182.病んだ日
時は2年半前へと遡る。
それは、新たな《来訪者》が30人召喚されてから、数日が経った夜の出来事だった。
「……おいっ! アサクラ、アサクラ!」
アサクラはそのとき、ベッドで気持ち良く眠っていた。
というのも、ハルバニア城の客室は特別豪華な仕様というわけではなかったが、ベッドの寝心地の良さは完璧だったからだ。
日本に住んでた頃は味わったことのないような、ふわふわの肌触り。弾力。堪らなかった。物の価値に詳しいわけではないが、これは高級な代物に違いないとすぐ気づいた。そういうのには目敏いのだ。
アサクラ・ユウは、寝るのが大好きである。
もっと言えば、起きるのが苦手であった。寝起きが悪いのだ。
遅刻した回数は数知れず。授業中の居眠りの回数はもっと数知れず。
本人はすこぶる明るく、いわゆるムードメーカー的な役割を果たす性格なものだから、教師や生徒たちからバッシングを受けることは少なかったものの……友人であるアカイにはしょっちゅう叱られていた。
その日――既に日付が変わっているため、正しくは昨夜となるが――アサクラは礼拝堂への呼び出しを受けていた。
ラングリュート王の使いだ、と名乗った兵士はそれだけ言うとさっさと消えてしまった。ちゃんとした説明もなく、だ。
これにはアサクラも立腹した。というわけではなく、夜になるとすっかり眠気が勝り、ウトウトし始め、最終的には呼び出しのことなどすっかり忘れて眠りこけていた、というわけだった。
「早く起きろ! 起きてくれってば! 大変なんだよ!」
「……んぐぐぐ」
しかしそんな健やかな眠りを、妨げる声がする。
よく知っている声だ。しかしそれだけならば、アサクラは決して目を覚ますことはなかっただろう。
だがその日は、その声の調子がいつもと違っていた。不安そうに揺れ、掠れて、戸惑いを滲ませて語尾は震えていた。
夢現の状態ながら、アサクラが目を開けたのは、ほとんど奇跡だったといえよう。
「なん、だよ……コースケ……むにゃ」
そのまま再び、重そうな目蓋が閉じかける。
が、その目蓋を思いきり上に向かって引き揚げられた。
「イテテテ!」とアサクラは悲鳴を上げる。なんてコウスケだ。アカイじゃあるまいに!
「アサクラのアホアホバカバカさっさと起きなさいってアラタが言ってるでしょ!」
って、アカイじゃん。
ビックリしてアサクラは覚醒した。ここは自分の部屋なのにアカイが居る。
その隣にはコウスケまで居る、何で? パーティ? サプライズ?
「え……なに……?」
そしてアサクラは、愕然とこちらを見る親友2人の顔に気づいた。
何だその顔、と胡乱げに見遣るものの、その間にもこじ開けられたままの瞳が痛んで「くう」と唸る。
するとアカイはびっくりしたように両手を引っ込めた。ドライアイがどうにか治まってほっとするものの、
「お前、それ」
コウスケに顔を指差され、きょとんとしてしまう。
そのとき、実際にまだ、アサクラは何も知らなかったのだ。
血蝶病の発症を示す、蝶の形をした赤い痣。
アサクラのそれは、自分でも滅多に気づくはずもない――目蓋の裏側にあったのだから。
+ + +
礼拝堂から逃げてきたコウスケは、他のクラスメイトの身に起こった出来事をわかりやすくアカイとアサクラに話してくれた。
コウスケ自身はその呼び出しを受けていなかったが、隣の部屋のメラに頼まれて礼拝堂までついていったらしい。
そこにはコウスケを含め18人ほどの生徒が集まっていた。城に居た生徒は全部で27人なので、ちょうど3分の1の生徒は呼び出されなかったような形である。アカイもその1人だった。
そこで、ほとんどの生徒の身体に赤い痣が浮かび上がったんだ、とコウスケは声を潜めて言う。
赤い痣。もちろんそう聞けばアサクラもピンと来る。
――血蝶病。王様が最初の日に説明していたことだ。
魔王によって引き起こされる流行病があって、発症すると身体に蝶の形をした赤い痣が浮かび上がる。
それが全身に広がったとき、その者は魔物と成り果て人々を襲う……みたいな。
確かそんな感じだったよな、ときくと、コウスケは暗い顔をして頷いた。
「……まさかアサクラまでその病気になっちまうなんて」
アサクラよりもずっと沈鬱な表情で呟いている。
