181.開かれた門
走っている。
無我夢中に、道を疾走している。
とにかく急がなくてはならなかった。
ハルバニア城の真の門が開かれるまでの猶予は、あと数時間といったところだ。
もちろん簡単に行くとは思っていなかったが――しかし城下街ハルバンでは、予想以上にひどい騒ぎが起こっていた。
前方から、大量の人波が押し寄せてくる。
「逃げろ! いいから逃げるんだ、早く!」
「ちくしょう! 何で俺たちがこんな目に遭うんだよ!?」
「騎士様どうかお助けをっ! 家にまだ子どもが2人居ます!」
「ママぁ……ママぁ……」
怒号に悲鳴。きいていられないような幼子の泣き声もその中には含まれている。
身を切られるような思いだった。本当なら1人ずつに声を掛けて、その悩みの解決に手を貸したい。だけど。
今はそうするわけにはいかなかった。
自分は逃げてくる彼らとは逆の――つまり、災厄の方向へと向かわなければならないからだ。
――タッ、と軽く地面を蹴って、宙へと舞い上がる。
人混みと激突しないよう民家の壁を続けざまに蹴って、まるで壁そのものを大地として走り抜けるようにして道を抜ける。
着地し、振り返ることもなくまた進んでいく。もう城も遠くに見えてきた。
湖に浮かぶその偉容を誇る巨城は随分と懐かしくも感じる。召喚された日のことも、頭の中では少々朧げだ。
でも、もうすぐだ。辿り着ける。ここまで来れば――と一瞬、気を抜いたのを見計らったように、開け放たれた民家の窓からのそり、と黒い毛むくじゃらの何かが覗いた。
「!」
違和感を覚え見上げた直後。
その黒い塊は、窓際から落下してきた。
むしろ止まったら危険だ。
一瞬のうちに判断して、そのまま全速力で道端を駆け抜ける。
背後でドスン! と地面が揺れるほどの音が響いて、肩越しに振り向いてみれば、二足歩行の狼のような外見をしたその魔物は、こちらを見止めてグルル……と低く呻いた。
そのまま、追ってくる。どうやら敵対生物として認識されたようだ。
軽く舌打ちしつつ、武器を取り出そうとしたが……それより前に。
路地裏から光る刃先が鋭く伸びてきた。
あ、と思う間もなく、寸分違わず魔物の首元へとその切っ先が突き入れられる。
『グアアア!』
左から右に。
喉元の皮膚を貫通された魔物が絶叫を上げる。その武器――恐らく槍だろう――は、それでも怯むことなく、横に大きく先端を傾けた。
狼の首と胴体が、容赦なく切断される。
相手を絶命させるための一撃だった。なかなか見事な腕前だ、とやはり感心している暇もない。
路地裏から飛び出してきた顔が見知ったものだったからだ。
「自分はアダン・タイナー! 近衛騎士団のアダンだ。この街には魔物が溢れかえっている、民間人には既に避難指示が出ているっていうのに、君は一体こんなところで何を――」
真面目そうな青年の顔が、不可解そうに歪む。
「……え? 君は――」
申し訳なかったが。
彼が現状を認識するより先に、その場に背を向けることにする。こんなところで捕まるわけにはいかないのだ。
「ちょっ……ちょっと待て! おい!」
慌てた調子の声が追ってくるものの、次第に離れていく。
足の速さでいえばこちらが断然、有利だろう。何せ騎士団の団員は重い全身鎧を纏っているのだ。それに比べてこっちはずっと身軽なのだから。
しかし避難指示か。やはり近衛騎士団の判断は的確だ、と走りながら思う。
彼らもスプーの近くでドラゴン退治に尽力し、怪我と疲労に苦しみながら帰ってきた直後にこんな事態に巻き込まれたのだろうに。
それでも、人々を守るためにまた戦っている。その事実に驚いたし、同時に深い尊敬を覚える。
そう、この街には魔物が溢れている。
それも1や10、なんて生易しい数ではないのだ。
先ほど、屋根の上に登って見渡す限りの街の様子を確認してみたが……肉眼で数えただけでも、ざっと40。
つまり、それ以上の魔物が押し寄せているということだ。それもこうしている今も増え続けている。
自分だって街の近くで2体、街に入ってからは4体もの魔物を倒していたが、その程度では大勢に影響はないだろう。焼け石に水だ。
それにおそらく、ハルバニア城の門が開かれる時間帯になれば一層、魔物の数は増す。
というより、街に這入り込む魔物たちの分布には偏りがあったので、もっと分かりやすい答えらしいものも思いついていた。
あの面倒くさがりそうな女神の声は、「3日後に門を開く」とアナウンスしていたものの……それを正直に信じる道理もない。
――そもそも、ハルバニア城の真の門とやらは、もっと前から開かれていたのではないか?
