162.アルファの結末
「……で、彼の父親の再婚相手の連れ子ちゃんが、ボクに何の用なの? 言っておくけど、ボクもう何年も周ちゃんには会ってないよぉ?」
立ったまま話をするのは疲れてきて、ボクは抜け出したばかりのベッドの上に座り込んだ。
乱れたシーツは生ぬるい温度を保っている。ボクはわりと寝相は良いほうなのだが、最近はそうでもないのだ。
「……ええ、はい。それは承知しています。しかし厳密には、私は鳴海雪姫乃本人ではないのですよ」
まあ、そうだろうねえ。
ボクは虚空に向かって頷く。もしこの声の主が実在する鳴海雪姫乃であり、現在中学1年生である彼女がボクの自室に忍び込んでいるとするなら、合歓木家のセキュリティは地に落ちていることになる。
そして未だ両親どころか、セキュリティ会社の人間がこの部屋に来ない時点で、その可能性はほぼ皆無。
この、雪姫乃ちゃんを名乗る人物は、実体を伴う人間ではないのだ。
たぶん幽霊とか? 生き霊、とか? そういう非科学的なものを目にしたことこそないものの、「見られるなら見てみたい」くらいのスタンスのボクにとっては、それで何か不都合があるわけでもない。
「じゃあ、キミは何なの?」
ボクは改めてそうきいた。
しかし雪姫乃ちゃんの回答は、ボクの予想をはるかに超える代物だった。
「私はこことは別の世界ーーアルファ世界の雪姫乃です」
……?
アルファ世界? ボクはその言葉の意味が理解できず、しばらく固まる。
アルファは、ギリシア文字のひとつで、意味合いとしては数字の「1」を表す。転じて始まりとか、最初といった意味を持つ文字だ。
アルファ以降はベータ、ベータの次はガンマ……という風に続いていく。
つまり、雪姫乃ちゃんは、自分はボクらが認識するこの世界とはまた別のーーいわゆる、最初の世界ーーなる場所からの来訪者だと、そう名乗りたいのだろうか?
ボクは開きかけた口を一旦閉じる。
短気はいけない。冷静に対処しよう。同い年といってもこの子は周ちゃんの妹。
いずれボクにとって義妹になる可能性もなきにしもあらず。うん、落ち着いて、穏やかに接してみよう。
ボクは微笑みながら、言った。
「雪姫乃ちゃんはちょっと早めに厨二病を発症したんだねぇ。すごいすごい」
「ななな、ナナナナ」
しかし雪姫乃ちゃん、なんかバグったような悲鳴を上げている。どうしたんだろう急に。
「あ、あなた、言うに事欠いてちゅ、厨二などと…っ! 失礼にも程があります!」
「程がないよ、大丈夫。よく考えたら偶然にも周ちゃんの妹になれただけの幸運な女に優しくする必要がないことに気がついたし」
「ここぞとばかりに本音を暴露しないでください! いつまでも話が進みません!」
たしかにさっきから、ほとんど話題が進んでない。無駄話が多い子だなぁ(すっとぼけ)
姿を見せないまま、雪姫乃ちゃんを名乗るその声はコホンと咳払いしーーそれから、続ける。
「……といっても、アルファ世界の住人であった鳴海雪姫乃張本人でもないのです、私。いわゆる、その、神さま的な存在でして」
「……そう、なんだ」
思わず哀れむような声が出てしまった。
雪姫乃ちゃんはしばし言葉に詰まったようだが、怒りか羞恥かに震える声音でどうにか言う。
「あなたは、私個人のことにはまるで興味がないと思いますのでーー」
うん、それは間違いない。
「まず、私の世界の、兄の話をします」
「ぜひ聞かせて聞かせて」
ボクはシーツの上に大人しく正座をした。
複雑そうな沈黙を挟みつつ、声は述べる。
「……私と兄。それに木渡中学校三年二組の生徒は、修学旅行に向かうバスの中で、乗用車数台と共に玉突き事故に巻き込まれました。
その事故で死んだ私たちは、異世界に……【キ・ルメラ】と呼ばれる世界に、転生したのです」
+ + +
それからの説明は、とにかく衝撃の連続だった。
衝撃の連続すぎて、話の最中にボクは5回ほど居眠りをした。雪姫乃ちゃんの話はとにかく長かったのだ。
彼女は「自分や他人の記憶を好き勝手に引き出して再現する」という能力を持っているそうなのだが、それはアルファ世界でないと使用に制限があるだとか、使えたとしてボクの脳に負担がかかりすぎるだとか様々な理由を口にし、結局口頭であらましをすべて説明してくれたのである。実にアナログ。
それだけなら、微笑ましい空想の話だなぁ、という感想で済んだのだけれど、しかしそんな言葉で終わらせるには雪姫乃ちゃんの話はあまりに壮大すぎた。荒唐無稽でありながらも一切の容赦のない、現実の物語だったのだ。
簡潔にまとめるなら。
こことは別の世界で、周ちゃんや雪姫乃ちゃんは死亡し、剣や魔法がある世界に転生した。
