204.一つ目の決断
「でも、これでようやく一つ目の決断は達成できましたね」
人差し指を立てての、アルの呟きに。
ぽこぽこ俺を叩いていたユキノの動きがぴたりと止まる。
「……そうですね。全部あなたの思惑通りみたいで、ちょっと嫌ですけど」
ふたりの遣り取りに、俺は思い出した。
アルがユキノに自分自身の記憶を流し込んだのは、そもそもユキノに“二つの決断”なるものをさせるためだったという。
その内容を俺は知らない。コナツは知っているようだったが、彼女はユキノと俺が話すべき問題だ、と詳しくは教えてくれなかったのだ。
「その、決断っていうのはいったい……?」
そう問いかけると、ユキノとアルはちらと目線を交わし合った。
同じ顔をした少女が目の前にふたり居るというのは何とも不可思議で奇妙な光景だ。
その一瞬のうちにお互いの意志を確認したのか、ユキノが俺の目を見て言う。
「兄さまにとって、自分だけが特別な存在ではないと私が認めること。――です」
言い換えるなら、と宙にぷわぷわ浮かぶアルが付け足す。
「兄さんにとって、自分以外の特別な存在が居ると私が認めること。とも言えます」
……その言葉の意味自体は、何となく理解できた。
妹にとっての俺は、ずっと自分だけのことを心配し、優先してくれる人間だったのだと、先ほど本人の記憶と触れ合って気づかされた。
だから、その事実を認めること自体が、ユキノにとって大きな決断であるのは何となく分かる気はする。
しかし、
「……それをユキノが認めることにはどういう意味があるんだ?」
そこは全く持って不明だった。
腕を組み、うーんと唸る俺を尻目に、何やらふたりがぼそぼそと小声で喋り出す。
「(……やっぱりどこの世界でも兄さんは鈍感なのですね。苦労しますね、私)」
「(先ほどから妙にからかってきますけど、別に兄さまは誰のことを好きとか明言したわけじゃありませんから。私、まだ負けてませんから)」
「(それはさすがに往生際が悪いんじゃ……)」
「(兄さまだって彼女に対するモノが恋愛感情かどうかなんて言ってないでしょう!?)」
音量をうまく調整しているのかほとんど聞こえてこない。
しかし近づいたらそれはそれでお怒りを買いそうなのでどうしたものかと思っていると、
「あ、」
あまりに唐突に、だった。
先ほどまでほとんど先の見えなかった暗闇の中に。
瞬きの合間にどこかから生み落とされたかのように、知っている少女の姿が現れていた。
「ナガレ!」
反射的に駆け寄る。
きょろきょろと周囲を見回していたナガレもすぐ俺の声に反応すると、
「……! シュウ!」
破顔して、小走りに近づいてきた。
勢いと雰囲気のまま、思わず手を伸ばして、抱きしめかけるが――お互い顔を見合わせて、ぶつかる直前に立ち止まる。
「「………………」」
……なぜか顔が熱い。
ごほん、と背後でユキノが咳払いした。
お互い前に出していた両手を、ゆっくりと後ろに下げる。何故だか気まずい思いがした。
「よ、良かった。無事だったんだ」
ぎこちなく笑いかけてみる。
見た目を確認する限り、ナガレに目立った怪我はないようだった。
だが彼女もこうして門の中に飛び込んだ以上、試練なるものは受けているはずだが。
「何かこう――過去のさ、あんまり明るくないタイプの記憶映像を視せられたりはしなかった?」
俺が身振り手振りに訊いてみると、ナガレはなにか思い出すように首を僅かに傾ける。
「それっぽいのは視えたけど……運動場走ってる映像だけだったから……」
「えっ」
「小学生の頃、転んで膝から血が出たときの……とても痛かった」
そう言ってから、ナガレはその思い出話が恥ずかしかったのか少し頬を赤くした。
アルが感心したように、あるいは脱帽したように息を吐く。
「さすが、「いちばん速くありたい」なんてアスリート志望の子は違いますね。こっちの兄妹は泥沼みたいな記憶で身体に強い影響が出てたのに」
