218.散る命
立ち上がったのはアルだった。
ソラの記憶の中で垣間見た、ちょうど5歳くらいの外見をした幼いユキノだ。
確か本人は自分のことをメイン・ユキノだとか名乗っていたはずだ。メインコンピュータの役割を果たすアル。
彼女はフリルのついた、ゴシックロリータ風の黒く裾の長いドレスを纏っていた。
長く艶めいた黒髪と、陶器のように白い肌が相まって、まるでその姿は精巧に作られた人形のようにも見える。
しかし確かに呼吸をしていて、その青い目は睨むように、俺の前に立つ人物に向けられた。
「トウジョウ・レイト、やめてください」
ルメラが、他の神々たちが興味深そうにアルを見遣る。
アルはそれらの視線は意に介さず、厳しい顔つきのままトウジョウさんに言い放った。
「この場に辿り着いた以上、あとは彼らが――今回の勝利者たちが願いを叶えるのみ。あなたの出る幕はない」
「……もちろん、それはオレにも分かってるさ」
「で、あれば……武器をしまってください。ほら」
「…………」
しかしトウジョウさんは、ルメラに向ける剣を決して下げようとはしなかった。
苛立ったようにアルが口を開き直す。
「あなたも――本当は、分かっているでしょう? ただの人間が神々に勝つ手段はありません。天地がひっくり返っても、それは有り得ないことです。ですから、無謀なことはしないで」
……俺にも理解できた。アルは、トウジョウさんを死なせたくないのだ。
だからこそ必死に、彼を説得しようとしている。トウジョウさんはそれでも首を横に振る。
「もう目的は果たせた。オレにはハルバニアに帰る理由も、資格もない。それならいっそ、一矢報いる方を選ぶね、オレは」
「トウジョウさん、目的って……」
問いかけると、ちら、とトウジョウさんが俺を振り返る。
「ハルバニアの貴族なんぞに留まってまで生き永らえたのは、いつか生まれ変わるかもしれないシュウを見つけてユキノちゃんに会わせるためだった。
そのために、下級貴族でも成り上がれる道を探して、近衛騎士団の団長にまで成り上がって……情報を逃さないよう、冒険者ギルドの執事長の地位まで手に入れた」
それからほんの少し、自嘲気味に笑う。
「予定は狂ったさ。シュウはまた地球に、しかも別人に生まれ変わってたしな……だけど、果たせた。その時点でトウジョウ・レイトはもう、死んだも同然だ」
「……やめてください。無駄死にです、そんなの」
次は俺の隣の、ユキノと融合したばかりのアルが青い顔で首を振る。
メインコンピュータのアルと、端末のアル。彼女たちの意志や思考、記憶は絶え間なく繋がっていて、共有されているという。
だから今この瞬間、俺たちの前に居る2人のアルは、どちらも必死にトウジョウさんを止めようとしているのに……
「いや、違う。アイツから――イマイの手からユキノちゃんを守れなかった時点で、トウジョウ・レイトは死んだ。ここにいるのはただの抜け殻……ホレイショーだけなのさ」
彼はそれでも、飛び出した。
アルの思いが分かっていても俺には止められなかった。トウジョウさんの速度が速すぎたのだ。
近衛騎士団団長であり、冒険者ギルドの執事長でもある彼が実力者であることは言うまでもなかったが――踵をぐっと引き、飛び出した速度はほとんど弾丸じみていた。
俺が知る中では最強クラスだろうレツさんをも、上回っている。トウジョウさんは部屋の隅から中央までもを一瞬で駆け抜け、ルメラの上空へと踊り出していた。
「オレは許さないッ! オレたちを弄んだお前らのことを、ゼッタイに――ッッ!」
「…………」
剣を手に、鬼気迫る表情で告げるトウジョウさんを、真下のルメラは肘掛けに肘をついたまま黙って見上げている。
彼女の顔に鋭く影が差していた。トウジョウさんのシルエットだ。
その、影に隠れる瞬間――ルメラが歯を剥き出して笑うのが、俺の目にも見えた。
ふたりのアルが同時に叫ぶ。
「「――駄目ッ! お父さん!!」」
ほんの一瞬。
トウジョウさんの気迫が揺らいだように見えた。
そのとき、ルメラがほんの僅かに、人差し指を動かした。
瞬間、既に、彼の身体が視界から消失していた。
「…………え?」
いや、正確には――違う。
トウジョウさんの肉体が、内部から膨張するみたいに……一瞬の内に弾けたのだ。
グバァンッ!!! という奇妙な音が部屋の中で炸裂する。
そうして生まれた光景の惨さを、俺は言葉にできなかった。
ルメラをうまく避けるようにして、彼だった血や臓腑が、円状にあたりに散らばったのだ。
ちょうど、円を描いて着席する神々の眼前に降り注ぐような形だった。色のなかった空間に、一気に赤い色が広がった。
ナガレが呻き、震えながら顔を覆った。彼女を持ち上げる黒髪の魔物は、小さな声で『シ……』と、寂しげに呟く。
その声音を掻き消すように、ウワァ、とかキャア、とか数人の悲鳴が上がった。中には椅子ごと、嫌そうに後退りする者も居た。
散らばった死体から広がる生臭い臭いが、離れた位置の俺の鼻を掠める。喉元に何かがぐっと込み上げてくる。それでも無理やり――呑み込んだ。
……あまりに呆気なく、そして残酷に、トウジョウさんは殺されてしまった。
それを目の前で行った張本人だろうルメラは、それなのに涼しい顔をしてこちらを見ている。
眉ひとつも動かしてはいない。人間の形でなくなったトウジョウさんには何の興味もなさそうだった。俺は思わず目を背け、
「……お父さんって」
どちらに聞いた、というわけではなかった。
ただ、どうしても気になってしまったのだ。俺の言葉に答えたのは、神々の席に座るアルの方だった。
彼女の頬には、血の飛んだ跡があった。間違いなくトウジョウさんのものだ。
それを拭うことなく、アルは口を開く。
「……ナルミ・ユキノの、正真正銘、実の父親です。私も、気づいたのは旅の途中でしたが」
「トウジョウさんが……」
「生前、一度も会ったことはありませんでしたよ。でも、彼のユキノへの態度を見ていれば……何か変だなって、察するものはありましたので」
確かに、俺の父親とユキノの母親・サチコさんが再婚してからも、サチコさんやユキノから父親について話が出ることはなかった。
いや――でも一度だけ、酒に酔ったサチコさんが零していた気がする。
「前の旦那が、ユキノに一目会いたいってうるさいの。もう、面倒ったらありゃしない」
だとしたら……彼がアルファ世界にて、木渡中学校の生徒の乗ったバスに巻き込まれたのは、おそらく偶然ではない。
トウジョウさんはあの日、ユキノに会おうとしたのではないか?
