42.猫と天使の小さな冒険2
流浪の旅の末に辿り着いたザウハク洞窟のボスとして君臨していた。
しばらくの間は快適だった。あの洞窟に自分を超える猛者は居ない。
ライバルになるレベルの魔物はすぐボコボコにして追い出してやったので、順風満帆な生活を送ることができた。
しかしそんな生活は長くは続かなかった。
ある日のことだ。
装備品すらまともに整えていない、そこらの街を歩くような格好で、ある少年が洞窟に迷い込んできた。
すぐそれに気づいていた。喰われるためにノコノコやって来るとは愚かな冒険者め、と呆れる思いだったのだ。
だが、その選択は間違いだった。ノコノコやって来た化け猫を見て、その少年は歓喜の笑みを浮かべたのだ。
結果的に無敵だったはずの獣は少年に捕獲され、舌べらに隷属印なるものまで刻まれてしまった。
何か、人智を超えた力の一端を持っていた少年――カワムラタカヒロは、何の労苦もなく自分を手に入れた。
獣の心には、主人となってしまった男に対する純粋なる殺意がずっと宿っていた。
しかし主人たる人間の指示に従わないと、舌の上に刻まれた印が熱く燃え上がるようになり、この身を苛んだ。逆らうことはできなかったのだ。
もう一人、同じ年の頃の少年がこの舌に短剣を突き刺し、支配から解放してくれるまでは。
「こなつね。このままだと、こじーんにいれられちゃうの」
こじーん。
……ああ、孤児院か。コナツはどうやら、今後のことをダグに相談していたらしい。
このコナツという少女も、不思議な子だった。
ハルトラと同じように、胸元に隷属印によく似た印が刻まれている。
しかしその跡は掠れたようになっていて、本人によると効力も失われたものらしい。
どんな変遷を経て、彼女は生きてきたのだろうか。それはハルトラも知らないことである。
「孤児院は、やっぱりイヤ?」
「えっとね。よくわかんなくて、こわいんだ」
ふたりの子どもはハルトラの背を撫でながら会話を続けている。
ダグの手つきは繊細で、慈しみが込められている。コナツはわりとぞんざいだ。しかしハルトラもただの猫ではないので、それくらいの扱いは特に気にならない。
「昨日ウチの店に来た、レツさんって騎士、僕のお母さんの弟……つまり、おじさんなんだけど。
あの人、この街の孤児院にずっと寄付を続けてるんだ。戦災孤児も引き取ってもらってるからって」
レツというのは昨日姿を現した、あの赤毛の男だ。
主人はあの男に懐いている様子だった。そんな慈善事業もしていようとは。
「シスターもすごく優しくて良い人だって。たまにそこに引き取られた子とも遊ぶんだけど、みんな明るくて良いやつばっかりだよ」
「そう……なんだ」
ダグは恐らく、コナツを説得しようと思っているわけではない。
ただ、怯えるコナツを少しでも安心させようとしたのだろう。
しかしその話にコナツ本人は反発するのではないか。ちょっとハルトラは不安視していたのだが、コナツの返答には落ち着きがあった。
「おにーちゃんが、こなつになまえをくれたの」
「名前?」
「そう。こなつ、それまであたしはこなつじゃなかった。べつのものだった。でもおにーちゃんが、ひとなつっこいから、こなつだっていってくれた」
シュウがせがまれて名前を与えたとき。
ハルトラの瞳には、コナツがその名を疎んでいるようにも見えた。
でもそれは見間違いだったのかもしれない。ダグに語ってみせるコナツはうれしそうに口元を綻ばせているからだ。
「あんなふうにね。たすけてっていったら、だれかがたすけてくれたのは……はじめてだったの」
コナツの言葉に、ハルトラは思い出していた。
自分も、コナツと同じだ。それまで誰でもなかった。
誰かに名前を呼ばれることも、愛されることもない。
憎まれ、恨まれ、弱肉強食の世界の中で、ただひたすら走り続けていた。
落ちぶれたのだって、負けたから致し方ないことなのだ。ただそれだけだったのに。
『――ハルトラッッ!』
ようやく戻ったあの洞窟で。
久方ぶりに聴いたあの声に、知らない名前に、応じてしまったのは何故だろう。
どうして自分は、あの人間の言葉になら、応えてやってもいいなどと……思ったのだろう?
