196.君は眠るように
途端。
『ギ、ィッ――――?』
実に不可解そうな、奇妙そうな鳴き声を最後にして。
その魔物の姿が、掻き消えた。
正しくは、俺がそのほっそりとした手足に押しつけた黒い箱の中へと、瞬時に吸い込まれていた。
あとには静寂だけが残る。
俺は何の温度もない正方形の箱の、開けていた蓋部分を閉じてから、それを呆然と見下ろした。
「……やった……」
出来た。
勝ったわけじゃない。でも、不利な状況下から強制的に戦闘の終了まで持って行けたなら、それは勝利と捉えて良いはずだ。
俺は初めてハラの魔法を目にしたときから、その魔法の本質について考えていた。
人でも物でもいくらでも、黒い箱に入れて持ち運ぶことができる。それだけ聞くと便利な力だ。でも。
塵芥黒箱"。
つまり、それが正しくゴミ箱だというのなら。
持ち運ぶことが本質ではない。このスキルは本来、不要なものを捨てるための力なのだろう。
このスキルをどうしてハラが得たのか。
目を見開いたまま動かなくなっているハラには、もう聞くことは叶わない。
それでも、中学一年生の頃、彼と河原でキャッチボールをした日のことが、ほんの少し脳裏を過ぎった。
……だけど、ここで立ち止まっている時間はない。
――ソラ、を。
彼を、助けなければ。
妙にふらふら、揺れる頭でどうにかバランスを取り、振り返る。
その弾みにも転びそうになる。頭に靄がかかっているような違和感があって、少し気を抜けば卒倒してしまいそうだ。
そこで、危なっかしいのを見かねたのかナガレが肩を貸してくれた。
ありがとう、と俺は言う。ちゃんと言えたはずだ。
「ああ……シュ、……ウ」
すぐ近くにある、整ったナガレの表情が大きく歪んでいた。
目尻には、涙の粒が浮かんでいる。どうしてだ? 俺はそんなことをぼそぼそと問うた。
ナガレが答える。
「だって、シュウが……傷ついている、から……」
俺が、傷ついている?
ようやくそこで俺は、自分の身体が何かおかしいのに気がついて見下ろした。
左肩の肉が丸ごと削げ落ちていた。
繊維が引きちぎれているからか、その下に奇跡的にまだくっついている腕は、そのせいでうまく動かせないらしい。
剥き出しのピンクの断面を、しばらく呆然と見つめる。何だか痛みらしい痛みも感じないから、現実のことじゃないみたいだった。
もしかすると俺は既に死んでいて、だから痛みがないのか。だとしたら心臓にも穴が空いてるんじゃないかな。あながち間違ってもいない気がする。
魔物は――ユキノの身体は、俺が箱をぶつけるその瞬間、あの髪の毛を伸ばして俺を攻撃したのだろう。
受け身を取る余裕もなかったので、それで大いに一撃を喰らったのだ。あのままやられるよりかはマシだっただろうけど、些か格好はつかなかった。
俺はナガレに導かれるようにして、ソラの傍らにしゃがみ込んだ。
するとソラは、口の中で何か言葉を転がしつつ、ぐらりと倒れ込んできた。
そのままうまいこと、俺の膝の上に転がってくる。
冗談みたいな調子だった。いっそわざとか、とも思う。
それでまた、ぺらぺらと呑気な話題でも振ってくるのかと思いきや、
「……大丈夫」
と、ひび割れた声で囁く。
「間に合った、と思う。しばらく経てば、起きるよ、アサクラ。……うん。良かったぁ」
その言葉と同時に、アサクラの身体が、再びの黄金色の光へと包まれた。
未だ俯せのままのアサクラだが、その全身から流れていた血は、いつしか消え失せていた。
いや、消えたわけじゃない。アサクラの体内へと戻されたのだ。
そこで遅れて気がつく。先ほどソラが口の中で唱えたのは《半蘇生》だ。
たぶん最後で最後の、それが彼の魔法だったんだろう。
「……ソラ」
「……今もソラって、呼んでくれるんだ。全部もう、知ったのに」
そんなことを笑顔で口にするソラは、俺の状態には気づいてないようだった。
目を開いている。だけど目の焦点は合っていない。膝の上から俺の声がする方をどうにか見上げて、眼差しはぼんやりとしているだけだ。
「あの、シュウちゃんだけじゃない……キミだって……、ボクのこと、恨んでるはず、だ」
「……何で俺が、ソラを恨むんだよ」
