179.守るよ
「だって面白いじゃん? 別の世界ではおれたちと同じ顔したおれたちが、ぜんぜん違うことして、違うこと考えて生きてるんだぜ。いや、もう死んじゃったのかもしれんけど…………ってこれは失言か、悪い忘れてくれ!」
楽しげに話し出したと思えば、後半は泡を食ったような大慌てで訂正される。
俺は思わず、笑ってしまった。アサクラは変わらない。どんなに辛いことがあっても、彼は前を向くことをやめずにいられるのだ。単純に羨ましかった。
「あっちの世界の俺は……カンロジは、何が目的なんだろうな?」
頭の中を整理する意味合いもあって、俺はアサクラにそう訊いてみた。
アサクラは「うーん……」と腕組みをして唸っている。
「ナルミとして死んで、別の女の子として生まれ変わって、また異世界に転生してる……ってことだもんな。
アルちゃんみたいに、神サマたちを殺すことが目的、って感じじゃ――ないよなぁ、きっと。積極的にクラスメイトの数を減らしてるってことは、やっぱりゲームに勝つことが目的なのか?」
「最後のひとりになること?」
「そうそう。……あれ。ていうか何で、カンロジさんって生まれ変わったの?」
いま気づいた、とばかりに目を丸くするアサクラ。
アルもそこには一切触れようとしなかった。が、俺には答えらしいものが既にわかっている。
というより、それは俺がカンロジの正体に気づいた理由のひとつでもあった。
「それはたぶん、本人が口にしてたスキルの効果だと思う」
「……え? どゆこと?」
「ほら。カンロジが、ヤガサキのフリをしてたときに言ってただろ?」
――『私のリミテッドスキルは"再興再証"っていうの。
スキルの効果は生き返ること。文字通り死んでも生き返る。それだけだよ』
「え……あれってヤガサキのことじゃなかったの!!?」
「声が大きい……」
アサクラの声がキーンと鼓膜に響いて思わず耳を塞ぐ。
しかし当の本人はまったく気にしない素振りで、「はーなるほどな!」などと激しく頷いている。
「ヤガサキさんは――たぶん血蝶病の誰かに、殺されちゃってたんだもんな。それと入れ違いでやって来たカンロジが、ヤガサキさんのスキルを知ってるのはおかしいし……あれは前の世界の自分が持ってたスキルの話だったのか」
「だと思うよ。カンロジなりに、ヒントのつもりだったのかもな」
スキルの力によって生き返った結果。
アルファ世界のナルミ・シュウは、元の世界とはまた別の――ベータ世界のカンロジ・ユユとして、生きていくことになったのだ。
そして何の因果か再び、異世界へと召喚された。
自ら「自分の正体を当ててみろ」なんてクイズを出していた時点で、カンロジは自分の正体がバレるのを恐れていなかったのだろう。
むしろ、楽しんでいたのかもしれない。俺がそのクイズに正解した瞬間さえ、その端整な表情は生き生きと、愉快そうに輝いていたのだから。
「ははぁ。じゃあつまり……ってゴメン、俺急用だ」
「え?」
急用、という言葉通りあまりに唐突に。
すっくとアサクラが立ち上がる。置いてけぼりの俺はポカンと、そんな仲間の姿を見上げる。
いや、まだ話の続きだったろ。
と文句を言うヒマもなく、アサクラはさっさと部屋を出て行ってしまった。
「はああ……?」
どうしたんだいきなり。
本当に何か急ぎの用事があったのか? 俺は首をひねりつつ、隣のナガレに視線を移す。
「なあ、ナガ――」
苦笑しつつ、アサクラの行動についてナガレにも訊いてみようとしたときだった。
冗談みたいに。
ぽろ、とナガレの片目から、涙の雫がこぼれ落ちた。
「え……」
あまりの出来事に呆気にとられる。
何が起こったのか分からず唖然とする俺の視線に気がついたのか、ナガレははっと目を見開き、ごしごしと乱暴に服の袖で目元を拭う。
止める間もなかった。赤くなってしまった痛々しい瞳は、やるせなさそうに視線を彷徨わせ、結局床へと落ち着いた。
「……ごめん、なさい」
「…………何で、謝るんだ?」
理由がわからない。
突然の涙の訳も。謝罪の理由も。
俺は必死に考えて……考えた末、目を背けようとしていたひとつの事実に突き当たることになった。
俺を前にしてナガレが泣く理由。
先ほどまでの会話を考えれば――その後、彼女の様子がおかしくなったのも含めれば、自ずと答えらしいものへと辿り着く。
