200.門の先へ
ソラとアサクラのことは、レツさんとエンビさんが引き受けてくれることになった。
「私が責任を持って、彼をギルドまで運びます」
そう真剣な顔と声で言い放ってくれたエンビさんを、信用しない理由はなかった。
お願いします、と頭を下げた俺に頷き、エンビさんがソラを背負う。
改めて見る、ソラの顔は――なんだか眠っているみたいに穏やかだった。
その全身を穿つ、痛々しい傷跡さえなければ……今すぐにも目を覚ましそうに見えた。
「こっちはどうする? 姫抱きでいいか」
「できればおんぶで……お願いします……」
レツさんの問いかけにアサクラが弱々しい声で訴えている。
やはりレツさんもぐったりとしたアサクラを軽く背負ってみせると、俺に向かって片手をまっすぐ伸ばしてきた。
「――?」
疑問に思いつつ。
もしかして、と俺も同じように手を伸ばす。
ゴツ、と握った拳同士が当たる。
「とっとと全部終わらせて帰ってこいよ、シュウ」
「……はい。頑張ります」
この人の言葉に、さすがに沈黙を返すわけにはいかない。
俺がそう返すと、レツさんは満足そうに笑ってくれたのだった。
そうして俺・ユキノ・ナガレ・ホレイさんの4人――それに無言のアル――は、門の先へと渡ったのだった。
+ + +
門の中は、シンとした暗闇が横たわっている静かな空間だった。
「ここは……」
声も反響することなく、床に沈んでいくかのように淡々としている。
周囲を見回すと、道の先は暗くて見通せないにもかかわらず、何か光源でもあるのか、問題なく自分の顔やナガレたちの姿は視認できた。
淀んだ、洞穴のようなのに、どこまでも続くようにぼんやりとした暗闇の道が続いている。
様子は少しだけウエーシア霊山内に似ているだろうか? 危惧していたことだったが、門付近で待機していたはずの魔物の姿はなかった。あまり常識の通じる場所とは考えない方が良さそうだ。
「そういえば、お前は神サマへのお願い事は考えてるのか?」
振り返ると、考えの読めない瞳でホレイさんが俺を見ている。
――『そして勇者の願いを、この王がひとつ叶えてみせる。どんな願いであっても、な』
召喚の直後そう俺たちに言い放ったのは、ハルバニア王国の国王・ラングリュートだった。
俺の回想さえも的確に察したのか、ホレイさんが薄く笑みを浮かべる。酷薄な笑みだった。
「……ラングリュート王、なんて人物は実在しないぜ。この国を牛耳る連中の大半は神々の変装だ。
レツも、この国の人間たちも知らないことだけどな」
俺は少し迷ったが素直に答えることにした。
「もう決めてますよ、願い事は」
ただし、アルの目的は「神々を殺すこと」だ。
彼女がそれを達成するのなら、俺の願いは聞き届けられない可能性も高いんだけれど。
「…………そうか」
ホレイさんは沈黙の後に頷いた。
それから彼は、きょろきょろしているユキノとナガレの一歩前へと出る。
「この門の中は、既に神々の領域だ。常識はほぼ通じないと考えろ。
その上で……ここから神の待つ場へと向かうには、越えないとならない試練がある」
「試練……?」
「そうだ。それは――」
言いかけるホレイさんの顔が、歪む。
「……え?」
呆然とする暇もなかった。
次いで、ぐにゃり――と俺の視界が歪む。右に左に掻き乱されて、空間自体がねじ曲がっていくように。
「うっ――?」
気持ち悪さに口元を覆う。
しかしグルグルと乱されているのは景色だけではない。
俺自身も、だ。口元に伸ばした手も、足先も、どこもかしこもが歪んで、景色に溶け込もうとしている。
「ナガレ、ユキノ……っ」
俺は咄嗟に、共に門をくぐったばかりの彼女らの名を呼ぶ。
だが、姿はもう見えなかった。
