209.鳴海周3
「兄さん、あの……見てください。先ほどのクエスト完了報告で、冒険者ランクがAに上がりました」
どう返したのか悩んだのは一秒未満の時間だった。
「あっそ」
どこか期待するような顔つきでカードを見せてきていたユキノの顔が、しゅんと暗くなる。
するとその横から、にゅっと顔を出した無精髭の男が口出ししてきた。
「おいおい、ユキノちゃんはお前さんに褒めてもらいたくて頑張ってんだぜ? もうちょっと労ってやったらどうよ」
男の名前は東条麗人という。トウジョウさん、と僕たちは呼んでいた。
ぼさぼさの髪にだらしない無精髭、それにどこか面倒くさがりな猫のような目つきをしている。
彼が名乗ったときも、僕は思わず「似合わない名前だな」と零したのだが、そのときも「だよね、オレも同意見」などと宣ってみせた変わった男だ。
「……別に。知ったこっちゃないし」
そっぽを向くと、さらにトウジョウは何かを言いかけたが、言い争う僕たちの間にもう1人の人物が割って入ってくる。
「まあまあ2人とも。そうだ、今日はユキノさん昇格のお祝いパーティでもしない?」
今井信克。木渡中学校三年二組のクラス担任だ。
眼鏡をかけた三十代の男で、どこにでもいるような外見ではあるのだが、それなりに気さくで愛想が良いため生徒からの人望は厚い。ノブ先生、と女子たちが親しげに呼びかける姿も何度か目にしたことがある。
これが僕らのパーティの、メンバー全員である。
元々はユキノと2人組のパーティを組むのを予定していたが、召喚の翌日に旅立とうとする僕らをまずイマイが引き留めた。
彼はクラス全員で固まるか、あるいは大人数で行動すべきだ、などと僕を説得しようとしたが、こちらがまったく首を縦に振らないのを見ると、代替案を出してきた。
この世界にはどんな危険が待ち受けているか分からない。少人数で行動するのは危険だから、他の生徒にも最低3人以上のパーティを組むよう推奨している。
……つまり、もしこのまま旅立つつもりであれば自分もパーティに入れてほしい、ということだった。
「……私、あのひと好きじゃないです」
イマイを目の前にして考える僕の耳元で、ユキノがほんの小さな声で囁いてきた。
ユキノがそんな風に、他人への感情を口にするのは難しかった。
僕は一瞬、物珍しさに目を瞠ったが、それで終わりだった。ユキノの意見など、最初から取り入れる予定はないのだ。
イマイの目的は分かりきっている。問題児の監視だ。
コイツは僕がイシジマたちから虐めに遭っていることにだって薄々気づいていたはずだ。でも一切、止めようとはしなかった。それどころかしょっちゅう怪我を負ったり、物を紛失する僕に、「気をつけてくれ」と溜息を吐いていたくらいだ。
だからこそ今この場で、自分がそんな問題児と同じパーティに入り、危険な役を担う――と、この場に集まる他の生徒へアピールしている。
教師としては最低な部類に属するだろう。しかし利己的なだけにイマイの行動は分かりやすい。
いざというときに、こちらがうまく利用してやればいいか。
そう思い、僕はイマイの申し出を渋々受ける演技をした。リブカードの内容も無論チェックした上で、だ。
しかしそこでまた、別の人間が挙手した。
「どうもどうも。お初お目に掛かります、東条です。良ければオレも、キミらのパーティに加えてくんない?」
トウジョウは、僕たちが乗っていたバスとの玉突き事故に巻き込まれたひとりだった。
そんな身の上の人間も何人か居て、トウジョウ以外の彼らはだいたい、隅に集まって僕たちのことを遠巻きに見ているだけだった。家族連れが多い中では珍しく、トウジョウは他に知り合いはいないようだった。
ちなみに挙手の理由を聞いたところ、「そっちのお嬢ちゃんが可愛かったから」だそうだ。ユキノは複雑そうな顔をしていた。
僕はトウジョウのリブカードを確認した後に、やはり頷いた。彼のスキルはそれなりに有用そうだったのだ。
そんな経緯があって、僕たちは4人で王都を旅立った。
時折、イシジマ・カワムラ・ハラのパーティや、マエノ・タカヤマ・ホガミ・ツチヤのパーティなんかと、衝突や小競り合いはあるものの、それらは毎度、比較的穏便に収まった。
というのも、イマイの存在が大きかった。異世界に召喚された時点でイマイは別にクラス担任でも何でもないのだが、彼の存在は意外にも抑止力として周囲に効果的に働いたのだ。
僕は些か拍子抜けした。というのも、イシジマと殺し合いになった場合のシミュレーションなどを行っていたからだ。だがイマイが居る限り、そんな日はいつまでも訪れそうになかった。