でもそれを、言葉にするのは俺にとっても苦痛だった。そのせいか問いかける声は僅かに、震えてしまった。
「俺のこと、怖い?」
別世界の俺は、クラスメイトのほとんどを虐殺したとアルは言った。
その中には、ナガレや、ナガレの親友のリンも居たと証言したのだ。
思えば、アサクラやネムノキの反応の方が異常なのだ。
たとえ別の世界だからって、まったくの別人として区別する方が難しいはずだった。
もちろん俺に、その過去の実感がないとしても。それでひどい目に遭ったと聞かされれば、ナガレが俺のことを恐れるのだって……当然なのかもしれない。
「ち――」
しかし伸びてきたナガレの腕が、俺の左手を掴む。
びっくりして、反射的に身を引きかけた。するとナガレの唇がわななき、「あ……」と、母親に置いていかれた子どものような、か細い声を出す。
「違う。そうじゃ、ないの。わたし……」
やるせなさそうに眉を下げて、ナガレが必死に否定する。
俺の手に縋りつくように触れる両手は、ひどく震えていた。そして熱かった。それは彼女が流した涙と同じ温度だったのだろうか。
俯いた唇から漏れ聞こえたのは、再びの謝罪の言葉だった。
「ごめんなさい。違うの。シュウはちっとも、悪くなくて……」
ほとんど嗚咽同然の声音だった。しゃくり上げて、ひっくり返って、苦しそうで見ていられない。
表情をひどく歪めたナガレに、俺はゆっくりと語りかける。
「……いいんだ。ゆっくりで。焦らなくていいから」
少しは余裕ができたのだろうか。
何度か深い呼吸を繰り返して、汗ばんだ顔を、やがてナガレは俺へと向けた。
その頬を、涙がぽろぽろと伝っていく。それでもナガレは先ほどより幾分か落ち着いた声で言った。
「安心、したの。わたし」
「……安心?」
「自分が、リンを、殺してない世界があるってことに。……安心した。最低、だ」
そんなの。
そんなの、謝るようなことじゃないのに。
そう言いかけて、一度言葉を呑み込む。
ナガレにとって、親友を殺してしまったという事実は一生消えない傷なのだ。
俺がどんな言葉を伝えたって。それに何度、ナガレが頷いてくれたとしたって。
――その傷を俺は消せないし、ナガレだってそんなことを望んでない。
「……謝るようなことじゃない」
結局俺は硬直したまま、それしか言えなかった。
ナガレがふるふる、と首を振る。
「シュウ。わたし、死ぬのが怖くないの」
切実な瞳が至近距離から俺を見つめて、その大きな瞳の縁にはまた涙が溜まっていく。
「シュウがせっかくあのとき、手を掴んでくれたのに。あなたが、生きてるなら、いいやって。……ごめんなさい」
三度の謝罪を聞き終わる前に。
俺はナガレのことを抱きしめていた。
そうせずにいられなかった。
それほどまでにナガレの表情も、言葉も、哀しくて仕方がなかった。
もうこれ以上、聞いていたくはないほどにだ。でも俺がそんな卑怯な理由で接触したなどとは、ナガレは夢にも思わなかっただろう。
「シュウ……?」
どこか不安そうな声で、ナガレが俺の名を呼ぶ。弱々しく掠れた声音だった。
俺はその華奢な身体をただひたすら夢中で、抱きしめる。
ナガレの身体は俺の両腕の中にすっぽりと収まってしまった。行き場のない手が宙を迷っていて、本当はその腕ごと掬い上げたかったのに、そうすることはできず必死に言葉を吐き出した。
「俺がナガレのことを守るよ」
小さく、腕の中の女の子が震える。
「ナガレも俺を、守ってくれるって言った」
「……うん」
「でも、いいんだ。ナガレが無事ならそれで」
ああ、勝手なこと言ってるよな、と自分でも思う。
だけどどうしたって、俺はナガレに生きていてほしい。
たとえこの先どんなに辛いことがあったとしても、生きて、できれば泣くより多く、笑っていてほしかった。
「無理しなくていい。辛いならここで、待っててくれ。俺は必ず帰って――」
――――そんなことを、本当に、口にしていいのか。
何も確定していない未来を、身勝手な約束に書き換えて。
だって俺はリセイナさんにだって頷けなかったのだ。
気軽に言葉にして、もし、果たせなかったら? ナガレはどうなる。
ここで永遠に俺を待つのか? また泣きながら過ごすのか?