そしてそこから、延々と、魔物が現れては街の人々を襲っているのだ。
そう考えれば、当て所なく、次から次へと無尽蔵に湧き出てくるのにも納得がいく。
さらにもう少し予想を進めてみる。女神がそうする理由だ。
魔物を出して、ハルバンを襲わせ、そこに住む人々を苦しめる訳……。
ハルバンの住人に特別な思い入れがないのであれば、ハルバンそのものでなく、それを眺める側の人間への圧力、という可能性がある。
それはやはり、神々自身の目的と合致するはずで、それらしきものをその声は既に告げていた。
『3日後、夜明けの訪れと共に――ハルバニア城の真の門を開く。勝者にならんとする《来訪者》はそこに来い。アタシは寛大だから、全員が門をくぐるまでは開けっ放しにしといてやるよ』
女神のまず最初の目的は、門の中に《来訪者》を導くこと。
ならばこの魔物の襲撃は、《来訪者》の「誘導」もしくは「脅迫」のための策と考えられる。
生き残っている全員が門をくぐらなければ、その開けっ放しの門から、魔物は雪崩れ込み続ける。……という寸法だ。
「ハァ……」
ふつうに最低だった。呆れて、溜息しか出てこない。
少なくとも神様のやることじゃないだろう、と言いたくもなるが……実際に今まで、自分が生きてるうちに神様がどうにかしてくれた出来事なんてひとつもなかった。
であればやはり、今回も同じだ。
自分でどうにか決めて、自分でやり遂げること。そうする以外の選択肢はない。
うまく魔物が少ない路地を選んだ甲斐あって。
その後は特に戦闘になることもなく、ハルバニア城のすぐ近くまで到着する。
噎せ返るような血の臭いに鼻を抑えることもなく、周囲を見回す。
「…………?」
しかしそこで、違和感があった。
魔物の数が少ない。というより……斬り殺され倒れ伏す死体はあるものの、生きている個体が居ない。
しかも魔物はやられているにも関わらず、それを行ったであろう人物の姿がどこにも見当たらないのだ。
先ほどまでの街中の喧騒が嘘のように、静まりかえっているのも不思議だった。
城の警備の騎士は居ないのか? 全員、街に駆り出されたのか? 警戒心を高めつつ、足を進めていく。
いくつも、点々とある血の海のような水たまりを避けつつ歩を進め、城と城下街の間を繋ぐ長い一本道を渡り終える。
この状況ではいっそ不気味にも見える、色とりどりの花の咲き誇る庭園の頭上を見上げれば、そこには煉瓦色の城が聳え立っていた。
全方位を取り囲む湖に照らされ、いくつもの大小異なる塔が連なって出来上がったその城を、まぶしい気持ちで見上げる。
「………………」
ひとりでも、ここまで来られた。まずはその事実に安堵する。
だがこんなところで呆けて立ち止まっているわけにはいかない。
「真の門」とやらの場所を突き止めるのが先決だ。きょろきょろと周囲を確認しつつ、正面玄関から乗り込もうとするものの、一旦考え直す。
わざわざハルバニア城が最終決戦の場に選ばれたのだ。そこにだって必ず理由はあるだろう。
《来訪者》にとって城内でなじみ深い場所、といえば限られている。自分が思い出す限りはたった3つだ。
客室と、食堂と、そして礼拝堂。30人全員にとって関わりある場所というなら、やはり召喚された場である礼拝堂か……。
踵を返して、すぐにそちらへと向かう。
裏手にある塔の蝶番は外れていた。それを目にした途端、一度、迷う。
だが迷っている暇はなかった。覚悟を決めて乗り込む。
暗く、ひんやりとした広い空間は、少し埃っぽかった。
後ろ手で扉を閉めると、通常ならば、窓のないその空間は完全なる闇に包まれていただろう。
が、今このときばかりは違っていた。
扉を閉めても、何か、仄明るいオーラを放つものがある。
光に誘われる虫のように、思わず状況も忘れてふらふらと、そちらに近づいていく。
そうしてすぐに、確信した。
目の前に屹立するのは、静々と光る「門」だった。
何度か目にした、エルフが用いるあの扉と意匠は少し似ているか。
だが大きさはまるで違う。比べものにならない。
鉄製の巨大なそれは、大理石の床に填め込まれるようにして埋まっていて、一面の壁を使って天高く突き立っているのだ。
注目すべきは、その下界を睥睨するように示された門は、開いたままであり……その先は一寸先も見渡せない、遙かなる闇に包まれているということだった。
……あった。
これだ。これが、ハルバニア城の門。女神が唱えた、真の門。
今さら、緊張に心臓が騒ぎ出す。四肢の先が震える。
辿り着けた。何とかなった。まず目的の第一段階は、これで果たせたのだ。
フゥー……と息を吐く。
落ち着け。いずれ誰かが、ここに来る。
それを自分はここで待ち構えるのだ。
全部はそこからだ。落ち着け……
おちつ……
ごぷ、と口の端から。
何かが溢れ出したのはそのときだった。
「……っ?」
慌てて拭おうとする。まさか、唐突に涎が垂れたわけでもないだろうけど。
でも違った。そうではなかった。暗闇の中にあって鈍くなった感覚は、その信号を伝えるのさえ遅かったが。
溢れていたのは血液だった。
背後から、腹部を、鋭利な何かに貫かれていた。
「…………お前だったんだな、アサクラ」
恐る恐ると、アサクラは振り向く。
その拍子にも、口元から血が、溢れて……どばっと冗談みたいに溢れてきて、苦しさで窒息しそうになる。
それでも振り向かないわけにはいかなかった。腹が今さら、ねじ切れるような痛みを伝えてきたとしても、目を向けないわけにはいかなかった。
そして見つめた先。
どこか哀れむような目をして、シュウは……言い放った。
「お前が、最後の血蝶病者だ」




