216.兄さん
記憶の再生は、そこで途切れた。
その後のことは、今さら分かりきったことだった。
ユキノの精神は神々の末席へと加わったが、肉体は魔物化が進行し、魔物へと変化した。
トウジョウさんはハルバニアの貴族の一員として、近衛騎士団団長にまで成り上がった。
ふたりの勝利者はまったく別々の道に進んだが、きっと、思いは同じだったのだ。
もう1度シュウに会いたい。
会って、話をしたい。ただ純粋なそれだけの思いで、それぞれ困難な道を歩み続けてきた……。
「…………そうか」
カンロジが呟く。
その声はもはや、まともに発されてはいなかった。ただ声という輪郭だけを気丈に紡ごうとした、朽ちかけた無残な音の集まりに過ぎなかった。
「僕は……そうか。まるっきり全部、無駄だったか」
「え……?」
俺は当初、カンロジが言った言葉の真意がまるで理解できなかった。
「そうだろ。だって、ユキノを復活させたって……忘れることを祈ったユキノは、この世界のことをなにも憶えてない」
「…………ッ!」
それは――。
否定しようとして、そのための材料が何もないことに気がつく。
カンロジが前世の記憶をすべて持って転生したのは、彼がシュウとして死んだのが、ユキノの願望が叶うより以前だったからだ。
……いや、それでも。何かあるはずだった。カンロジの言葉を否定してやれるやさしい何かは、まだこの世界に転がっているはずだ。
俺は思わずアルの方を向いた。
「だけど、アルは全部憶えてるんだよな。ユキノをベースに神に昇華された君が憶えてるなら――」
「私が《来訪者》としての記憶を所有しているのは、リミテッドスキルを使ったからです」
存外強い口調で俺の言葉を遮り、アルは暗い顔で言い放つ。
「"狂気監獄"のスキル効果は切断と束縛。神に祭り上げられる直前、ユキノは自分の旅の記憶を脳から切り離して、意図的に自分の体内に残しました。そうすることで、自分自身の願望の影響から免れたというわけです。
……あとでそれは、何も知らない私が、自分とよく似た魔物が気になって偶然回収したのです」
初めて聞く話に愕然とする。
だとしたら、そもそもアルが全てを知ったのも紙一重の代物だったのだ。何か一つでも、運が悪い方向に向かっていたなら、アルは今も俺たちを嘲笑う神々のひとりだったのかもしれない……。
「……その記憶の残滓が、このユキノちゃんに宿ってたってことか」
『ギ、シシ……』
トウジョウさんの呟きにも力がなかった。
――ごほ、とカンロジが咳き込む。
口元から大量の血が溢れ、彼女の顔を一気に赤く染め上げた。
それでも俺は、見ていることしかできなかった。必死に介抱するトウジョウさんやユキノの声も、どこか遠くなっていく。
カンロジをひとりきりで死なせたくないと思った。
カンロジがやったことを全て許容することはできなかったが、それでもどこか、共感せずにいられなかったからだ。
だけどそんなのは――余計なお世話、だったのだろうか?