サチコさんの目の届かない場所ならば、と考えて……バスを尾行した。そうに違いなかった。
だけど――このことをユキノは……ベータ世界のユキノは、知っていたのだろうか。
彼はもともと、ホレイショーだと名乗って、スライム相手に奮闘していたユキノの前に姿を現したらしい。
ホレイショー。それは『ハムレット』に登場する架空の人物で、ハムレットの親友の名でもある。
フィアトム城で相対したときには、ユキノはカンロジの味方として現れたトウジョウさんに向かって言葉を投げかけていた。
「あなたにとってのハムレットは、カンロジさんなんですか?」――と。
今まで、深く考えてはいなかった。でも今になって考えれば、自然とひとつの考えが浮かぶ。
トウジョウさんにとってのハムレットが、カンロジだと仮定するとして。
ハムレットの恋人であるオフィーリアは、狂人を演ずるハムレットに惑い、苦しみ追い詰められていく。最終的に彼女は命まで落としてしまった。立場的には、ユキノ――アルだと当て嵌められる。
ハムレットの叔父でありながらも、彼を監視し、暗殺を企てるようになるクローディアスは……イマイだろうか。
それならトウジョウさんは、彼が名乗る通りのホレイショーでは断じて無い。
「……ポローニアス」
そうだ。彼は、ポローニアスだ。オフィーリアの父親。
それを悟られないためにわざとホレイショーを名乗り、ユキノの目を遠ざけようとした。
しかしそうだとしたら、ユキノはやはり……フィアトム城で既に、気づいていたからこそトウジョウさんに、言葉を向けたのかもしれない。『ハムレット』の物語の最も大きな枠組みは、他でもない「復讐」なのだから。
それなら、余計に……彼は、トウジョウさんは、生きているべきだった。
でも、娘をどれほど悲しませると分かっていても、彼は引き下がれなかったのだろう。
自分の娘をこんなゲームに参加させ、苦しめた主催者に――その研がれた刃を向けずにはいられなかったのだ。たとえ、負けると分かっていたとしても。
「でも、死んでしまったら――どうしようもないですね」
隣に立つ、アルの言葉だった。
「……そうですね。まったく、無鉄砲な父親です」
こちらは、神々の中で仁王立ちしているアル。
誰よりもショックを受けているだろう人物がハキハキと言葉を放っているので、俺は何だか呆気にとられて隣の横顔を見つめてしまう。
その視線をも受け止めて、アルは苦笑してみせた。柔らかな微笑みだった。
「……どうしようもない、ことです。あの人、ああ見えてわりと頑固親父ですから」
「…………そうか」
無論、割り切れたわけじゃないだろう。
悔しいはずだ。何でもないようにその命を目の前で奪われて、怒っているはずだ。
でもアルは笑うのだ。それならば俺も、目を背けたままではいられなかった。
「さて、願いは何だ? 望みは何だ? 唱えろ、人間」
「……一度、確認だけさせてください」
気を取り直すように訊いてくるルメラに、俺は問うた。
「死んだ人を生き返らせることはできますか?」
ルメラは瞬きした。
すっかり、詰まらなそうな顔だった。
彼女はボリボリと無造作に頭を掻いてから、自分を取り囲む神々の顔を見回す。
「この中に死者を生き返らせることができるお医者様は居るか?」
『………………』
返ってきたのは、ほんの少しのざわめきに彩られた沈黙だ。
だってよ、とばかりにルメラが肩を竦める。
「無理じゃね? それは。もちっと常識的に考えろよ、死者は生き返らねぇだろ、フツー」
予想できていた答えではあった。
だが俺はそこで、さらに詰め寄る。
「でも――あなたは以前、ナルミ・シュウと契約していた」
「…………ああ、アルファ世界とやらのことか」
アルが驚き、俺とルメラとを交互に見遣る。
その視線には応えず、俺はさらに言葉を続ける。
「彼は、「生き返る」スキルを持っていた。それなら、彼と契約したあなたには……死をも覆すような、そんな権能があるんじゃないのか?」




