51.黒い触手
――誰だろうこの人。
俺は今まで異世界で出会ってきた人々の顔を一瞬のうちに頭の中に巡らせたが、……はて、特に該当者はいない。
やはり見ず知らずのおじさんである。
しかしこの人、何故船の中に居たのだろう。しかも樽の中に。
しかしぶつくさ文句を言いつつ船内であぐらを掻いたおじさんに、一番始めに話しかけたのは俺にとって意外な人物だった。
「あれ、おじさんじゃないですか」
「ありゃりゃ、ユキノちゃん。ここで会ったが数日ぶりじゃない」
あれ。ユキノ知り合いなの?
と、口にしたわけではなかったが察したのだろう、ユキノは俺の方を見て口元を和ませた。
「兄さま、以前話した私の特訓の付添人があそこの無精髭のみすぼらしいおじさんなんです」
「相変わらずボロクソ言うなこの子! どーもこんにちはみすぼらしいヒゲおじさんですが!?」
涙目で怒鳴ってる。なんか切ない。
「うわ、やっぱ団長じゃん。最近見ないと思ったらここで何してんだよ」
が、さらに驚くべきことが起こった。
レツさんがそう呟いたと同時、その男性の周囲を囲んでいた騎士たちが一斉に敬礼したのだ。
「団長殿お久しぶりでありますッ! まさかこんなところで樽に入っているとは思わずひっくり返してしまい、大変失礼致しましたッ!」
……ええ?
俺はレツさん、騎士たち、それにおじさんとで視線を彷徨わせる。
「だん……ちょう……?」
わあ、ユキノが多種族の言語を初めて聞いた民族みたいな顔をしている。
俺はレツさんにそろそろと問うた。
「レツさん。もしかしてあの人、近衛騎士団の……?」
「ああ、そうそう。近衛騎士団団長のホレイ・アルスター。俺たちを束ねるトップだ」
レツさんは何気なく頷いた。
そうか、本当にあの、樽に入ってた人が――
「ホンットにおまえら失礼だしスゲー馬鹿。団長がわざわざ忍び込んでる樽をね、引っ掴んで上下逆さまにするとかサイアクの所行だからな。お詫びで全員揃って切腹しろ。そして海の藻屑となれ」
「イヤであります! それにこれは副団長殿の指示……我々はそれに従ったに過ぎませんッ」
「待て待て、何気にオレを売るな」
「じゃーレツの腹踊りでいいや。オレはヤローの腹なんざ見ないけど」
「せめて見とけ! おまえが言い出したんだぞ!」
……近衛騎士団の……トップ……なのかな、ほんとに。
若干疑わしくなるくらいの低レベルな言い争いが繰り広げられているのを尻目に、ユキノが言った。
「兄さま。おじさんの登場で場の空気が乱れましたが……魔物の気配は依然として船の中から感じます。まだ予断は許さない状況かと」
俺がその言葉に答える前に、
「――そうそう。マジでそうなんだよ。なのにどうして邪魔してくれっかなぁ?」
一歩間違えれば凍りつくほどの、冷え冷えとした声音が放たれた。
船の上に再度視線を戻せば、レツさんたちとふざけた遣り取りをしていたおじさん――ホレイさんが、俺のことを見つめている。
俺はごくりと息を呑んだ。今のは明らかに、俺に向けて放たれた言葉だ。
それなのに、気迫に押されて舌の根が乾く。言い返すことができない。
その人は剣を構えているわけでも、その場に仁王立ちしているわけでもないのに、だ。
「……団長、オレがシュウの意見を聞いて船内捜索の許可を取りつけたんだ。この行為がアンタの邪魔になったってことなら、それはオレのせいでもある」
固まる俺を庇うように一歩前に出たレツさんが言うものの、ホレイさんは冷たく目を眇めるだけだ。
「そうだなぁ、お前ももちろん邪魔はした。何せ、このまま船が王都に向かって出発進行しとけば、犠牲は船員だけで済んだんだからな」
「それは……どういう意味でしょう」
ユキノが柳眉を顰めて問うと、ほんの少しだけ気配を緩めホレイさんが続ける。
「そのままの意味だよ、ユキノちゃん。おじさんはね、この船に乗り込んだ魔物を海上で退治するつもりだったんだ。……まぁそれも、」
もう遅いけど、と。
彼が呟くのとほぼ同時。
その後ろに立っていた騎士の肩口から、嘘のようにまっすぐ伸びた……一本線の血液が迸った。
「――え?」
彼は自分に何が起こったのか分からないという顔で、呆然と頭を傾ける。
そしてそのままゆっくりと、受け身も取らず倒れた。
「…………?」
何も見えなかったのは、傍目から見ていた俺も同様だった。
そして倒れ伏せた男の背後――まるで、嘲笑うかのように。
