198.団長で執事長
「兄さま」
しばらくその声は、俺の耳には届いていなかった。
だが、傍らのナガレは振り返って、何か彼女と言葉を交わしたらしい。
そのすぐ後、柔らかな黄金色の光が俺の身体の上に一斉に降り注いだ。
「《大回復》」
俺の耳がどうにか聞き取ったのはそれだけだった。
むしろ彼女は――詠唱破棄して、その高難易度の回復魔法をあっさりと行使してみせたのかもしれない。
黒髪の魔物にやられたばかりの左肩の激痛が、嘘のように消し去られる。試してみると、左手も問題なく動かせた。
俺が知る限り、そんな芸当ができる存在はたったひとりしかいなかった。
ネムノキの亡骸を抱えたまま、ぼんやりと振り向く。
「…………ユキノ」
ひび割れた唇からも、どうにか意味のある言葉は紡げた。
ユキノは眉を下げた、痛ましげな表情で微笑む。それは俺のよく知る、美しい少女の姿だった。
「兄さま、遅くなってすみません。ユキノ、ただいま参りました」
――ユキノ。
顔を合わすのは約2日ぶりか。でも、何か数ヶ月もの間、顔を合わせていなかったような心持ちでさえあった。
リセイナさんの掛けてくれた変身魔法が解けたいま、ユキノは濡れたように艶のある黒髪を腰のあたりまで流し、煌めく青色の瞳をした、気高い美少女然とした佇まいをしている。
その手に握られた、大きな鈴を2つ先端につけた錫杖型の杖も。真白を基調とした愛らしくも清楚な聖衣も。
ユキノ本人に違いなかった。でも俺は思わず、そんな義妹のことをまじまじと見上げてしまった。
「……もう、ユキノは、帰ってこないと……思ってた」
口にしてみると、それはどこか女々しくもある情けない言葉だった。
「いいえ。私が帰る場所はいつも、兄さまの元ですから。そんなことはあり得ません」
しかしユキノはほのかな笑みを浮かべて首を振る。
「どうしても、覚悟を定めるのには時間が必要でした。駆けつけるのが遅くなってしまい、申し訳ございません」
「覚悟……?」
ナガレが不安そうな顔をする。
というのも、ユキノのすぐ背後に、別の人間の姿があったからだ。
ホレイ・アルスター。
ハルバニア王国近衛騎士団団長でありながら、カンロジの味方としても振る舞う、謎の人物だ。
そして彼は、ユキノの魔法の師匠でもあるという。
そんな彼は俺とナガレからの注目を浴びて、落ち着かなさそうに無精髭を撫でつけた。
「そんな顔されても、別に攻撃の意志はないぜ。オレはユキノちゃんの味方をしにきただけだ」
「え?」
まったく意味がわからない。
攻撃の意図がないことを示すためなのか、両手を挙げた体勢で近づいてきたホレイさんがにんまりと笑う。
「言い換えるか。元々オレはカンロジの味方じゃない。必要に応じてそのフリをしていただけだ」
「…………」
「信頼できないか? そうだな、なら一応情報を与えとこう。お前が仕留め損ねた坊主にトドメを刺したのはオレだ」
「!」
俺の顔を見て、はっきりと言い放つホレイさん。
仕留め損ねた相手、と言われてすぐ頭に浮かんだのはイシジマの顔だ。
俺は反射のスキルを使ってイシジマの一撃を跳ね返したものの、そこで意識を失った。あの後イシジマがどうなったのかは、気になっていたが……ホレイさんが殺していたのか。
それはあながち嘘とも思えなかった。あの後しばらくスプーに残っていたリセイナさんもイシジマのことは口にしていなかったし、現時点でハルバニアの門の前にもイシジマは姿を現していない。だとしたら、どこかで既に命を落としていると考えた方が自然だからだ。
だが、それが真実だとしても――。
イシジマを仕留めたからといって、ホレイさんを信用する理由としては薄い。
それに俺自身、彼との関わりが薄いというのもあるが、フィアトム城で再会して以降の彼は、基本的にカンロジの味方として振る舞っていた。
もちろん、彼が氷のオブジェの中に隠れた俺たちの存在に気がつきながらも、黒髪の魔物を遠ざけてくれたのは承知している。あの出来事から、まだ彼だけは話の通じる相手かもしれない、と認識もしていたのだ。