ユキノはシュウのことを嫌っていなかった。
その事実は、喜ばしいものだと思ったのだ。まるで観客席から舞台を眺める、無責任な聴衆のような顔をして。
でも、カンロジはそれを知る前よりもずっと、傷ついている。
――『…………信じられない』
呆然と、そう呟いたのも当然だ。
甘露寺ゆゆに転生してからも、ただ必死に、妹に会い、言葉を交わす日を夢見ていたのに。
共に旅をしたユキノは、たとえ復活したとして、もうこの世界での何もかもを記憶していない。
日本に居た頃のふたりに戻ることさえも、出来ない。皮肉なことに、ユキノが「全部忘れて欲しい」と願った相手である兄は、その全てを憶えてしまっているのだから。
だけど、と尚、足掻こうとした俺の前に、ひとりの少女がその名を呼んだ。
「私」
たった一言だけで。
懇願するような。切願するような。哀願するような。
そんな響きだった。カンロジを見下ろしたまま、アルは顔を歪めて、さらに言い募った。
「お願い、私。……どうか、お願い」
呼びかけに応じるように――ふらり、と立ち上がったのはユキノだった。
「…………ユキノ?」
俺がナガレを抱えたままそう名前を呼ぶと、ユキノは少しだけ微笑んだ。
「兄さま。ひとつだけ、教えていただきたいのです」
ユキノが知りたいことがあるというならば、俺にそれを断る理由はひとつもない。
静かに頷くと、ユキノはまっすぐに俺のことを見つめた。
そうして、潤んだ瞳で言う。
「先ほどもお伝えしましたが。……ユキノは兄さまのことが好きです」
……俺はゆっくりと、ナガレの身体を地面に下ろした。
手を離す直前、掴まっていた小さな腕が一瞬、強張ったように思えたが、やがてそれは離れていった。
トウジョウさんは、「何で今そんな話を?」と思いっきり顔に出して呆気にとられている。
俺は立ち上がると、頷いた。
「……うん」
「ユキノは、ひとりの女として、兄さまのことが愛おしい。
そんなユキノを、今もいちばんだって、兄さまは仰ってくださいましたね」
「…………うん」
「兄さまの好きな人はユキノですか?」
この場面で意味をはき違えるほど。
俺は子どもではなかった。誠意を持って、応えようと決めていた。
それは兄としてというより、ひとりの人間として果たすべき義務だった。
「ちがうよ。……ごめん」
見つめ合っていたユキノが、唇をぐっと噛み締める。
もしかしたら俺はユキノを泣かせてしまうのかもしれない。そう思ったがしかし、ユキノは何かを振り払うように首を振った。
美しい黒髪が、少し遅れて、彼女の動作を追って靡く。ユキノはゆっくりと呼気を吐いて、「……そうですか」と小さな声で言った。
「……お答えをいただきありがとうございます、兄さま」
「ユキノ……」
「それと、ひとつだけお伝えを。……ユキノはこれから少しだけ、ユキノではなくなってしまうかもしれません」
ユキノが目を逸らさなかったから、俺も彼女のことを見つめていた。
「ですがこれは、私自身が決めたことです。決断したことなのです。フラれたからやけっぱちとか、そういうのでもないのです。ですからどうか――お許しください、兄さま」
俺たちはどこか呆然と、その光景を見つめていた。
ふわふわと浮き上がったアルの身体と、ユキノの身体とが、呼応するように黄金色に輝きだしていた。
それはユキノが回復魔法を使用する際の光とは、一線を画したものだった。まばゆく、鮮烈な輝きは、今や空間全体を灼熱の太陽のように照らしている。
「ッ……!」
俺は堪らず目を閉じた。ユキノから目を離したくはなかったが、目蓋を閉じなければ、眼球が焼かれるほどの光量だったのだ。
――光が収まった頃、恐る恐ると目を開けると、そこに立っていたのはユキノではなかった。
外見はほぼ、元のユキノのままなのに。
それでも俺は、そこに居るのがユキノではないのだと確信していた。
瞬きの頻度。視線の温度。唇の角度。両手の組み方。……そのひとつひとつが、俺の見馴れたユキノのものではなかったから。