何か、黒い塊が蠢いている。
しゅる、じゅると、ゆらめいては浮き、閃く。
てらてらと光る黒い先端が、いくつも、船の内を覆い尽くしていたのだ。
「ひっ……」
エリィが蒼白な顔色で立ち竦む。周りの船員たちも似たような反応だった。
「何だよ、アレ……」
黒い塊の正体は、触手だった。
それは転がった樽を食い破って、外に這い出ているのだ。だからまだ全身が地上に姿を現しているわけではない。
そのはずなのに、圧倒的にでかい。既に、決して狭くない船内を覆い、次々と樽や船内を破壊しては、全体を顕現させるために触手を伸ばし続けている。
あまりにおぞましい。そしてあまりに、暗鬱な光景だった。
知らず青空さえふさぎ込み、空は厚い雲に閉ざされている。
得体の知れない触手はさらに進行していき、やがて剣を手に惑う騎士たちを、標的と見据えたようだったが――
また、信じられない出来事が起こった。
ザシュ、と小気味良い音が鳴ったのを境に、数十本の触手が中途半端に切断され、ぼとりと船に落ちたのだ。
何者かの剣が、目にも止まらぬ速さで、迫る触手の全てを切り裂いたのだ。
そう理解したのは、中腰のその人物が剣を鞘にしまってからようやくだった。
「……やれやれ、全く」
大きく溜息を吐く。
人の目にも写し取れないほどの不可視の剣技を披露して尚、何の面白みもなさそうにその人は呟いた。
「こんな所で無意味に部下を失うわけにもいかん。男を助ける趣味はねーけど」
「だ、団長……っ!」
「猫なで声を出すな、反吐が出るッ。おらとっととソイツ連れてお前ら全員こっから出てけ! ……つーわけでオレ、帰るわ」
倒れた騎士を足蹴にしつつ(ふつうにひどい)ホレイさんはふわあと一つ欠伸を洩らした。
異形を前にして凍りついた空気の中、その人だけはまるで穏やかな午後の昼下がりを送っているような、そんな何の気負いもないただの欠伸だ。
「……え、おじさん帰るんですか?」
「帰りますよお嬢さん。こう見えてもオレ忙しいからね。寂しいなら、別れ際に熱いハグの一つでも」
「結構ですサヨナラ」
「うーん、だんだんとクセになってくる冷たさッ!」
くうッ、とか言いながら身体を捩る姿を見ると、どうにもいろいろ信じがたい気分になるのだが……。
ユキノとの遣り取りを終えたホレイさんは、浮き橋からとっとと飛び降りた。仲良いな、この二人。
「それじゃレツ、後はお前がどうにかしろ。オレはもー知らん、帰って寝る」
「はいはい、分かってますって」
口調ばかりは安く請け負ったレツさんだが、その口調には僅かな緊張が感じ取れる。
たぶんレツさんも、否――レツさんこそ強く感じ取っているのだろう。
目の前の異形は、ただの魔物ではない。そう簡単に倒せるような相手ではないのだ。
騎士たち全員が地上に辿り着いたのを見届けて。
最後に俺の顔を一瞥すると、ホレイさんは宣言通りそのまま背を向けて去って行ってしまった。
俺はその背を何となく追いながら……どうしたものか、と思う。
ホレイさんの言う通り、俺のせいでどうやら隠れていた魔物は出てきてしまったらしい。
こうなった以上は責任を取って対処すべきだろう。しかし、俺にはホレイさんほどの剣の冴えはない……。
考え込んでいると、ぽん、と軽く肩を叩かれた。
「気にすんな、とはオレの立場上言えないが。この事態はお前のせいじゃないぞ、シュウ」
「レツさん……」
「あそこの団長な、一人死んで十人助かるなら万々歳って考え方してんだ。そのお陰で今までオレも生き残ってこれたのかもしれんが……オレはあんまりあの人の考え方は認めてない」
強張った俺の顔を見て、レツさんは口端をつり上げて笑ってくれた。
「だからこの選択が間違ってるとも一切思ってない。お前も胸を張れ。誰の犠牲もなくアレを倒せば、それであいつの想定よりマシな未来に辿り着く」
「…………はい」
レツさんの言葉は、たぶん半分嘘だろう。
レツさんほどの人が、正義に生きるこの人が、それでも離反せず共にいるということは――ホレイさんのやってきたことには、その犠牲を乗り越えるほどの価値があったということだ。
「戦いましょう、レツさん」
「……おう。その言葉を待ってたぜ」
それでもそう言えたのは、たぶん、応えたかったからだ。
俺には、ホレイさんほどの器量はない。俺自身がそれを一番よくわかってる。
でも、だからこそ、今ここでレツさんの信頼に背を向けたくないと思ったのだ。