いろんな街を巡り、ダンジョンに潜るうちに、次第にイシジマのことも忘れつつあった。目の前の魔物を倒すのに必死だったからだ。
僕は間違いなく、パーティ内で最弱の戦士だった。
というのも、敵の魔物をその場に固定し魔法をも封じ、自身は強力な氷魔法を放つユキノ。
狙った獲物を必ず仕留める短剣使いにして、あらゆる武器の扱いに長けたトウジョウ。
攻撃魔法や回復魔法を自在に使いこなし、パーティの大黒柱として大きな役割を担うイマイ。
ただ「生き返る」スキルを持っただけの僕は、そんな華々しい彼らにはどう考えても不釣り合いだった。
だからこそ毎日、必死だった。
既にAランクまで上り詰めた3人には、追いつけそうもない。どんなに頑張ってもBランク止まりだったが……それでも懸命に、足掻いていた。
そうして発足した僕らのパーティは、着実に名をあげていき、気がつけばクラスの連中からも一目置かれる立場になっていた。
たぶん誰も、本気で魔王を倒す気はないだろうけど……。
いやもしかしたら、ラングリュート王の口にした「魔王を倒した勇者への特典」を本気にしてるヤツも中には居るのかもしれない。日本に戻れるとか、そんな風に願おうとしてる人間が。
あれはどう考えても、王サマが適当に作り出した嘘に違いないので僕は信用していなかった。だから結局、ユキノやトウジョウやイマイを利用して、生き残ることを目標にしていた。なんだかそんな自分は真人間みたいで、ちょっとおかしかった。
でもそんな日々はあっさりと終わりを告げた。
旅が始まって半年後、ユキノの身体に痣が発現したあの日に。
+ + +
どうする? とイマイは言った。
僕はそのとき、宿屋の外に出て、地べたにしゃがみ込んで夜空を見上げていた。
寒々しい夜だった。往来を歩く人の姿もほとんど無いし、居たとして、僕のことを不審者を見るような目で眺めて通り過ぎていく。
振り返ると、イマイが立ち尽くして、ただ僕の顔を見つめていた。
「……ユキノさんは、まだ宿屋で泣いているよ。今、トウジョウさんが宥めてるけど」
分かりきっていることだったので、僕は頷いただけだった。
僕とユキノが口喧嘩――といっても、僕が一方的にユキノを打ち負かすだけ――のそれをするとき、必ずといっていいほど、トウジョウはユキノにつき、イマイは僕についた。
それはこの2人の大人が、扱いづらい僕ら兄妹に穏便に接するために編み出した方法のひとつだったのだろうと思う。
血蝶病という病の存在を決して忘れていたわけではなかったが、今まで記憶の片隅に追いやっていた。
しかしここに来て、何がきっかけだったかも分からないが、ユキノがその病の発症を意味する蝶の形をした痣を、右の頬に宿したのだった。
僕は思わず舌打ちする。何より、場所が悪かった。
他の部位なら、服で隠せばどうにかなっただろう。でも顔というのは不運だ。
フードか仮面などで隠す? でも万が一、誰かに見られる可能性は付きまとうだろう。
この世界にだって、高級だが化粧品はある。白粉で隠すのは? そんなの水魔法でも喰らえば、きっと一発でバレてしまう。
さっきからずっと、堂々巡りだった。答えの出ない――あるいは答えの出ている問いを、頭の中で繰り返しているだけだ。
――これは本当に、不運なんて言葉で済むことなんだろうか?
そんな風に思う。これは一種の、呪いなのかもしれない。
僕も親には恵まれなかったが、ユキノもそうだ。母のサチコはいつもユキノを自分の人形のように扱って、気に入らないことがあると容赦なく手を上げた。蹴られ続けて意識を失ったユキノを、僕は致し方なく病院に運んだことだってあるのだ。
でも――この世界ではそれなりに、楽しかった。
まず、親が居ない。近所の人間が居ない。
クラスメイトは居るが、それも、次の街に出立すればほとんど遭遇することもない。
僕は……本当に、思いがけないことだったけど……たぶんこの生活を、楽しんでいた。
ユキノも、きっとそうだったんだろう。だから今、泣いている。いずれ魔物に成り果てる運命に、怯えている……。
そうだ。
覚悟なら、もう、決まっていたのだ。
「誰にも言ったことないんだけど」
と僕は前置きして、イマイに向かって言った。
「僕、人を殺したことがあるんですよ」
「…………」
イマイの顔色が変わった。
「この世界なら、まぁ、TPOを弁えれば殺人は許容されそうだけど――センセ、どうなんでしょうね。元の世界での殺人は」
それは本来であれば、口にする必要のない、しかも未だ露呈していない過去の犯罪だ。
でも僕は何故かそれを、イマイに告白していた。理由は、うまく言語化できない。
もしかしたら僕は、誰かに、
「――私は、責めないよ」
思考を遮って。
