217.旅の果て
彼が動かなくなってからも。
しばらくアルは、その傍を離れようとはしなかった。
「…………この嘘は、あなたのやさしさですか?」
声音に感情はなかった。押し殺して、俺に悟られないようにしていただけかもしれないけど。
真剣に考えた上で、俺はアルに答える。
「どうだろう。俺には未だにやさしさがどういうものなのか、よく分からない」
涙に濡れた顔を、アルが持ち上げる。
瞳は不思議そうに、俺を見ていた。見返して、頷く。
「ただ……俺じゃない。カンロジにとってアルと、このユキノの言葉は、ひとつも嘘じゃなかったはずだ」
「…………!」
『ギ――、ギシャ……』
カンロジの死体から離れた黒髪の魔物は、ふらふらと歩き出す。
俺はその方向に一瞬、目を向けてから、トウジョウさんとナガレを交互に見た。
「……ナガレの傷は深い。できればここで待って――」
「それは賛成できないな」
しかし提案は、トウジョウさんによって遮られた。
「その様子だと全員、試練は乗り越えたんだろ? あとはこの洞穴をまっすぐ進んでいけば、神々の元に辿り着くんだ。
ただ、その瞬間、この洞穴は文字通り消滅しちまう。そちらのお嬢ちゃんを置いて行くのはまったくオススメできない」
「……そう、なんですね」
俺は歯噛みする。怪我をしたナガレを危険な場に連れて行きたくはないが、それではここで待機してもらうほうがずっと危なかった。
それならもう一度俺が抱える、と言おうとすると、トウジョウさんがそれを見計らってか片手で制してきた。
「両手が塞がってると何かと不便だ。お嬢ちゃんはユキノちゃんに運んでもらおう」
彼が呼んだのは無論、未だぼんやりと座り込んでいるアル……ではなく、
『ンギ?』
軋むような音を立てて振り返った、前と後ろもよくわからない魔物の方だった。
え、それは大丈夫なんだろうか? と疑問を挟む余地もなく、トウジョウさんはすらすらと指示を出す。
「ユキノちゃん、この子を持ち上げて運んでくれるか? 揺らさないよう気をつけてな」
『ギ、シャーッ』
肯定の意味なのか、髪の毛から生えた手足が揺れる。
トウジョウさんに目線で指図され、俺はナガレを一度抱きかかえた。
「えっと……ナガレ」
「うん、わたしは大丈夫。運んでもらえるならありがたいよ」
ナガレ自身も戸惑っているようだが、特に拒絶する様子はない。
俺は頷き、ナガレの軽い身体をそっと、魔物の頭上に向かって差し出した。
『ギギギギ…………』
すると、4本足の髪の毛の塊から、何とさらに4本の手足が飛び出してくる。
驚く俺に構わず、魔物はナガレを受け取ると、その新たな手足の2本で座面を、残った2本で背もたれを作った。
怪我をした足に負担をかけないためか、足先もしっかりと髪の毛の絨毯でカバーしている。
「わあ……」
『ギシャッ、シャッ』
目を丸くするナガレを抱え、少女がきゃっきゃと笑うように無邪気に魔物がそのあたりを跳ね回る。
もともとは敵対していた強力な魔物ではあるが……その光景を見ていると、さすがに肩の力が少し抜けてくる。
「よし、行くぞ」
トウジョウさんと魔物が先陣切って進んでいく。
俺は一度、アルを振り返った。その時には既にアルは涙を拭い立ち上がっていた。
名残惜しそうにカンロジの腕から手を離し、アルが毅然と言う。
「……私たちも行きましょう」
「うん」
並んで、歩き出す。
やはり洞穴は、どこまでも暗く、出口のないように思えた。
だが確信を持って歩くトウジョウさんの背中を見ていると、何故だかすぐ神々の元に辿り着けるようなそんな気がしてくる。
そしてその予感は、数秒後に現実となった。
+ + +
突如として視界に光が射した。
手で庇を作り、目を庇う。それから俺は何とか両目を開けた。
――立っていたのは、外装から置かれた調度品まで何もかもが白い、不思議な部屋だった。
振り返っても、今まで歩いてきたはずの洞穴はどこにも見当たらない。
まるで俺たちは、部屋の隅に突然、どこかから放り込まれたような格好だったのだ。
俺は緊張に息を呑みつつ、部屋の中を見回した。
薄型テレビがあり、ソファがあって。
ダイニングキッチンがあって、LEDライトがあって。
例えるならそれは、金持ちの家のリビングルームのような、そんな部屋だった。
本来ならば地球を思わせるその景色に、別の感情を覚えるべきだったのかもしれない。
だが――心の奥底から、俺はその光景を拒絶していた。
不思議というより、奇妙だったのだ。家具の何もかもが白いとか、そんな些細なことではない。
ここはただ、人間の暮らしを模したまやかしで塗り固められたような、違和感があった。実際その感覚は、誤りではなかったのだろう。
