効果は凄まじかった。あれほどまでに俺たちを苦しめた毒の一切が、この空間には侵入を許されないのだ。
ユキノの守りは恐ろしく強靱だった。その魔法はまるで、彼女の俺たちを守るという意志が直接、盾となって邪悪を防いだかのような神聖さに満ちていた。
数十秒の猛攻を凌ぎ。
ようやく《毒雨》が収まった後、ユキノの作ってくれた《保護陣》も役目を終え空中に霧散した。
俺は船の上から地上を見た。
ユキノはふらついたところを慌ててエリィに支えてもらっている。
今は感謝の言葉を伝える時間はない。ユキノ自身も望むどころではないだろう。
俺はユキノたちの隣にいるコナツに向かって声を張り上げた。
「コナツ! ハルトラに回復魔法を!」
「まかせて! ひかりよ、ちょっといやせ。《えーど》っ」
すぐに応えたコナツの手元に淡い光が宿る。
彼女の回復魔法はかなり距離が開いていても問題ないらしく、その癒しの力はハルトラへときらきら降り注いだ。
「ハルトラ、行けるか?」
「クル……」
ハルトラはまだ少し違和感のある様子で手指で顔をごしごしと触っていたが、俺が問うと返事をするように喉を鳴らした。
俺はハルトラの背を撫で、そうしながら再び地上を見下ろした。
「レツさん、お願いがあります!」
「何だ!」
「ありったけ――最大火力の炎魔法を、この樽にぶち込んでもらえませんか!」
「この期に及んで何言っちゃってんのかなキミは!?」
現場監督らしきバンダナ男が白目を剥いている。
しかしここは残念だが譲れない。
「中途半端な魔法じゃ、触手に阻まれて打ち消されます! これを突破できるとしたらあなたの魔法だッ!」
俺は無我夢中で叫んだ。
それに、だ。これは予想だが、魔物が巣喰う樽を壊したところで、きっと相手はまた近くの樽に移動するだろう。魔物にとっては幸いにも、まだ船内にいくつも樽は転がっているのだ。
それなら、とにかく相手の身体を引きずり出して、他の場所に移動する前に一撃で終わらせるしかない。
そうするためには実働部隊である俺やハルトラではなく、船外から支援してくれる仲間の火力ある攻撃が必要だった。
「……熱いこと言ってくれるじゃねぇか」
俺の言葉に、レツさんはにやりと口角を上げて笑う。
恐ろしいほど迫力があり、同時に頼りがいのある笑みだった。
「いいぜ。任された! お前は最後の一撃に集中しろ!」
「はいッ。それと――ユキノ!」
続けて俺は言い放つ。レツさんではなく、まだエリィに支えてもらったままのユキノに。
「レツさんが攻撃を終えた後、さっきの魔法をもう一度頼む!」
頼めるか、とは言わなかった。
ユキノの精神力は限界に近いのだろう。無理もない。この局面に至るまでに、バフや光魔法を何度も使ってくれていたのだ。
それでも彼女は気丈に顔を上げた。
ここからでも視認できるほどに。美しい顔に幾筋もの汗を垂らしながら、それでも妹は微笑んでみせた。
「はい、兄さま!」
ユキノがそう答えたなら、あとは任せるだけだ。
俺たちは数秒間だけ目線を交わし、それからお互いの仕事に移る。
ハルトラに飛び乗り、低く短剣を構える。
ここからは集中を絶やしてはいけない。一撃を確実に決めるためにも、絶対にタイミングは外せないのだ。
レツさんが、長身の彼の身長を優に超えるほどの槍を上下に振り回し、それから鋭く船を――転がる樽を切っ先で指し示す。
そう、近衛騎士という立場故か、城で見かけるレツさんは必ず剣を帯刀しているが、彼がより得意とするのはこの長大な槍だ。
しかし今はその槍が繰り出す華麗な捌きは目にはできない。
レツさんは槍の刃先を次に、自分の手元まで引き寄せると、その指先を自分自身で切り裂いたのだ。
「……!」
俺は一瞬、動揺した。その唐突とも取れる自傷行為が何のためか理解しかねたからだ。
指先から垂れた赤い血液が、地面へとぽたぽた垂れる。