そのときには俺の視界は、闇の中に鎖されていたからだ。
……………………
………………
…………
――――小学校を卒業してすぐの春休み。
父が祥子さんという女の人を連れてきた。母より若いその人は、化粧が濃くてきつめの印象だった。
そして俺のことを疎ましく思っているのはすぐに分かったので、靴下を履いてすぐに部屋を出た。隣の空き地で時間を潰そうと思ったのだ。
そして俺は、ユキノに出会う。
その子は、しゃがみ込む俺をぼぅっと眺めて突っ立っていた。俺は自分からその子に近づいていった。
白いワンピースを着ているのに、大人が被るような地味な色のローキャップで顔を隠している。ちぐはぐな格好だ、と思った。
「こんにちは」
俺が挨拶すると、びくりと剥き出しの肩を震わせたが逃げ出したりはしなかった。
「……こん、にちは」
それからおずおずと、頭を下げてくれる。このあたりでは見かけたことがない子だ。俺は確信を持って問いかけた。
「君は西下雪姫乃ちゃん?」
その子はつばに両手を掛けたまま、ぎこちなく首を傾げた。
「そうです。……あなたは?」
たぶん、俺のことはあまり聞いていないのだろう。
名前を教えてもらっていただけ、まだ俺のほうがマシだったのかもしれない。父親は酔ったついでに独りでに、再婚相手とその連れ子のことを零したという感じだったが。
「俺は、鳴海周。周り……周囲の周の字で、シュウ」
「シュウ、さん……は、ここで何を?」
「えっと……空を見てる。それとたまに地面」
正しくは、空を見るときは雲の流れや、形をよく観察している。
地面を見るときは、植物やアリや、あと転がっている石の大きさとか。近所の庭に生えた桜の木からまばらに花弁も舞ってくる。ちょっと移動するだけで気風が変わるのが、小さな旅行みたいで面白い。
「楽しい?」
「どうだろう。でも落ち着く……かな」
ユキノはキャップを外した。
そのときようやく、帽子をしていたのはざんばら髪を隠すためだったのだと俺は気づいた。
人形みたいに整った生気のない顔が、こてりと右横に傾ぐ。
「私も一緒に見ていいですか?」
変わってる子だな、と思った。そんなことを言う人には今まで一度も会ったことがない。
「いいよ」
そしてその日の夕暮れ時、ユキノはおずおずと言った。
「シュウさんのこと、兄さんと呼んでも?」
俺は面食らって、「え?」とか「ええ?」みたいな返事を返したのだったと思う。
そうするとユキノは慌てたようにローキャップを被り直した。
「あの、私……憧れていて、兄妹に。それで、そう呼びたいなと……」
「そうなんだ。別に僕は、構わないけど」
「本当ですか」
ユキノは顔を輝かせた。
今さら嫌とは言えない。俺はこくこく頷く。その申し出は――母を喪った俺にとっては、ひどく魅力的だったからだ。
父親のことを今さら、深く愛そうなどとは思わない。
別に特別、嫌いなわけでもないけれど。俺にとって父親とはそういう存在だった。居たら俺か母を一方的に殴るし、居ないなら居ないでそれだけ。感傷も何もない。
でもユキノは違う。
彼女は後から、家族になるためにやって来た。父親の再婚相手の連れ子として、だ。
ユキノの、ざんばらに切られた黒い髪の毛も、水晶玉みたいにきらきらの青い瞳も、小柄で華奢な体躯も、俺はとっても気に入っていた。
彼女が驚くほど美少女だったから――では、もちろん無い。
妹を想う兄というのは、実に立派じゃないか?
何だか弱い生き物を守る、正義の味方みたいじゃないか?
そう思うとワクワクしてきて、とてもじゃないが、ユキノの提案を撥ねつける気にはなれなかったのだ。
俺の願いの罪悪は、ここから始まる。




