197.本当の願い
「――――ッッッ」
引き攣るような悲鳴を。
上げかけて、しかしそれが飛び出す寸前に喉を強く抑えつけ、アルは……苦々しく、目を瞑る。
閉じた目蓋が震え、そこから雫が流れ出してしまいそうな予感だけがあった。
しかし、そうはならなかった。神には、涙を流す機能がないからだ。
ただ、生前の――ナルミ・ユキノとして生きていた記憶が、鋭く、感覚だけを突きつける。
いっそ泣けたほうがまだ楽だっただろうか? それほどまでに、目蓋の裏は熱く火照って、喉奥が焼けつくような熱を放っていた。
ルメラが、言う。
「死んじまったなぁ、ネムノキ」
アルはあまりに淡々としたその言葉に、ただ顔を上げた。
椅子の上にふんぞり返ったルメラは、もうぴくりとも動かないネムノキの姿が投影される画面から目を離した。
そうしてアルと目が合うと、楽しげに顔全体で笑う。
「……なんてな。知ってるぜ、アル」
「……何をですか」
どうにか短く、それだけを返す。
どこまでもルメラは容赦がなかった。
「ネムノキが死んだのはお前の所為だ」
「――――、」
突きつけられた。
ナイフよりもずっと鋭い言葉が、容赦なくアルの心を抉る。
「お前、契約者にも関わらず、ネムノキの願望を的確に読み取ってなかったな」
「…………」
もはや、震える青い唇からは言葉さえも紡ぐことができない。
それを良いことに、ルメラは歌うように、先ほどの続きを口にする。
――「役に立てる自分でありたい」女には、託宣の神の祝福
――「いちばん速くありたい」女には、時と機会の神の祝福
――「自分だけを見ていてほしい」男には、催眠の女神の祝福
――「好きな人に歌を聴いてほしい」女には、愛と音楽の女神の祝福
――「自分を捨てて楽になりたい」男には、工芸の神の祝福
――「人でなくとも誰かと繋がりたい」女には、森と動物の神の祝福……
そして、とつけ加えるように言った。
「――「哀しい女の子を宿命から解き放ちたい」男には、束縛と氷結の女神サマの祝福を――ってな。
シュウじゃない。ネムノキが解放したかったのはお前だぜアル」
しばらく、アルはその言葉の意味が理解できなかった。
だけれど、記憶の中に――ほぼ記録として整列させられただけのその中に、確かに、残っている。
神々との会議に定期的に出席するこの身体……メインコンピュータとしての役割を担うアルは、ネムノキと顔を合わせたのは一度きりだ。
契約者の願いを汲み取り、それをスキルに昇華させる力は、このアルしか持っていないためである。日本で事故に遭って命を落とした直後のネムノキと出会い、アルは彼に"開放解錠"というスキルを与えた。
そのとき、アルはネムノキに確かこう言ったのだ。
『このスキル、かなり役立つと思います。それに兄を死の運命から救いたい――解放したい――そんな祈りが込められた、あなたらしいスキルです』
そんな風に、彼のリミテッドスキルを評したのだ。
ネムノキは――笑ったのだったと思う。何も言わずに、静かに、でも少しだけ困ったような顔をして。
どうしてそんな顔をしたのか、あのときは分からなかったし、わざわざ思考を割くこともなかった。
でも、もしも――ルメラの言う通りだとしたら。
私は彼に、とんでもない重荷を背負わせていたのではないか?
彼が命をなげうってまで、アサクラを助けたのだって……あの保健室で、端末たる小さなアルが、あの話をしたからではないか?
もともと、ネムノキはベータ世界のシュウを救うためだけに、アルに協力してくれたのに。
いつの間にか、彼は、そうではなくて……このアルを救うために、行動していたのでは、ないか?
