203.告白
「ユキノは、ひとりの女として、兄さまのことをお慕いしています」
しばらく、俺は何も言えなかった。
ただ、逆上せたように顔を真っ赤に染めているユキノの顔を、じっと見遣る。
「……俺は君にとって、働きアリではないの?」
「ち――」
大きく目を見開いたユキノの表情は、明らかにショックを受けていた。
俺は――口にしてから、なんて意地悪なことを言ってしまったんだと反省する。
「……いえ。そう、です。ずっとそうなんだって……思ってました」
しかしユキノは唇をぎゅっと強く噛んでから、頷いた。
呻くような声音でさらに言う。
「でも、いつからでしょう? それだけじゃなくなってしまいました。私、働きアリさんのことを――気づいたら本当に大切に、想っていたのです」
……俺はただ無言でその告白をききながら、思考していた。
「忠実な働きアリを守ること」が願望だったのだと、ユキノは言った。
自分という監獄の番人であり、囚人である俺を守って、愛を運ばせること。それが目的だったのだと。
だけど――実際にユキノのリミテッドスキル"兄超偏愛"の特性を考えてみれば、その言葉の全てが正しいわけではないのだと分かる。
"兄超偏愛"は、完璧なまでに俺のことだけを守り抜き、癒してくれるスキルだ。
でもその超回復特化のスキルは、ユキノ自身のことを決して癒しはしないのだから。
これが俺の自惚れではなければ。
ユキノにとって、今や彼女自身よりも、俺という人間は特別になってしまっている。
「――私の中に、ずっと居て」
小さな手が。
俺の胸の中に飛び込んでくる。縋りつくように、弱々しく震えている。
「ずっと離れないで。ずっとずっと傍に居て。冷たい私のことを抱きしめて、温め続けて。
私にはあなたが必要です。他の誰も要らない、あなたさえ居れば私……最期のときまでだって、笑っていられます、だから」
「……ユキノ…………」
声は濡れていて、華奢な肩は小刻みに揺れていた。
そうだ。ユキノの願いは、つまり――変わらないこと、でもあったはずだ。
傷を癒す。怪我のない状態に戻す。
それは俺に、変化を望まないということでもある。
妹だけを優先し、必要とする兄へと、戻し続ける……。
泣いているのだろうユキノの肩をそっと抱き寄せて、なるべく柔らかい口調を努めながら彼女に話しかける。
「一時期からさ、俺に触るのを嫌がるようになったよね」
「……お気づきでしたか」
「うん。何となく」
「……想いを隠せなくなりそう、でしたから。なるべく、兄さまに触れ合うことのないよう、ユキノはユキノなりに必死だったのです」
その言葉に偽りがないことを、俺も承知していた。
ユキノは俺との接触を、頑なというほどでもないが避けている様子だった。記憶が確かなら、たぶん中学2年生の頃合いからだ。
すぐ隣に居ても、指先が触れ合ったことは一度もないし、ハイタッチなどの軽いスキンシップもなかった。
最近、彼女から俺に触れてきたのは、あの黒髪の魔物を目にして隠れているとき――魔物の手と、自分の手がまったく同じだと知らせるためだけに、俺の手を掴んできたとき。それくらいだ。
「俺はそれで、てっきり、嫌われてるのかなと――」
「そんなはずありませんっ!」
苦笑気味に呟こうとした言葉は、強く遮られる。
勢いよく顔を上げたユキノの頬は、やはりしとどに濡れていた。切なげに、表情は歪んで、ただその瞳は俺のことだけを見つめている。
「兄さまを嫌うなんてこと。そんなの、だって、今さら――有り得ないことです。私にとっては」
ぎゅう……ときつく、そのほっそりとした手が俺の服を掴んだ。
「兄さまにとっては……やはり今も、ユキノはただの免罪符ですか?」
どう言葉を返したら。
ユキノは傷つかないだろう、と考えかけて――首を振る。
覚悟が足りていないのは俺だけだ。
ユキノはもう、とっくに、決断している。
「兄妹」という関係性の殻に閉じ込めた想いを、形にして……勇気を出して、本音を口にしてくれている。
なら、俺も誠意を持って、彼女の気持ちに応えなければならない。
俺は見つめ合って、ユキノに答えた。
「……ううん。違うよ。そんな風には、いま、ユキノのことを思えない」
「それなら――」
