201.免罪符
「やさしい人間になりなさい」。
それは死んだ母さんが、唯一、俺に遺した言葉だった。
母さんによれば「やさしい人間」とは、自分以外の人間を大切にするという意味だった。
例えば、母親が、虐げられる子どもを身を挺して庇うこと。
それは美しく、正しく、身の毛のよだつほどに感動のある光景だった。少なくとも、母自身にとって。
しかし母は3年前――俺が小学3年生の頃に、死んでしまった。
俺はそれから、自分がどうやって「やさしい人間」を目指せばいいのか分からず、毎日のように静かに混乱していたけれど。
でも、ユキノに出会ったことで気がついたのだ。
妹を庇う兄は、きっと何よりも美しく、正しいだろうということに。
「兄さん、あの、一緒に学校に行きましょう」
ユキノは、俺によく懐いてくれた。
彼女が俺のどんなところを気に入ったのかはよく分からない。でも、都合が良かったので俺も懐かれるままにしておいた。
偶然ながら誕生日が同日の俺たちは自然と、教室内では双子として振る舞うようになった。
顔立ちが似ていないのは「二卵性だからだ」と、テレビで聞きかじった適当な知識を用いて誤魔化す。
ユキノは非常に愛らしく、整った容姿の女の子だったから、よくいろんなクラスメイトに話しかけられたが、そのほとんどに沈黙するか、あるいは困った顔をするばかりだった。
出会った頃、ぐちゃぐちゃに切りつけられたように乱れていた髪の毛は、俺がそれなりに見られるように整えていた。きっとそれは、前の学校で彼女が虐めに遭っていた事実を示すのだろう。
しかし俺はそれに触れることはなかった。ユキノが言い出したなら、それっぽい言葉で慰めるつもりではあったが、自分からわざわざ面倒なことに首を突っ込みたくはなかった。
というのも、俺はユキノのことが特別好きではなかった。
ただし嫌いだったわけでもない。そんなことはどうでも良かったのだ。
自分をゼッタイに傷つけない人間。
自分を尊重してくれる、唯一の人間。
妹は兄にとって、極めて都合の良い免罪符だった。
「……分かってる!」
血を吐くように、俺は叫ぶ。
「そんなの、そんなことは、ずっと、分かってる。自覚してる……」
頭の中に、封印して、あるいは閉じ込めてきた――記憶の塊が濁流みたいに押し寄せてきて、脳が、目玉が、ひどく痛んで今にも破裂しそうだった。
その洪水とも呼ぶべき奔流は、アルが"至高視界"を用いて眼前に展開してみせるような、穏やかな再生とは似て非なるものだった。
ただ、無理やり掻き回して、ほじくり返して、ボロボロになるまで鞭を打つ。頭ごなしに言い聞かせる。
俺はのたうち回って、その痛みに耐えようと足掻く。必死に、藻掻く。
だけど、そんな俺を嘲笑うかのように記憶は更に押し寄せてくる。
これが――ホレイさんの言っていた試練、なのか?
おそらくは、スキルの元となった自分の願望を、その過去を、さらけ出すこと。
そうだこれは――罪悪だ。俺のエゴの塊だ。何も知らないユキノを利用し続けた、汚らしくおぞましい、本当の自分……。
「そうだ……俺は、俺の本質はもともと、誰に対しても平等に優しくないってことだ」
罪を認めるたびに。
全身から血が噴き出して、痛みに叫ぶ。絶叫する。呑み込まれそうに、なる。
そうだ。みんな間違えてる。みんな、俺のことをはき違えている……。
そんな俺を、確かに、母はまともにしようとしたのだ。
そして異世界に来てから。
ますます、俺の悪癖は悪化の一途を辿ることになる。
――ここではユキノを守ることを言い訳に、他人を殺すことさえ許された。
カワムラを。そして、エノモトを。
タカヤマを。ツチヤを。トザカを。
見殺しにしてきた人だって、いっぱいいる。俺の所為で命を落としてしまった人だって。
それなのに――俺はここに来てから、いろんな人から、「やさしい」と称されることになる。
――『………………ナルミくん。キミは優しすぎるよ』
トザカ、違うよ。そうじゃないんだ。
誰よりも優しかったのは君だった。そんな君を殺してしまったのは、俺なんだ。
――『優しすぎるんだ、お前は』
レツさんは、俺が必死に取り繕った外面のことをただ、見ていてくれて。
だけど時折、不安になる。俺の本性がもしも知られてしまえば、彼は今まで通り笑いかけてはくれない……。
「俺の願いは……奪うことじゃない……」
認めろ、と。
誰かが耳元で告げる。何度も繰り返す。
目から溢れ出した血が、だらだらと頬の上を垂れていく。視界が赤色に霞んでいく。
「奪われ続けた未来を、奪い返すことだ。自分を殺し続けてきた過去の自分を、いつか……否定するために」
誰のことも嫌いじゃなかった。
誰のことも、好きじゃなかった。
でも、俺は、自分自身のことだけはずっと、嫌いだった。
嫌いで仕方が無かった。気持ち悪くて、憎くて、恨んでいた。疎ましくて大嫌いだった。
だってこれじゃあ俺はどうやったって俺のことを好きにはなれない。