そしてアルが自分の記憶を流し込んでまで、ユキノにさせたかった二つの決断。
その全容を俺はようやく掴み始めていた。
まず、一つ目の決断。
――『兄さまにとって、自分だけが特別な存在ではないと私が認めること。――です』
――『兄さんにとって、自分以外の特別な存在が居ると私が認めること。とも言えます』
俺が訊くとユキノとアルはそう答えてくれたが、それは決して、正しい回答ではなかったのだ。
何故ならそれは、決断ではない。ユキノ自身の感情の、整理の問題に留まっているからだ。
その先に、アルがユキノに行わせようとした、本当の決断があったのだ。
俺は言った。
「一つ目の決断は、告白。二つ目の決断は、融合」
ユキノと同じ顔をした、恐ろしくなるほど美しく整った容姿の少女は、黙って俺を見つめている。
否定はなかった。つまりそれが答えだ。
告白とはつまり、俺に告白すること。
もともとユキノは、病的なまでに注意深く、俺への恋心を隠匿していた。それはユキノが現在の兄妹としての最適な距離感を守り通そうとしたからだ。
兄が妹を一心に守り、愛を運ぶ。妹はその愛を享受し、監獄の中の兄を抱きしめる。そんな兄妹としての関係を、ユキノは大切に想っていた。
だが、兄にとって、自分以外の特別が存在すると認めた以上……ユキノは、本来するはずのなかった告白を、しなければならなくなった。
自分だけが特別なのであれば告白なんて、そもそも、する必要がないからだ。それが一つ目の決断だった。
そして二つ目。
決断は、アルとの融合だ。
こちらに関しては正確かどうかわからない。何故ならユキノは決意に至った理由を話すことなく、行動に踏み切ったからだ。
自立心の強い彼女が、別の自分と融合をした。それはきっと得ることであると同時に、何かを失うことでもあるのだろう。何にせよ、生半可な決断ではなかったはずだ。
だからこれは俺の想像だったが、きっとユキノは――
「……アル。君の目的は「神々を殺すこと」じゃ、なかったんだな。
君が、ユキノを利用して果たしたかった目的は――ユキノのリミテッドスキルを使って、カンロジを完全なる兄の姿に戻してあげることだった」
「……そうですよ」
ユキノ――否、アルはゆっくりと、首肯する。
カンロジの閉じた目蓋が、僅かに震えた。それを見止めてか、アルは早口で唱える。
「神々のことなんて二の次です。あんなの、ただの建て前です。だって私は――ユキノですよ?」
大きく目を見開いたアルは、泣いてこそいなかったが、俺の目には彼女が泣き叫んでいるように見えた。
倒れ伏すカンロジの身体の上空で、アルは俺の胸倉を掴み上げた。
ナガレが短く悲鳴を上げる。それほどまでにアルの気迫は凄まじかった。鬼気迫っていて、痛々しいほどでもあったのだ。
「鳴海雪姫乃って誰のことだか分かります? 鳴海周の妹ですよ! 私、兄さんの妹なんです!!」
「…………ッ」
ぐ、と息が詰まる。呼吸が苦しい。
でもそれ以上に、触れ合うほど近いアルの方がずっと苦しそうだった。ひどく喘いで、今にも、窒息してしまいそうに思える。
「この人さえ生きていてくれればあとのことなんかどうだっていい! あなたや、あなたの妹のことだって!」
「……ソラのことも、か?」
「ッ! 全部を、承知した上で……! ネムノキくんは、私に協力してくれました!」
ソラの名前を出すと一瞬、アルは硬直したが……そのすぐ後、俺の身体を突き飛ばした。
容赦なく吹っ飛んだ俺は尻餅をつく。「シュウ!」とナガレが足を引きずりながらも俺に近づいてくる。
その間にも、アルはカンロジの顔の横へと膝を下ろしていた。
「兄さん、大丈夫です。このユキノの力があれば、あなたを助けられる」
「…………」
カンロジは反応しなかった。
アルは口元に必死に笑みを形作って、続けた。
「私は、つまらない能力でしたけど――この世界のユキノは、兄を回復する……つまり、元の姿に戻すことだけに特化した力の持ち主でした。だから、兄さんの傷だって治せる。兄さんの身体だって、鳴海周に戻せる」