そしてそれが呼び水となり変化は訪れた。
その足元すべてを覆い尽くすように、赤色の魔方陣が現れたのだ。
レツさんは目蓋を閉じると、口を開いた。
「炎の精霊よ……我、レツ・フォードが命じる。熱し久遠の裁きをこの地に顕現させよ。燃え滾る煉獄の番人、今ここに汝を望む!」
離れた位置に立つ俺さえも、力強い詠唱に喉が焼けるような熱さを覚える。
上級魔法どころではない。レツさんが放とうとしているのは、炎魔法の中でも最上級と呼ぶに相応しい至極にして究極の一手だ。ひりひりと焼けつくような感覚を訴える肌が、それを理解している。
しかしてレツさんは、大きく目を見開いた。
「来い、《火炎精霊》――ッッ」
『グォオオオオ――――――ッッッ!!!』
レツさんの言葉に呼応する形で。
まさに煉獄――時空の裂け目から現れた、全身を業火で燃やす巨人が、天高く咆哮する。
その凄まじい声に、大地が震える。誰も彼も、まともに立ってはいられなくなる。
そう――召喚者たる、レツさんを覗いては。
「燃やせッ!」
レツさんが槍の先を振り下ろす。
その動きを完璧な形で辿るようにして、巨人の片手が降ろされた。
『――――ッッ!』
例えるなら炎の波。
船ごと灰にするかのような苛烈な炎の軍が出現し、触手たちを縦横無尽に焼き払う。
地獄の業火に焼き尽くされた触手たちは苦しみ悶えるが逃れられず、そのまま消し炭となって散りゆく。
逃げようがなかったのは触手の根が埋まっているのだろう樽も同様だ。
為す術なく破壊された樽の内側から、何かが洩れ出す。それを正確に視認する前に、
「《保護陣》!」
そのタイミングで詠唱を終えたユキノからも魔法が飛んでくる。
俺を、それに俺を中心として確実にハルトラをも包む形で見えないシールドが展開される。
先ほど毒の雨が降る中、ただ《保護陣》に守られていたわけではない。俺なりにこの魔法の分析は済ませ、ひとつの結論に達していたのだ。
ユキノの新たな魔法――《保護陣》は、以前は俺の《分析眼》を弾いてみせたエンビさんの防御魔法でもある。
彼はあのとき、この魔法をデバフや解析魔法を防ぐものと言っていたが、正しくはそれ以外にも物理攻撃を防ぐ効果もあったということになる。
そこから導き出される答えは一つ。
まったく躊躇はなかった。
「突っ込め、ハルトラ!」
「グルアッ」
俺の指示を聞いたハルトラは、果敢にも今なお燃えさかる炎に向かって一直線に突進する。
「えっ……!? シュウくん?!」
見守るエリィがショックを受けたように口を覆う。
しかし俺も、何も自暴自棄になってこんな指示をしたわけではない。
「イフリートの炎を……通り抜けてるのか」
そう。レツさんの言う通り……俺たちは無傷で炎を通過している。
つまり《保護陣》は、移動式の防御魔法なのだ。
俺とハルトラをまとめて庇ったまま、透明なシールドは展開し続ける。
ハルトラはそのまま、炎に焼ける船内を突っ切る。触手たちが焼かれるのを尻目にして。
「ウ、ウ、ウ……」
そして炎に焼かれた、その姿。
住み処としていた樽を壊されたことで、その中身が明らかに姿を現していた。
低く呻きながら、何か、人間の形をしたような不可解な生き物が船の隅で蠢いている。
その身体からチューブのように幾本も伸びた触手がうねうねと、まだ弱々しい動きだが再び動き始めている。一秒たりとも猶予はない。
チャンスは一度きりだ。
レツさんに、ユキノ。それにハルトラが作り出してくれた絶好のチャンスだ。逃すわけにはいかない。
「おにーちゃん、いっけぇ――――ッ!」
攻撃の瞬間、俺はハルトラから飛び降りる。
そして空中にあるまま――ずるずると動く闇の中心を狙って、短剣を振り下ろした。
「《略奪》ッ!!」
一閃。
俺の攻撃は、確かにソレを切り裂いた。