本人もどこまで認識していたのかは分からない。ただ、少量の毒が少しずつ神経を侵していくように、ネムノキの願いは変質していったのかもしれない……。
「……だとしたら」
「ン?」
俯けていた顔を上げて。
アルは、不敵に笑った。
「だとしたら、やはり、彼は――ソラくんは私の、最高のパートナーだったようです」
「……ほう?」
どこか面白そうに目を細めたルメラが、胸の下で腕を組む。
アルは勢い余って椅子から立ち上がり、堂々と言い放った。
「私は彼の死を悼みません。むしろよくやってくれた、とスタンディングオベーションが正解です。
彼の頑張りは必ずカンロジ・ユユを追い詰める。私に未来視の能力はありませんが、それだけは分かるからです!」
そう、人差し指を突き抜けて言ってやった。
そしてまた、勢いづけてドスンと座る。周りの神々はすっかり度肝を抜かれた顔を見合わせていた。
さすがに驚いたのか、ルメラは唖然とした顔をしていたが……やがて「くふっ」と笑みを洩らした。
「アル、お前やっぱ……それなりに面白いな」
「ええ、そうでしょう。私はそれなりに面白い女神様です」
ふん、とそっぽを向く。
こんなに大きな声を上げて、怒鳴るみたいに喋ったのは生まれて初めてのことなので、そうしているとだんだんと頬に熱がのぼってきたがそれは無視する。
ネムノキがその命を賭して、成し遂げてくれたことがあるのだ。
だったら契約者である私が、それに応えなければ。そうじゃなければ彼が――報われないじゃないか。
その一心だった。いつの間にか涙の気配は引っ込んでいて、だから、ただ堂々と振る舞っていたかった。
そんな風にルメラと火花を散らしていると、ふと、「ルメラ様」と声が上がった。
見れば、ミズヤウチの契約者であるカイオス――前髪が異様に長いが、その髪の間から覗く風貌はひどく美しい――美少年が、まっすぐ手を挙げていた。
カイオスはどこか覇気のない声音で言う。
「後半、わざと出席番号順を逆さまにしてましたが。ナルミ兄妹の願いとは。結局何だったんですか」
「む……? そういえばそうですね? 今のだと、その2人の解説が含まれてませんよ?」
長い話に飽きてうたた寝していたラグウェルが飛び起きて、涎を拭いながら言う。
ああ、とルメラは頷いた。もちろんそれはわざとだ。
「答えを聞く前に想像してみろよ。けっこう愉快な願いなんだから。なぁ、スカジィ?」
「えっとー……そうですね? はい、愉快かもしれません」
やはり紅茶をごくごく飲んでいたスカジィが、慌てて頷く。
「えー……ナルミ・シュウは"略奪虚王"で? ユキノの方は"兄超偏愛"でしたよね?」
「素直に捉えるなら。兄は「他人から大切なものを奪いたい」で。妹は「兄のことだけを守りたい」ではないですか」
カイオスが言うのに、きっとそうに違いない、とラグウェルは納得しかけるものの、
「それじゃスキル効果と直結しすぎだな」
ばっさりルメラに両断される。
そのくせ特に有力なヒントを与える気もないのか、ルメラはにやにやと笑っている。
黙り込んでしまったカイオス。おろおろとラグウェルは小首を傾げた。
「ええっと? ナルミ兄妹がリミテッドスキルを作るには、ルメラ様とスカジィちゃんの能力特性と一致する願望が反映されるわけだし……? うーん……? ますますわからないですよっ?」
ラグウェルはすっかり困惑して、そして思い通りにならないのも悲しいので、興味を移して先ほどから流したままの画面の方に目をやった。
そこで「あっ?」と呟きを漏らす。何人かの視線がラグウェルと、宙に浮くモニターに向かった。
「見てみてください? ネムノキ・ソラが死んだ後――ほら、真打ち登場です?」
ラグウェルが指差す先。
モニターの中で、亡骸を抱いたまま座り込むシュウの背後に、ひとりの少女の姿が迫っていた。




