192.敗北
シュウが礼拝堂に侵入するための作戦を決行した頃から。
時は少し遡り、礼拝堂にて。
――長引けば不利。
それは最初から分かっていたのに、未だ仕留めきれずにいる。
血が流れ続ける腹部の傷を抑えながら。
アサクラは弓に次の矢を番えつつも、懸命に、暗闇を見据える。
次第に目が慣れつつあって、朧げではあるが……ほんの僅かに、着物の帯に使われている金糸……それが視界の端にちらつく。
既に相手はシュウの姿から、いつも和装の甘露寺ゆゆの姿形を取っているらしかった。シュウの身体よりかは小柄ですばしっこいためだろうか。
しかし今は、そんな事情はどうでもよかった。
「ッ!」
全身の力を振り絞って矢を射る。
が、カンロジは死角からの一撃だろうそれを――紙一重で避けた、ようだった。
ひとり分の足音と共に、ゴッ、と大理石の床に当たった矢がへし折れたような音がしたからだ。
――くっそー。
カンロジの目の前から姿をくらました直後から――アサクラは自身のリミテッドスキル"目覚時計"を使って、あらゆる場所からカンロジに言葉を投げかけ、その精神を不安定に揺らした。
「――おれに、シュウを嫌ってほしかった?」
「狙ってたのは君と、ハラに、イシジマ」
「シュウやウッチャン、ユキノちゃんの障害になる君らを、おれがここで倒す」
礼拝堂内、あらゆる場所に、能力によって生み出した光る針を設置し、包囲網を張り巡らせた。
"目覚時計"はアサクラ自身が聞いた記憶のある音声しか再生することはできないので、それらのほとんどは、事前にアサクラが口にして記録していたものである。
だが、さすがに、いつまでもそんな言葉に動揺しているカンロジではなかった。
矢は数本……おそらくは3本は当たった。カンロジに命中していた。でもその動きを止めるまでには至っていない。
スプー付近で自ら傷つけた左手の傷が治っていなかったことからも、カンロジや、カンロジの仲間は回復魔法が使えないと考えられる。
だがそれはアサクラも同様だった。この場に回復魔法の使い手であるリセイナやネムノキは居ない。このままではじり貧で、傷の深いアサクラの方が先に音を上げるだろう。
カンロジもそれを理解しているからか、不用意に仕掛けてこなくなったし、歩き回るのもやめたようだ。それが最も効率的だと、もうあちらも気づいている。
だからこそ、暗闇の中でお互い、息を潜めて相手の出方を探っている。そんな状態が続いていた。
というか既に、目が霞み始めてるし……弓を扱う手のほうも、震え始めてるんだよなぁ。
と、弱気なことを考えかける。
そんな思考をどうにか断ち切って、アサクラはまた、新たに生み出した光の針を左方に向かって投げつける。
そうしながら再び、矢を番えた。背負った矢筒の中にはもう残り本数も2本しかなかった。不用意に回収できない以上、チャンスはあと2回に限られている。
音声の再生は13秒後に設定した。それにつられてカンロジが何か行動を起こしてくれれば、勝機にだって繋がる。
ふぅ、と音を立てずにゆっくりと呼吸した直後だった。
あの、金糸の刺繍が――視界の端を軽やかに舞う。
「!」
その軌跡を捉えた直後、アサクラは鋭く矢を放っていた。
一撃が間違いなく、捕らえる。貫通する。確かな歯応えが手に残る。
よし、と思わずアサクラは拳を握った。
だが、
「な――――」
その1秒後、響いた音を前に一瞬、全身を硬直させる。
……矢に射貫かれた人間が倒れるような音じゃない。そう大きな音ではなかった。
違う。今のは、軽い何かを……そうだ、衣服を脱ぎ捨てたときのような、
気がつくとほぼ同時だった。
唇と唇が触れ合うほど間近に、カンロジの顔があった。
――しま