そう、確固たる声音で言い放つイマイに、僕は目を見開いた。
イマイはその場にしゃがみ込むと、僕の肩に両手を置いた。
眼鏡のフレーム越しに、真剣な瞳が僕のことを見ていた。
「君はとても賢い子だ、シュウくん。いつもクラスのみんなのことも、一歩引いた目で見ている。
そんな君がもし罪を犯したとするなら、それ相応の理由があったんだろうと思う」
「…………」
「決してその罪を許すわけじゃないよ。だけど、責めはしない。私には、いや……誰にだって、その資格はないだろうから」
「……本当に?」
問う声は震えていた。
イマイは口元に小さな笑みを浮かべて、頷く。
「ひとつ言えるなら……私は最後まで君の味方だよ」
彼も、僕がやろうとしてることを承知しているようだった。
僕はイマイに頷き返し、そうして、歩き出した。
それからのことは、正直よく憶えていない。
たぶん意図して、記憶から排除しようとして、脳味噌がぐちゃぐちゃになったのかもしれない。
ただずっと――頭痛がしていた。
それにやっぱり、雨が降っていたように思う。それも土砂降りだ。地面を殴りつけるような雨音が、耳の中で、木霊していた……。
全てを済ませた僕は宿に戻った。
揃って、驚いた顔をするユキノとトウジョウに向かって、僕は右手に持ったそれを大きく掲げた。
「まず1人目だ」
床に放ると、ゴドン、と重い音がした。
その弾みにユキノの肩が震えた。信じられない、というように、すっかり泣き腫らした大きな目をさらに見開いている。
「…………アサクラ、くん……」
「そうだ。次はアラタとアカイを殺る」
「どうして……兄さん……だって、私」
部屋の中にはむわり――と、悪臭が広がりつつあった。
僕は腕にこびりついた肉片や髪の毛を取るのに躍起になっていたが、続くユキノの言葉は意外なものだった。
「私、兄さんに迷惑、かけたくなくて……消えてしまいたくて……」
はらはらと、その頬を透明な雫が伝い落ちる。
血の色をした痣がなければ、きっともっと綺麗な泣き顔だったんだろう。
「私が死ねば、大丈夫だって……、そう伝えるつもりだったのに」
嗚咽でそれから先の言葉は聞き取れなかった。
僕は何だかそのとき、初めて、この義妹の頭を撫でてやりたくなった。
「消えなくていいよ」
だけどそんなことは小っ恥ずかしくて出来なかったので。
言葉を返した。そうするとユキノは顔をぐしゃりと歪めて、ますます泣いた。
「ユキノ、お前は消えなくていい。代わりに、他の全員を消そう」
「……全員って、誰をだ?」
訊いてきたのは、強張った顔をしたトウジョウだった。
僕は間を置かず答える。
「決まってるでしょう。差し当たっては他の《来訪者》です、彼らがユキノのことを知ったら徒党を組んで襲ってくるに決まってるんだから」
というのもラングリュート王が直々に、「血蝶病になった仲間は殺して構わない」と発言しているのだ。
特にクラスメイト内だとホガミあたりを筆頭に、ユキノを煙たがる女生徒も多い。ならば、このことを知られる前に全員を殺すのが、最も手っ取り早い防衛手段であり、攻撃方法なのだ。
「それに、この国の人間も必要であれば殺します。当たり前でしょう? それともトウジョウさんは、何の罪もないユキノに魔物化する前に死ねとでも言うんですか?」
「……それは……」
トウジョウが口ごもる。もともとユキノを可愛がっているトウジョウを黙らせるには、一番手早い手法だった。
「僕はユキノを守ってやります。だって僕はユキノの兄なんだから」
「……兄さん……」
「そのためにはユキノも――トウジョウさんやイマイ先生にだって、協力してもらいますよ。トウジョウさんも覚悟は、決めてくださいね」
あの雨の日。
母さんを階段から突き落としたとき、思った。
僕は母さんの願いを破ろう。
辛かったら、悲しかったら、悔しかったら、痛かったら、何だってやり返そう。
我慢しない。耐えない。堪えない。何にだって牙を剥く。殺してやると刃を握る。おまえは邪魔だって、斬り掛かるようにする。
やさしい人になんかならない。ゼッタイに、母さんの言いつけは守らない。やさしい人は僕が皆殺しにしてやる。やさしい人は……全部……
「妹が――」
僕はユキノの手を取った。
白くて、ほっそりとしていて、思った以上に小さな手だった。
ユキノが頬を赤らめる。僕は沈黙するトウジョウさんに向かって、にやりと笑って言い放った。
「チートだからって調子に乗らず、クラスメイトは1人ずつ死刑に処しますよ。……それでいいでしょう?」
異世界に召喚されたのは、全部で42人。
その内、魔物、あるいは盗賊などにやられて命を落とした5人を除いて。
僕が殺した人数は33人だった。