妹を守るためだと嘯いて剣を取る俺のことを、ひたすら、永遠に軽蔑するだけだ。
「――――うん。ボクも自分のこと嫌いだよぉ」
そのときだった。
冗談みたいに――よく知った声が、狭く苦しい空間の中に響いた。
驚き、見開いた目から再び、どろりと血が零れる。
俺は際限なく洩れ出すそれを、無理やり服の袖で拭いた。
痺れるみたいな痛みがあったが、そんなことはどうでも良かった。無我夢中で頭を起こして、周りを見回して、それでようやく、気がつく。
「……ソ、ラ?」
背中越しに。
誰かの温度がある。俺のものではない、他人の体温だ。
ソラは死んだはずなのに、何で……と口にしかけて、噤む。
ここは神々の領域であり、常識は通じない場所だとホレイさんは言った。
だったら、こんな奇跡だって有り得るのかもしれない。
そしてもしそんなモノがあるっていうなら、俺はそれを享受していたかった。
顔は見えないまま、ソラの声をしたその人が言う。
「やさしいって、よく言われるでしょ?」
「…………うん」
「知ってた? それはね、本当にシュウちゃんがやさしいからなんだよ」
俺は思わず苦笑を洩らした。
これは――やっぱり、ただの幻聴なんだろうか。
俺にとって都合の良い言葉を口にしてくれる、ソラの声を借りた幻。
でもそれでもいいか、と気を取り直す。俺はもっと彼と、話をしていたかったのだから。
「……でもそれは、嘘だ。やさしいフリをしただけなんだ」
「そうかもしれないね。だけどボクは、そのやさしさに救われたんだよ」
戸惑ったままでいると、後ろでコツ、と柔らかい音がした。
それはどうやら、ソラが人差し指の爪をもう片方の指先で軽く叩いた音だった。見てもいないのに、何となく俺はそれを理解していた。
「あのね。やさしい人を知ると、ボクも、そうなりたいって思うんだ」
「…………」
「ひどく憧れるんだよ。その不器用さと美しさに。ねえ、こうやってボクが言うのも、嘘だって思う?」
「……嘘じゃないと思う」
「ほら。やっぱりシュウちゃんはやさしいねぇ」
前は呪いみたいに響いていた。
その言葉は、ソラが口にすると、何だか綿菓子みたいにふわふわしている。
俺の背中に体重をぐりぐりと預けてきて、ソラは微笑んだようだった。
「認めたら、立ち上がらなくちゃ。女神さまに一泡吹かせてやろうよ」
「…………できるかな」
「できるよ。ボクの大好きなシュウちゃんだもの。それに――」
囁くみたいに小さく、ソラは言う。
「――それに今のキミは、ちゃんと、誰かを想ってる。そこに嘘なんか、ひとつもないんだよ」
それきり、幻の体重と温度は呆気なく消えてしまった。
ようやく俺は振り向いたが、その頃には、暗闇の中には誰の姿もなかった。
溜息を吐く。頭を掻き毟る。
ソラの残してくれた言葉が甦る。
何度も何度も、頭の中で、ユキノの姿がフィードバックする。
最初は感情が希薄で、まるで人形みたいに朧げな子だった。
でも中学のクラス発表で同じクラスになったときは、顔を真っ赤にして喜んでいた。
よく毎朝、早起きして朝ご飯も作ってくれた。そんなに上手じゃなくて、卵焼きはしょっちゅう焦げていたけど。
人前ではあまり喋らないようにしていたが、ときどき目線を交わして、それで不自由に意思疎通をしていた。
校門から出ると、後ろから懸命に追いかけてくるので、よくそのまま一緒に家に帰った。逆のこともしょっちゅうあった。
俺は彼女が母親に罵られた日は、言葉を尽くして、どうにか傷を少しでも癒そうと努めた。
俺が父親に殴られるときは、いつもユキノは部屋の隅っこで震えていたけれど、その後は寄ってきて傷の手当てをしてくれた。
いつか女子たちに突き飛ばされて足を捻挫したユキノを、おぶって帰ったこともあったっけ。
あのときユキノは何も言わないで、ただ俺の首にしがみついていた。あんまり軽くて、俺は落とさないよう慎重に、速度を落として歩いたのだ。
そして――ハルトラが死んだとき弱々しく嘔吐した、震える背中。
ひいひい苦しそうに泣きながら、ハルトラを埋めるのを手伝ってくれた指先は驚くほど細くて。
俺は確かに、守りたいと思った。
この子を守ってあげなくては。その感情は決して、俺のためだけじゃない。
やさしさなんかどうでも良かった。
俺は――どんなに汚い手を使ったって、小さな手をした俺のたったひとりの妹を、守ってあげなくちゃならない。
「……はい。ユキノはちゃんと、分かっていました。兄さまがとても、優しい方だって」
今度は目の前にユキノが立っていた。
先ほどのソラとは違う。間違いなく実体だ、と、目が合った瞬間に気がつく。
俺はゆっくりと、彼女に向かって頭を下げた。
「…………ごめんユキノ。今まで俺は、ずっと君を利用してきたんだよ」
「いいえ、いいえ。謝るのはユキノの方なのです、兄さま」
しかしユキノはやんわりと首を振る。
跪くように俺の眼前に両膝を落とし、そうしてユキノは震える声で告白した。
「だってユキノの願いは――忠実な働きアリを守ること、だったのですから」