アサクラが温めておいたベッドに座るのはちょっと……と拒否って部屋の真ん中に体育座りをしたアカイも眉を寄せて、
「血蝶病って、そもそも国で流行ってる病なんでしょ? なんで礼拝堂に集まった子たちが……それにアサクラが、罹ったりするの?」
と当然の疑問を口にしている。
うーん、とアサクラは首を傾げる。不思議なことばかりで答えが出せるはずもない。
分かるのはただひとつ、ラングリュート王の説明は適切ではなかった、ということだが……それも、実際に王様に会って話せない以上は、どうしようもなかった。
とりあえず、とアサクラは2人の目を見て問いかけた。
「2人ともさ、おれのこと殺しちゃう……つもりだったりとか、する?」
それは本人なりにかなり必死に、気を配った末の質問だった。
何故なら、自分に既に症状が出てしまっている以上は、その可能性がいずれ大きな問題を生むのは明白だったからである。
が――口にした3秒後には、コウスケとアカイは同時に笑い出した。アサクラは仰天する。
「な、なんだよ。笑うようなこと!? おれなりに結構本気で、びびってんだけど!」
「あー、いや、ごめんごめん。思いがけないようなこと言うからさ」
笑みを堪えきれない様子で口元を抑えつつ、コウスケが言う。
「アサクラを殺す、はないよゼッタイ。なぁ?」
そうしてアカイを見遣る。彼女もこくり、と力強く頷いた。
「無い。ていうかアサクラみたいなのに殺人なんてできると思えないから、へっぽこだし」
「なんか変な信頼を寄せられてるな……」
ぽつりと呟くと、再びアカイが笑った。
その日、3人でいくつかのことを決めた。
誰にもアサクラの痣のことは秘密にすること。もちろん血蝶病者にも、他のクラスメイトたちにもだ。
その上で万が一、アサクラの症状が進行するようなことがあったときは、コウスケやアカイが力を貸して安全な場所まで逃がす。この世界のことを何にも知らない以上、あまりに無謀ではあったが……そんなことを、その日は額を突き合わせて何度も繰り返し話し合ったのだった。
病の隠匿という意味では、アサクラの痣の位置は非常に都合が良かったと言えよう。
そもそもふつうに生活する上で、目蓋の裏を他人に見られる機会というのはそうそうない。
例えば目薬を挿すときならば、そういうことも有り得るかもしれないが、異世界には目薬はなかった。それなのでアサクラが血蝶病者であることを周囲に隠すのは、そう難しいことではなかった。
もちろんそれでも本人は、いつ誰かにこのことがバレてしまうか気が気ではなかった。
アサクラが最も怖れたのは、自分を庇って事実を伏せた親友――コウスケとアカイが、共犯として他のクラスメイトに断ぜられるのではないか、ということだ。
カンロジの策によって無事ハルバニア城を脱出し、シュトルに辿り着き、フィアトム城に到着して……それからも血蝶病者の襲撃に遭い続ける日々を送れば、そう思うのは自然なことだっただろう。
自分は本来なら、あっち側の人間だったはずなのに。
それなのに偶然、いつものように寝こけた結果、運が味方した。
いや……天に突き放された、というべきなのか? おれが礼拝堂に行っていれば、少なくとも大事な親友たちを巻き込まずに済んだのに……。
などなどなど。
普段はとにかく明るく、屈託のないアサクラも、このときばかりはひどく悩み、消耗した。それこそ寝られない日もあったほどである。
そんなアサクラを、コウスケはいつも傍にいて、毎日のように励ましてくれた。
「アサクラ、お前はすごいよ。だってぜんぜん血蝶病の痣は広がらないし、症状も出てない。きっと魔物化を拒む強靱な意志の力があるんだな」
コウスケの言うように、もしも「魔物化を拒む強靱な意志の力」なんかが本当にあったとして、それによって血蝶病の進行が遅れるというならば、誰よりも殺人を怖れたトザカ・ナオの症状の進行は、格段に遅かったはずである。
しかし実際のところ、トザカは15人のうち、一、二を争う速度で症状が進んでいた。
つまりコウスケの言葉は真実でも何でもなかったわけだが、受け取った側にとってそれは真実たり得た。
アサクラはコウスケに褒められて、嬉しかったのだ。
彼が恐怖に震え、早々に精神を病まなかったのはそれが大きな理由である。




