194.伸ばす手
俺はカンロジが、どんな風に生きてきたのか知らない。
ナルミ・シュウだった頃のことも、カンロジ・ユユに生まれ変わってからのことも、ほとんどだ。
何せ俺は、クラスではカンロジとほとんど話した記憶もない。可憐なカンロジは男子には人気があったが、まさしく高嶺の花という感じで、どこか近寄りがたい雰囲気をまとった少女だった。
しかし恐らくはその頃から、カンロジは俺のことをよく知っていた。そのはずだ。
俺やユキノのことを――カンロジはどんな気持ちで見ていたのだろう。
「…………シュウちゃん」
振り返る。
礼拝堂の、半壊した瓦礫の中を進んでくるのはネムノキだった。
その肩に乗っているアルが、眉を寄せて難しい顔をしている。アルはたぶんカンロジのことを見ているようだったが、ネムノキの目線はその先の、未だ倒れたままのアサクラへと強く注がれているようだった。
「お前――。レツさんやエンビさんは?」
すぐ傍まで寄ってきたネムノキが言う。
「橋のところで戦ってくれてるよ。全部蹴散らすにはもう少し時間かかるみたい」
耳を澄ますと、確かに、遠くから爆音のようなものが聞こえてくる。
《来訪者》であるネムノキを礼拝堂に行かせることを優先してくれたのか。
その気遣いは有り難かったが、しばらくレツさんたちはここには辿り着かないだろう。そうなると、よりこの局面は厳しかった。
カンロジ・ハラ・黒髪のバケモノを相手取って、俺・ナガレ・ネムノキで――どれほど凌げるのか。
一刻も早くアサクラの元に駆け寄りたいのに、それが許されない状況下だった。
「それ……アサクラは……?」
ネムノキの問いに答えようとした俺より先に、カンロジが口を開く。
「殺しちゃいました! だって彼、すごく不愉快でしたので」
着物の裾をミニスカート丈にしたカンロジが、満足そうに一回転しつつ、にこりと微笑む。
ネムノキは何ともいえない微妙な表情をしつつ、「そう……」と低く呟いた。
それから、俺やナガレにだけギリギリ聞こえるほどの音量で、
「そう――シュウちゃんを不快にさせたんだぁ。アサクラもなかなかやるね」
「ですね。まぁ、こっちの兄さんと比べれば、あっちの兄さんの沸点はかなり低いのですが」
そんなことをアルと遣り取りしている。
カンロジは少々訝しげな顔をしていたが、特に何も言わなかった。
僅かな空白の時間が流れると、ずっとそのときを待っていたかのように、今までずっと黙り込んでいたハラが口を開いた。
「か、カンロジさん」
「何ですか?」
カンロジが気のない返事を返す。
ハラはたじろいだようだが、それでも言葉を続けた。
「あ、あの。そろそろ門の中……行かない? その方が安全だよね……?」
もじもじしているハラの腕の中には、あの黒い小箱"塵芥黒箱"が大事そうに握られている。
俺はそれで、少しばかり期待する。
どうやらハラのスキルを使って、カンロジはいつもその黒髪の魔物――ユキノの肉体を、箱の中に仕舞って持ち運んでいるようなのだ。
つまり、門に入るついでにこの魔物も、回収してくれる可能性がある。そうなれば、この先の難易度は格段に下がるのだ。
しかし、
「……そうですわね。では、このバケモノはここに放置して、わたくしたちは進みましょうか」
あからさまにニヤつきながらカンロジが言う。俺は思わず舌打ちの一つでもしたくなってしまった。
まあ、当然のことだ。門に向かったアサクラと礼拝堂で衝突したということは、カンロジも高確率でここを張っていたのだろう。
その目的はたった1つ。門を目当てに向かってくる《来訪者》たちを妨害することしか考えられない。ここで、彼女にとって大事な駒だろう黒髪の魔物を、大人しく手元に戻してくれるわけもないのだ。
目を細める俺と、笑いかけてくるカンロジの目線がはっきりと交差する。
――だが次の瞬間だった。
あまりに思いがけない出来事が起こった。
驚いたのは俺だけではなかっただろう。
隣のナガレも息を呑んだし、遠くに佇むカンロジに至っても、その蜂蜜色の瞳を大きく見開いていた。
ネムノキが。
何の躊躇もなく、カンロジに向かって駆け出していた。
彼が足を動かし、疾走するたびに、その白い髪の毛がさらさらと大きく揺れる。
止める暇もなかった。反射的に伸ばした手は空を掠めて、届くことはなかった。
「…………?」
カンロジは、唐突な出来事に頭が追いついていないのか、ぽかんと間の抜けた表情をしている。
唖然とするカンロジとハラをも、しかしネムノキは通り過ぎる。
駆け寄り、しゃがみ込んだのは――アサクラの傍、だった。
そうしてネムノキは、口を開く。
「……聖なる光、清浄なる息吹をここに」
詠唱が始まった途端。
『ギイイシャアッ!』
まさしく牙を剥くようにして。
そこらを走り回っていた黒髪の魔物は、その長い髪の毛を剣のように鋭く尖らせ、切っ先をネムノキへと向けた。