まとった着物は着崩れて、首筋から雪のように白い肌と、鎖骨のラインが覗いている。
帯を外していたからだ。アサクラは、彼女が投げ捨てた帯の方を、むざむざと射ていたのだ……。
「っ!」
笑ってみせた美貌が、手にした短剣をかざす。
首筋を、横一線に切りつけられる。驚くほどの熱さが感覚を埋め尽くして、視界が赤く染まる。
だが浅い。シュウの体格ならいざ知れず、華奢なカンロジの繰り出した一撃ではアサクラを仕留められない。
それを当の本人も理解したのだろう、カンロジは更なる追撃を仕掛けようと右手を短剣ごと伸ばしてくる。
「ぅっ!」
体勢を崩しながらも、反射的に手に取っていた最後の矢を、アサクラはほんの僅かに躊躇いつつも、カンロジの右手の甲へと突き立てた。
「う――ああっ!」
痛みに声を上げ、カンロジが手にしていた短剣を取りこぼした。
そこで何だか場違いなくらいに。
先ほどセットした音声が、礼拝堂の中に響き渡った。
「カンロジさんは、シュウになりたいの?」
ほんの数秒間。
まるで時が止まってしまったように、カンロジが動きをぴたりと止めた。
アサクラはその隙に、彼女が取りこぼした短剣を思いきり蹴り飛ばす。
床の上を刃物が滑っていき、すぐに見えなくなった。そして、
「…………五月蠅い」
思わず、硬直していた。
カンロジが、濁った瞳でじいいっと、鋭く矢が突き刺さったままの右手を見つめている。
さらさらの、色素の薄い髪の毛がアサクラの頬をくすぐる。
今や肌襦袢が見えるほどはだけた胸元を、カンロジは隠そうともしなかった。
そのとき、彼女が何を考えているのか、その一端さえもアサクラには理解できなかった。
「五月蠅い。五月蠅い五月蠅い五月蠅い。……アサクラ。お前、邪魔――だ」
カンロジの姿を保っているときは、丁寧な言葉遣いを維持していたが、今の彼女にはそんな余裕さえないようだった。
獰猛に血走った眼球をぎょろりと動かして、カンロジはアサクラを見下ろす。
逃げなければ、と全身の感覚が訴えてくる。だが首から上も、上半身も、もうほとんど、動かせない。
足だけをどうにか動かそうとしても、カンロジに馬乗りになられたせいで、両足はむなしく空転するばかりだった。
カンロジはさらに言う。
「もう、いい。もう容赦はしない。お前は殺す必ず、殺す。ここで殺す殺す殺す、殺す」
静かな激昂だった。
先ほどのアサクラの言葉はおそらく、カンロジの中の地雷を踏み抜いたのだ。
それを理解したアサクラはしかし、怯んだりはしなかった。ただにやっと、口角を上げるだけだった。
「……何だ。ちょっとは人間らしいとこあるじゃん、カンロジさん」
発言が許されたのはそこまでだった。
ゆらり、と立ち上がったカンロジがぼそぼそと呟く。
「定義。アサクラ・ユウを排除せよ。ただし識別コード“0”は除外。アサクラ・ユウだけを、この男だけを、完膚無きまでに殺せ」
「…………」
これから何が起こるのか。
カンロジがいつの間に取り出していた、黒い小箱――そこから見覚えのある白い指が覗いた直後、アサクラはすべてを悟る。
絶望の象徴。おそらくは傷ついたアカイまでもを手にかけた――そのバケモノ。
アサクラにとっては憎むべき、復讐すべき相手だった。しかしアサクラでは手が届かないほど強大な敵でもある。
そんなのが今さら現れるというのは、些か反則じみた気もしたが……そんなことに文句が言える立場でもないようだ。
「……悪い、シュウ」
手足を投げ出して、床に横たわる。
目は開けたままだったが、動く気力はなかった。さすがに血を流しすぎた。
残念だがここで終わりのようだ。
「――――――来い、ユキノ」
絶望の言葉と共に。
咲き誇る氷の華は一瞬にして、倒れ伏すアサクラを貫いた。