「だって……ボクが、修学旅行に行くキミを、止めていれば……」
震える腕が、俺の服を掴む。
ソラの真っ赤な瞳から、ぽろぽろと、涙が零れ落ちていた。
「違うんだ……ほんとは、もっと前……キミじゃなくて、ボクが、車に轢かれるべき――だったのに」
誰かが嗚咽する声が、耳朶を打つ。
ナガレだろうか? それとも、アル? それとも……。俺にも、もう分からない。
だけど一つだけ、分かりきっていることがある。
ソラの言葉は、決して正しいことじゃない。
もし、そんな理由で彼が――記憶を取り戻し、ソラの過去をも知った俺を避けていたというなら、そんなのを俺は、認めるわけにはいかないのだ。
「知らない」
「え……?」
短く突っぱねると、ソラは困惑したような、悲しげな顔をした。
俺は首を振って、堂々と言ってやった。
「そんなの、分かりようがない。過去のことなんて、今さら、どうこう言ったって仕方ないだろ」
「そりゃー、そうだけどさぁ……」
ソラが唇を尖らせる。
困っている顔なのに、なぜか少し楽しそうで、満足げでもあった。
「でも、ボク、ちょっとはがんばった、よね? シュウちゃんの友だちを……アサクラを、助けられ――」
ソラが激しく咳き込む。
血の塊を吐いて、それから苦しげに身震いをした。次第にぐったりと、華奢な身体からは力が抜けていくような感じがした。
どうしても引っ張り上げたくて、俺はそれこそ血を吐くように言い放った。
「お前はほんとバカだ」
バカだ。
すっごくバカだ、本当に。
何もかも記憶を忘れても、ちゃんと残っていたものはあった。
ソラのことを思い出せなくなってからも、俺はよくひとりで空を見上げて、蟻の行列を凝視して、落葉を追いかけて、いろんなところに出掛けていった。
ユキノに出会ってからもそれを教えた。ユキノは俺ほどではなかったが、よく真似をして花弁を追いかけてテッテと走っていた。
それは、ソラの教えてくれたことだ。俺の知らなかったことだ。
だから今さら、望みが叶うなら。
こんな時じゃなくて、もっと、長く、ゆっくり、話がしたかったのに。
「何にも分かってない、俺のこと。勝手に決めつけてるだけだ。いつも」
違う。
こんなことを言いたいんじゃない。
頭の芯が熱くなって、グラグラ茹だって、揺れて、目の奥にマグマを飼っているみたいな感触がする。
喉仏からも、何か、ひとつの言葉を放つたび、血やらマグマやら、煮えたぎった何かが飛び出しているようだった。
それでも振り絞らなくてはならなかった。伝えなくてはと全身が訴えている。
だってもう時間がない、
「ソラだって」
とうとう、沸騰した何かが零れ落ちる。
「ソラは、俺の友だちだよ。ずっと前から、そうだったんだ」
ソラの青白い頬の上に、いくつもの水滴が流れていた。
堰を切ったみたいに流れ落ちていく。抑えることはできなかった。
今まで、心のどこかで抑制されていた感情の渦のようなものが、溢れて止まらなかった。いったい自分のどこにそんなモノが隠されていたのか、不思議でならない。
顔をぐちゃぐちゃにして泣く俺の頬に、やがてそっと、ソラが手を伸ばしてきた。
目の下を柔らかく擦られる。その手は恐ろしいほど冷たく冷え切っていた。
「……シュウちゃん。ボク、キミのことがとても、好き」
大好きだよ、とソラは夢見心地に繰り返す。
俺はその氷のような手に自分のそれを重ねた。感触で気がついたのか、ふふ、とソラが微笑む。
「出逢った頃からさ。キミがいちばんキレイで、優しくて、悲しかったから」
「…………」
「だから……ちょっとだけ、怖いんだぁ。……でもシュウちゃんがぎゅってしてくれたら、きっと平気だよ」
俺はそっと、ソラの冷たい身体を片手で抱き寄せた。
その拍子に噎せ返るほどの、むわっとした血のにおいが鼻腔に溢れる。それでもより強く抱きしめた。
所々が赤く汚れた白髪に、顔を埋める。怖くなるほど痩せ細った身体なのだ。
でもこうして腕の中に居たら大丈夫だろう。大丈夫のはずだ。
祈るような気持ちで、ただ、問うた。
「…………これでいいか?」
「……うん」
ソラはそう答えて、やはりうれしそうに笑った。
それから何を訊いても、答えは返ってこなかった。