「でも……いちばんは、ユキノだけじゃない」
「そっ――……………………だけじゃ、ない?」
手の平で顔を覆ったユキノが、のろのろと再び顔を上げる。
「……だけじゃない、というのは。兄さま、どういう意味でしょう?」
「どういう意味というか……」
そのままの意味だよ、と説明しても納得はしてもらえなさそうだ。
縋ってくるユキノの体重を片手で支えつつ、俺は「うーん」と頬を掻く。
「今までは、ユキノのことだけを幸せにしたくて、頑張ってきたんだけど」
「……はい」
「今はもうひとり、幸せにしたい女の子が居る、っていうか……そういう感じで」
脳裏に浮かぶその名を、告げたものかどうか迷う。
だって本人にもまったく伝えていないことなのだ。相手の都合も無視して自分勝手に先走るのも些かどうなんだろう、という気もする。
しかし俺が悩むポイントとはまた別の所に引っ掛かっているのか、ユキノは何だかぽかんとしていた。
そして「接触を控えていた」とか言ってたのが嘘のように、ぐいぐいと身を乗り出してくる。ち、近い。近いですユキノさん……。
「えっと……兄さま?」
「う、うん?」
「その口振りですと、あの、いまも兄さまにとってユキノは「いちばん」の片割れ、のような……いえ、勘違いだとは重々承知して」
「そう。いまもユキノはいちばんだよ。だってそれは、変わりようが無いことだし」
あんまり当たり前のことだから、わざわざ口にするのは自分としても不思議な気持ちだった。
「もちろんユキノにとって、俺がユキノ以外の女の子のことを同じくらい大切にするのは不快なのかもしれないんだけど。それは俺としては広い心で許してもらえると」
「兄さま。そういうことではないのです」
「は、はい……」
すっかりユキノの目は据わっていた。ちょっと怖い。
「あのですね兄さま。私、失礼なこといっぱい言ってます。兄さまのことを働きアリとか言いましたよ」
「でも俺、アリは嫌いじゃないし……ソラに教わってよく観察してたし……」
「兄さまそういうことではないのですが!?」
びっくりした。ユキノにこんな剣幕で怒鳴られたのは初めてだ。
俺が目を白黒とさせていると、
「ふ、ふふっ……」
ふと、誰かの笑い声がした。
「どなたですかいま笑ったのは」
ユキノがぎらついた目で周囲を見回している。
俺は天井のあたりを見上げた。暗い洞穴のようなこの場所の頭上から、その声が響いていたからだ。
「ふふ。笑ったりして、すみません。あんまりおふたりの遣り取りが面白いので、つい」
「……アル」
空中に浮かんで。
親指姫サイズのユキノが、くすくすと口元を抑えて笑っていた。
俺の目線の先を追ったユキノが、はぁと溜息を吐く。
「……何だ。別世界の私でしたか」
「……あれ? ユキノ、アルのことが視えてるの?」
「アル?」と首を傾げつつ、
「アルファ世界の私の姿であれば、視えますよ」
と寸分の違いなく、アルの浮かぶ場所を指差してみせた。
思わず首を捻る。俺の場合は"至高視界"の効果でアルの姿は視認できるものの、他の人間にはそれは難しいはずだが……。
「門の先は神々の領域――ですから。人間に畏敬の念を抱かせるには、姿を現すのが手っ取り早いんですよ?」
分かるような分からないようなことを言って、アルが天井からにこやかに舞い降りてくる。
それからユキノに向かってこう言った。
「フラれちゃいましたね、別世界の私」
ユキノはぎろり――と鋭い目つきでアルを睨みつけた。
あまりの迫力に俺は彼女の肩に置いていた手を離してしまうほどだった。
しかしアルはまったく怯まず、また余計に続ける。
「でも良かったじゃないですか、家族枠では実質ナンバーワンってことですもん」
「……やかましいです。海の底にでも沈められたいですか?」
「あはは、遠慮します。それはさすがに息苦しそう」
茶化すように笑っているアルに嘆息するユキノ。
そんな彼女は俺の視線に気がついてか、泣き笑いのような表情を浮かべた。
「……私、素ではこんな感じですよ。幻滅しました?」
俺は笑って首を左右に振る。
「そんなことないよ」
「……本当ですか?」
「俺も海の底に沈められるのはイヤだし」
もう! と怒ったユキノにぽかぽか殴られた。ちょっと和んだ。