「そ――そういえばそうです。兄さま、瞳から血が流れていませんでしたか? 大丈夫ですか?」
それを言うなら、俺よりユキノのほうがよっぽど大事だった気がする。
既に違和感の薄れている目元を拭いつつ、
「もうそれは止まったみたいだけど――ユキノこそ吐血してたよね?」
「ええ……」
次はナガレが顔を青くする。目から血やら口から血やら、考えてみるとかなりショッキングな話だった。
「私……じゃなくて、アル。結局、私たちが流血したのは何か理由があるんですか?」
アルが「もちろん」と頷く。
「この洞穴みたいなところを抜けると、神々の元に辿り着けますので。言うなればこれは試練のようなものです」
「試練……」
ホレイさんも同じことを言っていた。彼が何かを言いかける途中、俺たちははぐれてしまったのだが。
「自らの願望を正しく認識すること。人によっては、過去のトラウマと向き合うこと……ですね。先ほどの兄さんや私は、精神が負荷に耐えられずに肉体の方が崩壊しかけていたのです」
「えっ」
「例えるなら、電子レンジに入れた卵が熱膨張して、どかーん――爆発しちゃう、みたいな」
アルは爆発をイメージしたジェスチャーを交えつつ、最後に口の端を上げるが、それってだいぶ……危なかったんじゃ?
まったく楽しい話題ではなかったので、気を取り直して俺はナガレに視線を戻す。
「そういえばホレイさんは? 一緒じゃない?」
「えっと……」
ナガレが言い淀む。
それから彼女は、戸惑った様子ながら、振り返った先の空間を指差した。
目を向けても、そちらには漫然と闇が広がるばかりで何も見通せない。が、
「その人はあっちの方に居る、けど……カンロジさんも一緒で」
「カンロジも?」
まさか、ふたりは既に戦っているということか?
しかしナガレは意外なことを口にした。
「ホレイさん、は足取りはフラフラしてたけど、大丈夫そうで……でもカンロジさんは苦しそうで、起き上がれないくらいで」
「……何か、カンロジは言ったりしてました?」
アルが低い声で問うと、ナガレがこくこく頷く。アルの姿はナガレにも問題なく視えているようだ。
「断続的にだったけど……「やめろ」とか「嫌だ」とか、そんな風に叫んでたと思う」
「そうですか……」
「アル、それはつまり、カンロジも試練っていうのを受けているってことか?」
「間違いないと思います。そして兄は、それを乗り越えられないかもしれない」
アルの表情は固かった。
しかし、自身の兄を憂えている……といった感じでもない。
俺はその表情の意味を深く考えようとしたが、それより前に「行きましょう」とアルが促した。
ナガレの指した方角に向かって、宙に浮かぶアルを先頭に、ナガレ・ユキノ・俺の順番で歩き出す。
薄暗い道は延々と続いていて、誰の姿も見えてはこなかった。
これだと、最初はホレイさんたちと共に居たらしいナガレは相当な距離を歩いてきたということになるが、やはり常識の一切が通用しないということは、距離感などに関しても感覚が狂っているのかもしれない。
道すがら、俺はユキノに話しかけた。
「そういえばユキノ。結局ホレイさんとはどういう関係なんだ?」
「……すみません兄さま。説明していませんでしたね」
ユキノは軽く頭を下げてから、よく通る声で説明してくれた。
「兄さまの推察通り、彼は5年前――アルファ世界の私たちと共にこの異世界へとやって来た《来訪者》のひとりです。
アルたちの乗った修学旅行のバスとの玉突き事故で、巻き込まれた数台の乗用車……その内の一台に乗っていたひとりですね」
なるほど――と俺は頷く。
アルファ世界で、クラスメイト以外にもちらほら《来訪者》が居たというのは、その数台の乗用車に乗っていた数人も亡くなったからだろう。
今回の、つまりベータ世界においては、俺たちの乗ったバスはガードレールを突っ切って崖下に転落したため、他に巻き込まれた人は居なかった。だからクラスメイトのみが転生したというわけだ。