「…………」
「ご安心を、兄さん。もう少しの辛抱ですから」
にこり、とどうにか微笑んでみせたアルが、唱え始める。
「……聖なる光、神の息吹をここに。八つ裂かれし痛ましき身に慈悲の抱擁を」
「…………」
「彼の者の傷をあまねく癒せ……《半蘇生》」
黄金色の祝福が、傷ついたカンロジの身体へと降り注いでいく。
ナガレに助け起こされながら、俺はただ、その奇跡の光を見つめていた。
空間を照らし出すその光が、消え去ってからも――その場に居る誰も、しばらく動くことができなかった。
「……、……」
アルは作り笑いを浮かべたままだった。
でも、カンロジの顔の前にかざした両手が震えている。音が鳴るほど小刻みに、痙攣していた。
カンロジは――そのままだった。
外見も少女のままだったし、傷のひとつも治ってはいない。
予想できた光景ではあったが、真っ青を通り越し白い顔で茫然自失とするアルの様子は……見ていて、やるせないものだった。
ユキノが呼びかけに応じ、融合の道を選んだのは――決してアルの願いを叶え、カンロジを回復させるためではなかったはずだ。
――私に、兄を諦めさせるため。
そのためだけに、きっとユキノは決断した。
その苦痛を、悲痛を承知した上で、悪者にされるかもしれないと覚悟した上で引き受けてみせたのだ。
……なんで、と、アルの口元は動いたようだった。
さらに彼女は唱える。他の回復魔法を詠唱する。縋るように、口にし続ける。
しかし結果は同じだった。カンロジの身に変化はない。
それを繰り返す内に、アルの細い肩が震え始め、息が途切れ始めた。魔力切れの予兆だった。
俺はゆっくりと背後に回り込んで、アルの肩をぽんと叩いた。
弾かれたように顔を上げたアルの瞳から、いよいよ堪えきれずに涙が零れ出す。
やはり「なんで」と、その唇は声もなく問うていた。俺はそれには答えず、カンロジを見て小さく唱える。
「《分析眼》」
分析されたステータス画面が、眼前に表示される。
その一行目を見た時点で、俺は目を閉じた。思った通りの残酷な結果だったからだ。
でも、だからこそ。
俺は声を張り上げて言った。
「分かるか、シュウ」
もちろんその言葉は、カンロジに向けたものだった。
「傷が治り始めてるだろ。もう少しで、君は全快できる」
アルが信じられないような目で俺のことを注視している。
しかし返答はあった。
「…………本当、だ」
弱々しいものだったけれど。
カンロジが放ったそれは確かに、肯定だった。
「痛く、ない、な。……なんでだ?」
「俺に聞くまでもない。身体が変わり始めてるのを、君自身が一番よくわかってるはずだ。
君は確かに戻りつつある。鳴海周を、取り戻しつつあるんだ」
「……どうし……て?」
「それこそ分かりきってる。君がもともと鳴海周だからだ」
「……僕が……」
「ユキノの力は、鳴海周だけを守護する力なんだから。当たり前だろ」
ほんの少しだけ、喉の奥が震えて、無理やりそれを腕で抑えつける。
俺の意図を察してか、横からアルも必死に声を振り絞った。
「はい。私、一所懸命魔法を使います。それで兄さん。元気になったら、また、旅をしましょう」
「……旅…………」
「そうです、旅です。トウジョウさんも一緒に。それと私の身体だって、ちょっと気味悪い魔物ですけど、《魔物捕獲》してあげて連れていきましょう」
『ギ、ンシャシャッ』
アルの言葉を喜ぶように、黒髪の魔物が僅かに跳ねる。
それから――その、髪の毛の中から無造作に伸びた手足の一本は、カンロジの額へとそっと当てられた。
そして、気のせいでなければ……確かに、囁いたのだ。
『イッショ。ス、スキ。……ニイサン。ズット』
ところどころが歪んで。
歯車が合わなくて、軋んで壊れかけた、それは単なる音の集合体だったけれど。
でもカンロジの耳には届いたはずだった。
だからきっと彼は最期にほんの少しだけ笑ったのだろう。
「…………うん、ずっと一緒だ」
そうしてゆっくりと、息を引き取った。