それでも、明確な根拠もなく、ユキノと姿を現したからと彼のことを信用するのはあまりに危険なことに思えた。
「ホレイさんは……いったい、何者なんですか?」
俺はネムノキの身体を庇うように腕をかざしながら、そうホレイさんに問うた。
ホレイさん自身は、どこか値踏みするような鋭い目をして、俺とナガレの顔を見やっている。
彼が口を開きかけたそのときだった。
バタバタと激しく足音を、次いで鎧が鳴る音を立てながら、先ほど別れたばかりのふたりが、礼拝堂へと姿を現した。
レツさんとエンビさんはこちらを見て、ほぼ同時に叫ぶ。
「団長!」「執事長!」
思わずナガレと顔を見合わせる。
「「……え?」」
呟く声までもがきれいに揃った。ユキノは肩を竦めているだけだ。
俺とナガレがぽかんとする間にも、レツさんとエンビさんはこちらに早足で近づいてくる。
というより、ほぼ、ホレイさんに向かって一直線の迷いない足取りだ。
そして距離が近づいてくると分かったが、2人ともかなり煤だらけになっていた。派手にレツさんが炎魔法をぶちかましたのかも知れないし、苦戦したというのもあるのだろう。
「おいこの裏切り者。どの面下げて出てきたんですか、団長」
「長期休暇はもうとっくに消化済みですよ。どこで何して遊んでいたのですか執事長」
ぶつぶつ文句を、やはり同じようなタイミングで言いながら徐々に近づいてくる男性ふたり。
しかしお互いの口から漏れ出た言葉を聞き取ったのか、レツさんとエンビさんは立ち止まり……呆気にとられたような顔でしばし向かい合った。
「「……え?」」
あれ、そっちも?
だが当事者であるはずのホレイさんは、なぜかそっぽを向いて口笛を吹いている。
混沌を極める状況を見かねたのか、ユキノがよく通る声で言い放った。
「このおじさん――コホン。ホレイ・アルスターは近衛騎士団団長であり、冒険者ギルドの執事長でもあるんですよ」
「……そうなの?」
俺が訊くと、ユキノはなんだか申し訳なさそうな顔で続ける。
「そうなのです兄さま。こんなに責任感とは無縁っぽいおじさんなのに、肩書きばかりは立派なのです」
「もうちょっとおじさんのことちゃんとフォローしてよユキノちゃん!」
ホレイさんが唇を尖らせてぶーぶー言っている。ユキノは「かわいくありません」と一蹴しているが。
何てことだ。だとすると、つまり……
「レツさんを近衛騎士団にスカウトして、育てたのも……」
「はい、おじさんです」
「ギルドで「目で人を殺す」って言われてる、"殺人眼鏡執事"も……?」
「はい、おじさんです。そういうことになってしまいます……」
「なってしまいますってどういうこと!? おじさんだって好きで呼ばれてるわけじゃないのに!」
またホレイさんが拗ねている。どうにもこの人、ユキノと接するときだけは甘えたような態度になるようだ。
「いや、何も聞いてねぇんだけど。エンビ知ってたか?」
「知っていたらこんなに驚きませんよ。まったく、道理で普段、ほとんどギルドに姿を見せないと思えば……」
ため息を吐きながらレツさんたちがやって来る。
彼らは俺の腕の中のネムノキと、門の脇の血だまりの中に倒れるハラに、一瞬目線を投げたが……それについては何も言わず、ギロリとホレイさんを睨んだ。
「まぁ、今は状況が状況なのでとやかく言いたくはありませんが――全てが終わったら、事情は説明してもらいますよセバス」
これは眼鏡を光らせたエンビさんの言葉だ。
だがホレイさんはハァー、と深いため息をつき、やんわりと首を振った。
「野郎と約束する趣味はねぇ。そもそも、生きて戻れる保証なんてどこにもないぜ、この門の先には」
その言葉に、全員が一瞬で黙り込む。
代表して、俺がずっと気になっていたことを訊いた。
「もしかしてホレイさんは……5年前の《来訪者》のひとりなんですか?」