それはまだ、わからないままだけれど。
でも、あの瞬間から確かに、名のない獣は「ハルトラ」として生きることを許されたのだ。
「でもこのままじゃ、ぱーてぃいれてもらえない。すてられちゃう。どうしよお……」
またコナツは話しているうちに思い出してきたのか、瞳を潤ませてグスグスと泣き出してしまった。
相変わらず泣き虫である。何とか慰めなくては。
そう思ってタシッとハルトラは前足を動かしたのだが。
「……コレあげる」
ダグのほうが素早かった。
服のポケットに入れていたのであろうチェーンを引っ張り出して、コナツの目の前に差し出したのだ。
見上げてみると、顔……は淡々としてるが、耳のあたりが少し赤い。
まあかわいらしい、と思わずこれにはハルトラもにこにこしてしまう。
ついでに明かすと、ハルトラはメス猫である。たぶんシュウもユキノも気づいていないのだが。
「昨日作った、試作品。術の精度をちょっとだけ上げるネックレス」
「わあ、すごくきれい。宝石みたい。……いいの?」
「……うん」
コナツは真っ赤に光る石のネックレスを前に、きらきらと瞳を輝かせている。
ハルトラもようく見てみた。シンプルなデザインだが、大人っぽくておしゃれだ。手作りというなら、このダグという少年のセンスは大したものである。
「ありがとう! かえったらおねーちゃんにわたしてみるね!」
「えっ」
あ。
違う、違うぞソレ。
ソレ絶対、ダグ少年がコナツにあげたくて渡したヤツ――
「……ウン。キット、ヨロコンデクレル……トオモウ」
大変だ。ダグがロボットみたいになっている。
しばらく二人の間でハルトラはおろおろしてしまったが、魔物の声は二人には残念ながら届かない。
ダグは撃沈したままだが、コナツは気づく様子もなく笑顔で見下ろしてきた。
「おねーちゃん、こなつがなかまになるの、これでゆるしてくれるかな?」
「…………クルル」
どうだろうねぇ。何とも言えない。
ユキノは、物に容易くつられるような人間ではないだろう。彼女の行動原理には大体シュウが絡んでいる。
そして、そのシュウが提案したことに対して、ユキノは「嫌です」とはっきり異議申し立てをしていた。
つまり旗色はかなり厳しいということだ。できればこの不思議で愛らしい女の子が、これ以上傷つく展開にだけはならないといいのだが。
「だぐは、これからどこかいくの?」
「ううん。少し道具屋にでも寄ろうかなって思ってたけど」
「こなつとはるとらもついてっていい?」
「別にいいよ。面白くもないと思うけど」
「ついてく!」
考え事をする獣を抱き上げて、コナツが颯爽と歩き出す。
小さな腕に抱きかかえられながら、ようやく路地を出たときだ。
「わっ」
コナツがびくりと肩を震わせた。ハルトラもつられて驚いた。
何かが爆発するような凄まじい音。
それに頭上を通り過ぎる、幾筋もの光の波。
思わず呆然と魅入ってしまった。何だろう、これは。
「なあに、今の」
「びっくりした。催しでもあったかしら?」
「きれいな花火だったわねえ」
街の人々もかなりざわついている。
耳を澄ましてきいてみると、どうやら町外れで、閃光弾のようなものが炸裂したとのことだ。
コナツに関しては、「花火」という単語が耳に残ったらしい。
「あれ、はなびっていうの? こなつ、はじめてみた」
「いや、でも今日はお祭りも何もなかったと思うけど。あの方角……ライフィフ草原のほうかな」
ダグも首を傾げている。コナツはすぐその言葉に飛びついた。
「だぐ! みにいってみようよ!」
「え。……まぁいいけど」
どうにも女の子に振り回される星の下に生まれてきているようだ。
ダグはコナツに手を引っ張られ、渋々といった体で歩き出した。抱きかかえられたハルトラはやれやれと思うだけである。
「あそこ。南門の先に、ライフィフ草原が広がってる。いつもお父さんと一緒に素材を集めに行くんだ」
「へぇー、そうげん」
南門の警備の兵士も少し騒いでいたが、特に通行止めにされているわけではないようだ。
呼び止められることもなく、二人と一匹は門をくぐって草原まで出てきてしまった。