たった……ひとりで?
そんなほんの一瞬の逡巡で。
口ごもった言葉を、まるで遮るようにして。
「――大丈夫。わたしも一緒に行く」
背中に、温かな感触が宿る。
ナガレの両腕が、俺の背中を抱き留めていた。
これくらい密着したら、お互いの心臓の音もきこえるかもしれない。
そんなことを考えた直後、
「決めたから」
それから、グイッと思いきり、肩を反対方向に押された。
「!」
久しぶりに見つめるナガレは、もう泣いてはいなかった。
その代わりというべきか、輝く瞳の中で俺は、かなりポカンと間抜けな顔をしていた。
……いや、もちろん、あのまま抱きしめ合っているわけにはいかなかったんだけど、でも。
などと思っている間に、真剣に引き締まった顔でナガレが言い放つ。
「一緒に来て欲しいって、あなたが言ってくれたから。だから、行くの。どこだって、ついていくの」
俺はただただ圧倒されていた。
どんな言葉の扱いだって丁寧に、臆病に行うからこそ、ナガレは物静かな少女だった。そのはずだった。
でも今、言い切ってみせるナガレの姿は眩しかった。俺の目には輝いて見えた。
そうだ。――彼女の言葉はいつだって、俺に力をくれる。
「それでも……シュウの背中が見えなくなりそうだったら」
しかしそこで急に表情を暗くして、言い淀むナガレ。
俺は何だろう、といろんな意味でどぎまぎしつつ、訊いた。
「だ、だったら?」
「小石を、投げます」
…………………………こいし?
……どういうこと? と俺は首を傾げる。
「……小石って、あの小石?」
「うん」
真剣な表情で、ナガレが頷く。
俺はしばらく、固まっていたが……それから、ふっ、と噴き出した。
気がつけば声を上げて笑っていた。
「あ、あはは! ナガレって、なんか、突拍子もないというか……何か……おもしろいね……」
「ええ!」
笑われるのは想定外だったのか、ショックを受けた顔でナガレが飛び上がる。
その弾みに、俺の肩を掴んでいた両腕が離れて、慌てた様子で上下にブンブンと勢いよく振られた。パニックがすごい。
「あのね、えっと、大丈夫なの。投げるっていっても、足元にだから。シュウにぶつけたりしないから」
「い、いや。そういうことじゃなくて……くく……」
「ま、間違ってぶつかっても痛くないサイズ、だから! なっ、何でもっと笑うの……!?」
真っ赤な顔で慌てふためくナガレには悪かったが、俺はそうしてしばらく笑っていた。
そうしていると嫌なことも、辛いことも、しばらくの間だけ忘れられている気がしたし……ナガレにとってもそうであったなら、と願わずにはいられなかった。
本当は、考えないといけないことも、決断しないといけないことも、山のように残されていた。
その中でも俺にとっては最も大きな問題があった。俺自身が口にした、その可能性だ。
――もしもユキノが、最後の血蝶病者だとしたら。
その可能性がゼロではないと言っておきながら、アルはその先をきかなかった。
たぶん彼女の目的にとっては、些事に過ぎないからだろう。
でもナガレやアサクラ、ネムノキが口にしなかったのは、単純に、彼女たちの気遣いなんだろう。俺は仲間のやさしさに甘えて、結論を先延ばしにしたのだ。
俺の目的は、血蝶病者をひとり残らず殺して、ユキノを幸せにすること。
それは今も昔も、変わらないままだ。
だからこそ。もしもユキノが、最後の血蝶病者だとしたら――俺は。
……密かに。
腰の短剣の柄を、そっと撫でる。
だけど今だけは、このモラトリアムの時間を笑って過ごしていたかった。
+ + +
次の日。
ひとりの人間が、俺の前から姿を消した。