詠唱中のネムノキが防御できるはずもなく、その攻撃は彼の無防備な両膝を突き刺す。
「……ッ」
ネムノキの顔が、苦痛に歪む。
しかし口の動きは止まらなかった。
「八つ裂かれし痛ましき身に慈悲の抱擁を。彼の者の傷をあまねく癒せ。――《半蘇生》!」
その足元に、黄金色の紋章が現れ、魔法が発動する。
それは半年前――正確に言えば2年半前、カワムラに使役されていた頃のハルトラによって殺されかけた俺を甦らせたユキノが使った超高難易度魔法、《半蘇生》だった。
いつの間にネムノキはその魔法を習得していたのか。前に"矮小賢者"で覗いたときは、覚えていなかったはずだ……。
だが、それよりも俺が驚いたのは、その魔法効果が霧散せず、黄金色の光の粒が次々とアサクラの身体に吸い込まれていったことだ。
本来、既に対象者が死亡、あるいは致命傷を負っている場合、いかなる回復魔法だろうとその効果は消失してしまうはずなのに。
つまり、
「……アサクラは生きてる」
呆然と、呟く。
うん、とナガレが頷いた。
「アサクラくん、生きてる。ネムノキくんは気づいたんだ。だから……」
泣き出しそうな声だった。
俺は一度、ナガレの顔を見て頷き合うと、ふたり同時に走り出した。
何故かカンロジは、俺たちの動きを阻害する様子もない。
カンロジとハラの前を素通りして、前方に躍り出た俺は、さらにネムノキに攻撃を加えようとする黒髪の魔物に短剣の切っ先を突きつける。
『ギギィッ!』
攻撃に気がついた魔物は飛び退りながら、30本ほどにもなる長く太い髪の毛の束を伸ばしてきた。
向かってくるそれらを追える限り、切断する。切り刻む。
そして背後でしなるように鋭敏に動く大鎌が、差し向けられる黒髪の束を次々と切断していく。俺が防ぎきれなかった攻撃を、ナガレが処理してくれているのだ。
だが、それでも、どうしても……足りなかった。
アサクラの近くは地面が一部凍っていて、恐ろしく動きにくいというのもあるが。
その場から一切動かずに詠唱し続けるネムノキを、守りきれていない。
こうしている間にも、攻撃のいくつかを食らって、華奢なネムノキの身体が何度も大きく揺れていた。
視界の端に、赤い色さえもがちらつく。気持ちは焦るばかりだった。このままじゃ――
「クソ……ッ!」
それでも猛攻は止まない。
どんなに切り伏せたところで、魔物は何度もその濡れたような髪の毛を生やし、伸ばしては、好き勝手にあらゆる角度から攻撃してくるのだ。
『シャーッ! シャシャシャッ!』
どうやら、楽しんでさえいるらしい。元々はアルファ世界のユキノの肉体であったはずのそれは、今や見る影もなく、毛玉の中から伸びた白い手足を叩いて喜んでいる。
「ネムノキくん、どうして――」
アルもひどく困惑しているようだったが、その問いかけにも、ネムノキは応じなかった。
「聖なる光、清浄なる息吹を……ここに……」
ただ、口端からぽたぽたと、血の雫を垂らしながら、何度も詠唱を続けていた。
どうして、とアルが何度も言う。甲高く、痛々しい声音で、喉を震わせて叫ぶように言う。
「どうして……何で、アサクラくんを……? どうして自分を――回復させないのですかっ!?」
本来、ネムノキが得意とするのは《全体回復》。この世界では極めて珍しい全体回復魔法だ。
しかしそれを、この状況でネムノキは使っていない。その魔法能力の高さでいえば、魔物の攻撃を受け続けたとして、凌げる可能性もあるのに、だ。
俺はその理由を、たぶん、正しく理解できていた。
広範囲を満遍なく回復する《全体回復》では、間に合わないのだ。
僅かに呼吸はあるとしても、アサクラの容態はそれほどまでに悪いのだろう。
だからネムノキは、《全体回復》を使わない。自分のことは捨て置いて、アサクラだけを助けようとしている。
そんな余裕はなかったが、もし出来ることなら、俺だってアルのように叫びたかった。
ネムノキはずるい。それでは、とてもじゃないが、文句なんか言えない。責められるわけがない……。
「うーん。アサクラくんと同じでネムノキくんって、意外とおバカさんなんですね」
しばらく俺たちの様子を見つめていたカンロジが、かわいらしく小首を傾げる。
「彼は助かりませんよ、その傷ですもの。このままだとあなた無駄死にです。いいんですか? 門も目の前にあるのに」
「……いいよぉ、別に。死ぬのはずっと前から覚悟してたしねぇ」
今や全身から真っ赤な血を噴き出して。
頭からもだらだらと血を流しながら、詠唱の合間にネムノキが笑う。
「……ねぇ、シュウちゃん」
その呼びかけに、俺は振り返らなかった。
しかしどうやらそれは、正解だった。ネムノキが呼んだのは俺ではなく、カンロジだったらしかった。
「やっぱりキミは、ボクを恨んでる?」
「はい?」
「恨んでるよね。当たり前だ。だって、」
そこで、小さな深呼吸を挟んで。
ネムノキは言い放った。
「ボクの所為でキミは――母親を殺したんだから」