そこまで来ると、コナツはつんつんとハルトラの耳をつついてきた。何でしょうか。
「はるとら、おおきくなってよ」
「ミャア」
――さてどうしたものか、とハルトラは思案する。
主たるナルミシュウの口にした「何かあれば」というのは、どう考えても火急の要事があればという意味であろう。
この場合は該当しない。と思う。
コナツは単に歩くのが面倒くさくなってきただけである。ぶーぶー唇を尖らせているのもその証。
「はやくぅ、はるとらってばぁ」
いろいろ、考えて――ハルトラはまぁいいか、という結論に達した。
シュウは城に行くと言っていたし。このへんの魔物なら、一噛みすればぶちのめせるし。
どのみち、巨大化したからといってそう簡単にはバレないだろう。たぶん。
巨大化したハルトラは、小さな子どもふたりを背に乗せて平原を駆けた。
頬に当たる風が心地よい。やはり野を力いっぱい駆ける瞬間が、最も自由を感じられる。
「わーい、はやーい」
「この魔物、いったいどういう……?」
しがみついた二人など軽いものである。
このままどこへなりとも行けそうだった。
本当に、どこにでも行けるのだ。主人の存在がなければ、きっと……。
「あら。何をやっているのコナツ」
おっと。
ハルトラは数メートルかけて走りを停止した。
このまま走って行きたいと思っていたはずなのに、呼び止められたのが特にイヤではなかった。
「それにハルトラ。ダグくんまで?」
草原のど真ん中にひとりで突っ立っていたのはユキノだった。
黒髪をポニーテールにまとめていて爽やかな印象だ。単純に不思議そうな顔をしている。
「…………どーも」
ダグは無愛想にぺこっと頭を下げた。
打ち解けていない相手だからだろうか? それともユキノが絶世の美女だからなのか。理由は不明である。
「ゆきのおねーちゃん! あの、あのね……」
急に目当ての人物が目の前に現れたためか、コナツはかなり動揺している様子だ。
ハルトラの背中から飛び降りたはいいものの、うまく言葉が紡げず、もじもじしている。
ハルトラはがんばれ、と心の中で応援したが、先に発言したのはユキノの方だった。
「コナツ、先ほどはすみませんでした。あなたを追い出すような真似をして」
「えっ……」
なんと。
あのユキノが頭を下げたので、ハルトラは困惑して首を傾げる。
殊勝な顔をしているユキノには、今はコナツに対する敵意の一欠片もないようだった。ただ申し訳なさと罪悪感のようなものがその美貌に浮かんでいるだけだ。
ハルトラたちと離れている間、ユキノの身にも何か起こったのだろうか?
それともシュウが説得したのか……あの鈍感ぽやぽやお気楽気質の主人に限って、それはないと思うけど……。
「う、ううん。こなつは……こなつも……」
「……パーティ加入の件については、私たちだけで決めることでもないでしょう。一度城に戻って、兄さまと合流しませんか?」
「う、うん」
コナツは言われるがまま頷いている。このあたりはユキノが完全に上手だ。
「ダグくんも、ありがとう。コナツと遊んでくれてたの?」
「大したことは、してないので」
すっかり表情をそぎ落としてしまったダグだが、ユキノに礼を言われて少し誇らしげだ。
短い時間だったが、コナツをしっかりとエスコートしてくれたのは事実。ハルトラにとってもダグのアシストはありがたいものである。
「では一緒に戻りましょう。あ、それとコナツ」
「はいっ!」
緊張のあまりか、「はい」なんて返事をしてしまうコナツ。
しかしユキノの次の言葉は、彼女やハルトラが想像していたようなものではなかった。
ユキノは口元に手を当てて、「しー」のポーズを取ったのである。
「……ここで会ったことは、兄さまには秘密、ですよ。勝手に街を出たと知られたら、きっと怒られてしまいますからね」
「……うんっ! おねーちゃんとこなつのひみつ!」
コナツは目を輝かせ、ユキノと同じ「しー」の仕草をした。
ハルトラは欠伸をしながらも思う。
人と相容れぬ獣の自分さえも、この場所を居心地良いと思ってしまってるのだから。
意外にもこのふたりだって、良い方向にいくのかもしれない……なんて、そんなことをだ。