……どこまでも広々としていて、寒々しい。
立っているだけで鳥肌が立つ。箱庭のようだ、とそんな言葉が浮かぶほどに。
そして、そんな空間にぽっかりと開いた中心地で。
子どもが遊ぶフルーツバスケットのように、その人々は、円を描いて着席していた。
「――――ここまで辿り着いたか。おめでとう、勇者候補たち……否、正真正銘の勇者たちよ」
その、本当に中心の場所で、豪華な椅子に座ってこちらを眺めているのは――ラングリュート・ヒ・アドルフォフ。
もちろん、その人物のことはよく覚えている。ハルバニア王国の、第二六代国王だ。
蓄えた白い髭をもったいぶった手つきで撫でつつ、ラングリュート王は俺たちの顔を見回した。
その周りに座っているのは、これも見覚えのある、あの礼拝堂で姿を見せた王の側近たちばかりだ。中にはハルバニア城で見かけた侍従の人たちの姿もある。
「魔王を見事打ち倒し、このハルバニア城に生還した勇者たち。約束通り、そなたらの願いを何でも叶えよう。そして貴族としての特権を――」
「茶番をいつまで続けるつもりだ?」
腰の剣を抜いたのはトウジョウさんだった。
彼はその鋭く光る切っ先を、王の喉元に突きつけるようにしてまっすぐ伸ばす。
「王に向かって無礼な真似を!」
小太りの従者が怒り出した。他の人間たちは、ただジッと、無言でこちらを見つめ続けている。
無機質で、機械的だった。その人たちが何を考えているのかまるで分からない。
俺は思わず喉に迫り上がってきた唾を呑み込んだ。その光景には異様な迫力があり、どこか気圧されるものを感じていたのだ。
「……ロキ。もういいぜ、解け」
しかしラングリュート王が荒い口調で誰かに、何かを命じたかと思えば――少しずつその身体は、塗装が剥がれていくように、髪の毛や皮膚までもが、ぱらぱらと空中に散り始めていた。
ひとりの人間が解体され、別の何かが姿を現す。俺は緊張に身体を強張らせつつ、瞬きも忘れてそれを見た。
「……女神さま」
そうして、王の外壁を破って正体を見せたのは、金髪の幼い女神――ルメラだった。
傲岸不遜に微笑んだ彼女が、真っ白な足を組み、立ち竦む俺たちを一方的に睥睨する。
「よう、久しぶりだなナルミ・シュウ」
「…………」
「まさかお前が勝ち残るとはな。楽しませろとは言ったが期待はしてなかった分、驚いた。にゃはは、よく頑張りましたで賞、でも授けてやろうか」
彼女は何も変わっていなかった。態度も、物言いも、表情も……初めて出会ったときから、ずっと。
どこか懐かしい気もする。命を落とした俺は女神に拾われて、スキルを授けられ、異世界に送り出された。それが全ての始まりだったのだ。
だけど実際は――そもそも、このクラスメイトとのデスゲームを仕組んだのが女神ルメラその人だった。
彼女はクラスメイトの半数である15人を、魔物化に至らせる不治の病・血蝶病に罹患させた。
それからのことは、何も忘れることなどできはしない。
たくさんの争いが起こった。多くの人間が死んだ。いろんな人が苦しんで、涙し、たくさんのものを失った。
最初は30人の人間が居たというのに、今や生き残ったのは、俺と、ユキノと、ナガレ……それに【キ・ルメラ】に残してきたアサクラだけだ。
姿を見せたルメラの周囲には、たくさんの子どもの姿があった。
その中には他の人間の記憶の中で見かけた顔も、知らない顔もあった。それが神々の正体であるのは今さら分かりきったことだ。
そのほとんどは興味深そうに俺たちを眺めている。無邪気な、文字通り子どものような目をして、俺たちを見ているのだ。
「そっかぁ、結局生き残りはこの3人だったかぁ」
「あーっ! もう、予想大外れ! ワイドで買ってたのにぃ!」
「アサクラ・ユウもあとちょっとだったのに……むむ、残念です」
「ほらほら、スカジィちゃんの推しのナルミ・ユキノも生き残ってますよ? すごいですね?」
「あら、本当ね。ふふふ、良かった」
甲高い声を上げて騒ぐ子どもたちを、俺は呆然と見遣る。
人畜無害そうな顔をしておいて、彼ら彼女らが交わす言葉は、どれも受け入れがたいものだった。
分かっていたことではあったが――俺たちの命を賭けたこのゲームの主催側である神々は、心の底から楽しんでいる。
誰が生きて、誰が死ぬのか。競馬の馬券を買うように、競わせ、声援を送り、歓声を上げて過ごしていたのだ。そう思うと、筆舌に尽くし難かった。
こんなものが……俺たちの旅の末路なのだ。
立ち尽くしていると、そんな神々の中で――ひとりだけ立ち上がった人物が居た。