そこで、超常的な存在から「スキル」を与えられた。その時点では、「スキル」を使って楽しく異世界で生きてこう、って感じに、わりと円満な雰囲気だったそうだ。
しかしそれも、ある出来事から一変する。
雪姫乃ちゃんが「血蝶病」という、不治の病を発症したのだ。それは人間がいずれ人を襲う魔物になってしまうという恐ろしい病だった。
多くの人間が、こぞって雪姫乃ちゃんを殺そうとした。
周ちゃんは、それら襲撃者を次々と撃退した。妹である雪姫乃ちゃんを必死に守ろうとしたのだ。
だがその戦いの終盤で、彼は命を落とした。
生き残ったのは病に侵された雪姫乃ちゃんと、もう1人だけだった。
そして生き残った2人に、無慈悲にも真実が告げられる。
これが、異世界を舞台に行われるデスゲームであり、スキルを与えた存在は、そのゲームの主催者であったこと。
血蝶病という病も、ゲームの円滑な進行のためのツールのひとつであったこと。
ゲームの勝者には商品として、願いを1つ叶える権利と、神の末席に加えられる権利が与えられることーー。
……それらを語り終えて、最後に、どうしようもない最終回の結末を、彼女は口にする。
「そうして私は、鳴海雪姫乃だった私は……神さまになりました。ゲームの参加者から、ゲームの主催者側に回ることになったのです。めでたしめでたし、ですね」
その頃になると雪姫乃ちゃんの声はかすれていた。
単に説明に疲れたのかもしれないし、それ以外の理由があったのかもしれない。極力感情を排除するような客観的な語りだったから、その実際の理由までは分からなかったが。
黙ったままのボクに、雪姫乃ちゃんは用意してきた台本を読むように滑らかに言い放つ。
「このベータ世界でも、同じように、神々はゲームを開催しようとしています。
今のままでは、このベータ世界線の兄さんや、私……2年後、木渡中学校三年二組の生徒になる全員は、また異世界に送り込まれてしまいます」
「…………」
「それを止める術は私にはありません。だからこそーー私はあなたに取引を持ちかけに来たのです。合歓木空くん」
「……なんでボク?」
結局問いは、いちばん始めのところに戻ってくる。
話を聞いても、やはり納得がいかなかったからだ。
「それ、その役目。ボクである必要ないよね? 自分がそんな大役に相応しいとは、ちっとも思えないんだけどぉ……」
もちろん、ボクにとってかけがえのない存在である周ちゃんがとんでもないトラブルに巻き込まれるというならーー黙って見過ごす理由はない。
しかしそれでボクに、いったい何ができるのだ?
現実世界で、それなりの権力や財力があればどうにでもなる問題ならば、きっとボクや合歓木家は周ちゃんの役に立てる。その自負はある。
だけど雪姫乃ちゃんの話を信じるならば、その異世界に渡ってしまえば、そんなのは何の意味も持たない。お飾りにすらならない、遠い過去のこととなるだろう。
「いいえ、あなた以外にはあり得ません」
だが雪姫乃ちゃんの口調には揺るぎがない。強い確信があった。
ボクはますます戸惑った。そう言い切れるだけの根拠を、示してほしかった。
そんなことを考えていた矢先、
「最近、夢見が悪いのではありませんか」
どきり、とした。
その通りだったからだ。最近は嫌な夢ばかりを多く視る。
内容はーー何だったろう。後味の悪さを覚えているばかりで、細かなことは記憶していない。
でも、本当に何となくだが……その夢は信じられないほど絶望的で、狂っていて、恐怖に値するものだったのだ。
夢の中の合歓木空はその痛みに、ただ身を委ねていた。おそろしく、無気力だった。
まるで呼吸をするだけの人形のようだった。誰の説得も彼には響かないのだ。
そうだ確か、食事は喉を通らないから、眠らされてどこかに運ばれて……チューブに繋がれて、命を繋ぐだけの、生きながら死に向かうだけの、ナニカに成り果てていた。
その彼の、濁りきった眼球だけが、目に見えないなにかを追うようにグルグルと回っている……滑車みたいに……夢の中のボクはそれを呆然と、眺めていた……
心の中を見透かしたように、雪姫乃ちゃんが言う。
「その夢も、その髪や瞳もーーアルファ世界のあなたの、苦しみです。
あちらの世界のあなたが、鳴海周を喪ったあなたが、感じ続けている苦痛を、あなたは共有してしまっている」
だから何だよ、それは。
キミは何が言いたいの?
ーー声にならない問いかけにすら、その声は、応じてみせた。
「合歓木空。あなたは唯一、異世界で繰り広げられるゲームに参加しなかった生徒なのです」




